第二十一話 孤独(1)
戦いの音がまだ聴こえる。
私がこうして姫の手を握っている間にも、多くの人が傷付いているのだろう。どうか無事でいてほしいと湧き上がる不安に蓋をした。
リーリン様の両手は震えが収まらず、顔を上げる余裕もないようだ。ここは安全だから、今の内に気を休ませてほしいのだけれど。
付き人たちが控室の扉の前で警戒しているのを横目に、私は彼女に言った。
「大丈夫ですよ、深呼吸はできますか」
返事はなかったが、彼女は大きく息を吸って吐く動作を繰り返す。先程より幾分か落ち着いてくれたようだ。
「トキノは怖くないの」
鳴り渡ってくる僅かな轟音に紛れてリーリン様がそう尋ねた。表情は見えない。ただ何かに縋りたいという想いが伝わってくる。
私は逡巡した後、彼女の問いに答えた。
「怖いです」
「そうには聞こえないわ」
「そうでしょうか」
「あなた、心から彼を信頼しているのね」
意味深長な彼女の言葉に首を傾げる。その物言いは、まるでリーリン様が誰も信頼していないようだった。
千田くんに彼女の家系について聞くなと言われていたけれど、気にならない訳がない。
パーティ中もあんなこと――「皆そう、リーの顔色ばっかり見て、本当の事を言ってくれない。リーがフェイト家だからって皆嘘を吐くっ」――を言っていた。尋ねてはいけない理由の大体は見当がつく。
胸の奥で千田くんに謝り、私は膝を付いて姫に問うた。何故そのようなことを仰るのかと。
リーリン様は逡巡したのち重い口を開いた。
「リーが魔力を持っていない出来損ないだから」
フェイト家は魔法界の中でも名高い優秀な魔法使いの一族。
存亡の危うい他の一族を傘下に入れて何百年もの間、その地位を保ち続けていた。周囲からの信用も厚く、いつしか彼等は「憧れの的」として見るようになったそうだ。
やがて月日が流れ、フェイト家は子宝に恵まれなくなった。一時、家系の途絶える危険が背後まで迫ってくることになる。
幾度の死産を目の当たりにし、傘下の者たちも面の憂色を隠せずにいた。そんな中やっとの思いで生まれた後継ぎの女の子がリーリン様だった。
溢れる期待と過度な愛情で幼少期を過ごした彼女だったが、ある日、傘下の者の立ち話を聞いてしまったらしい。
「聞いたか? ご令嬢、もう五つになるのにまだ魔法が使えないって」
「噂だと魔力が欠片もないんですって」
「魔法が使えない魔法使いだなんて洒落にならないな」
「出来損ないはいらないのに。ご主人も苦心しておられる」
そして。
「生まれた意味、ないじゃない」
その時受けた衝撃はあまりにも大きく、まだ幼い彼女の心や人格を踏みにじるのに十分過ぎた。
自分には生きる意味がないと、彼女は思い知ったのだ。
存在を否定されたリーリン様は、盗み聞きしたことを必死で隠し、皆の前ではいつも通りを取り繕った。周りの魔法使いたちが口々に「未だ魔法が使えないのは子供だから」と言われ続け、嘘だと理解していても阿呆な皮を被ったままでいた。
それでも定期的に行われる会合やパーティでは、フェイト家の次期頭首として表舞台に立ち、仕事で忙しい両親の代わりに家系の顔をする。脳髄に猛る失望の炎を秘めて。
しかし七歳の時に転機が訪れる。千田くんとの出会いだった。
当時彼は十一歳で、母親が魔女狩りに利用される丁度、半年前だったらしい。
魔女であるのは母親だけであった筈なのに、彼等は家族ぐるみでフェイト家と交友関係を結んでいた。その頃の千田くんは明るく穏やかで、傷ついたリーリン様にとっては良い存在となったそうだ。
彼女の家系の間で交わされる陰口を聞きつつも、彼は本心のままで接してくれた。嘘を吐かなかった。思ったことを率直に話してくれた。
「リーはさっきゅんに救われたの」
世間体がどうとか、大人の都合がどうとか、子どもには関係ない。純粋に千田くんはリーリン様を支えていたのだろうし、またリーリン様も傍に居てくれる彼を深く信じていたのだろう。
だがそうしていられたのも束の間だった。
例の出来事が、彼に襲い掛かった。
元より千田くんの家系(シュレイア家)は裏切り者であるということで有名だったため、魔法使いの界隈でもその報せは瞬く間に広まった。
勿論その話はフェイト家にも、リーリン様の耳にも届いた。
悲劇の後に開かれた舞踏会。
そこに居たのは一人の少年のみで、以前の仲睦まじい家族の姿はない。年相応の応答も、一笑を浮かべもしない彼を魔法使いたちは奇異の目で見ざるを得なかった。
視界に映る全員が敵であるように睨みつける彼に、リーリン様でさえ恐怖を感じたそうだ。
「フェイト家が居たというのにシュレイア家を孤立させた。槭さんを独りにさせてしまった。悪いのは、気づけなかったリーたちなのに」
リーリン様は俯いて、ぽろぽろと涙を零しながら言った。
ひとりぼっちを知っている彼女だからこそ、孤独の手に掴まれた千田家の気持ちを、特に彼の母親の気持ちを痛感している。
まだ彼女は十二歳の子どもだというのに。
リーリン様は、自分の周りにどれだけ人がいても、その口から発せられる言葉が全て嘘だと知っていたから愛情に飢えていた。
反対に千田くんは、自分の周りには人などおらず、むしろ害をなす可能性しかないから誰かを信じず孤独を生きていた。
似た者同士なんだ、二人とも。
最初から他人を見限ってしまうところが本当によく似ている。不器用で、独りは淋しいと言えずに強がって生きてきたところも。
私一人では、きっと知ることができなかった。
「な、なんでトキノまで泣くの?」
リーリン様は潤んだ瞳を瞬かせて驚く。膝をついたままの私は、幼い姫の顔を見つめるので精一杯だった。
どうして涙が流れているのか分からない。感情移入したつもりはないのに何故か胸の辺りがとても苦しい。
でも一つ言えるのは。
「すごいです、貴方たちは」
幼少期の頃から誰かを頼ることもできずに、今に至るまで強く生きていた二人が眩しく見えた。もし私が彼女たちの立場だったら到底生きていけない。人間不信になってしまう。
心の淵から、尊敬に近い想いが零れた。
淋しがり屋の二人の支えになりたいと思った。
私は魔法が使えないし、気配りも下手で立ち回りなんか以ての外。だからこそ役に立ちたい。何もできないけれど、傍にいることはできる。
短くてもいい。この人の心の拠り所になれたなら。
「もう独りではありませんよ」
リーリン様は酷く戸惑ったような、それでいて嬉しそうな表情になって頷いた。