第十八話 悪魔の悪戯(2)
「でも」
この場の空気にそぐわない否定の言葉が口を衝く。
ハルデはじっとこちらを見ているだけで、何も言おうとはしなかった。
私は今までの想いを全て声にする。自分でも分からなかったことが、今なら分かる気がした。
「自分の意志なら良いでしょう」
殺されるかもしれないから。
彼の命が奪われるかもしれないから。
怖いから。
死にたくないから。
それだけではない。そんな理由だけではない。
私は、魔女の血を継いだ彼の凄惨たる過去を知った時に決めたのだ。
彼の意志とは関係なく、私は隣に居なくてはいけないと。
父親を殺され、母親を忌むべき相手に奪われ、裏切り者の名を背負った彼は、孤独に生きる道を選んでいた。贖罪の為に大罪を犯すことに決めたのも、その過去が背を押したのだろう。踏み誤るその前に、私があの人を引き止めなくてはいけない。椿妃さんが託して下さった役目だからという理由もある。
でもそれ以上に、私は。
「過去に縛られる彼を解放してあげたいと思ったから」
私が千田くんを救わなくてはいけない。
どんなに彼が私の伸ばした手を拒んでも、私は必ずあの手を掴んでみせる。今はまだ触れることさえもできないけれど、いつか起こってしまう罪の償いを止めるために伸ばし続ける。
たとえ彼の手が、誰かの血に濡れていたとしても。これから先、誰かの血で濡れるとしても。
悪魔は暫く黙っている。表情のない顔でゆっくりと瞬きをしていた。
まるで作業のように弁当を胃袋に押し込めると丁度、予鈴が廊下に響き渡る。もうそんな時間かと腰を上げると、ぐいっと左手首を掴まれた。
あまりにも強い力だったから咄嗟に彼の方を振り返る。掴んでいるのは勿論、ハルデだった。
彼は真剣な眼差しから一転、とても愛らしい笑顔で言う。
「ぼく、ときのちゃんのこと好きになっちゃった」
悪魔の笑みではない。真っ直ぐに飛んでくる矢のような、子供らしい邪気のないものだ。
その表情と言葉に、私は口を半開きにしてしまった。
・
・
・
「ありがとう千田。お陰で早く助けられたよ」
優し気に青年はそう言いながら、頬にへばり付いた赫を拭った。腕にも同じような赫が飛散している。
彼の後ろには心底、安堵した様子で抱き合う女性たちと子供がいた。
「こっちこそ拷問手伝ってもらったんだ、お互い様」
返事をし、自分も服に付着した血に魔法をかける。赫は布地から離れると崩れるように姿を消した。
俺はたった今、仕事を終わらせたところである。先日出会った魔法使いの青年、隼人の家族を狩人から救出したのだ。
泉から人を殺しては駄目だと言われたため、命までは取らないではおいた。まぁ狩人たちの動きを知るのに多少、手荒なことはしたが。
「おにーさん! 助けにきてくれてありがと!」
まだ年端のいかない少年と少女が足元に駆けてくる。少し反応に困ったため膝を折り、目線を合わせてやると二人は更に笑った。
「本当にありがとうございます、もう駄目かと思っていたんです」
二人の背後から母親と祖母らしき人物が寄ってきた。ボロボロにほつれた袖で涙を拭いている。
「……どういたしまして」
ぎこちなく返す。彼等は次に隼人の方へと視線を向けた。
「ハヤトにーちゃんもありがとねっ」
「おう。でも守れなくてごめんな」
「良いのよ、こうやって生きているのだし」
やっと再会を果たした家族は、幸せという単語が酷く似合う雰囲気で笑い合っていた。
一方、俺は目を逸らす。純粋な目で彼等を見ることができない。心中にある大きな傷に、塩を塗り込まれている気分だった。
「そろそろ帰る。お守りを使い魔に頼んでるからな」
視線を向けられないまま立ち上がる。箒を呼び出すと間もなく空中へと浮かんだ。
隼人たちの何度目ともなる感謝の言葉が背を掠めていく。聞こえなくなると、どっと頭が重く感じた。
あれが家族か。
それは無意識に声になって風に飛ばされていく。
自分で言った癖に、その言葉に対して苛立ちを覚えた。羨ましがっている自分に腹が立ったのだ。
同時に、まだそんなものに憧れを抱いていたのかと失望する。
柄を握る手に自然と力が籠もった。
秋の終わりを告げる風が横切る。
学校付近に着くと既に、生徒がわらわらと校舎から出ていっていた。
もう放課になってしまったのかと思いつつ校門の時計に目を遣る。するとその近くに見覚えのある姿が歩いていた。
彼女は相変わらず無表情だ。俺が居ても居なくても微動だにしない端正な顔は、冷たい風に晒されて少々赤くなっている。
「泉」
名を呼ぶとすぐ、彼女はこちらを向いてくれた。
「千田くん」
抑揚のない平坦な声が返ってくる。何も変わりなさそうで良かった。
彼女は俺の傍に寄るとすぐ尋ねてきた。
「大丈夫だった? 怪我、してない?」
声音に心配の二文字が滲んでいるが表情は全く変化なし。迷いのない一直線の視線が絡まってくる。
「大丈夫。相手以外誰も怪我しなかったし、情報も手に入った。つーかハルデはどこ行った」
「あぁ、ここだよ」
彼女はどうしてかスクールバッグの中を見せてきた。覗き込むとそこには、緑のタオルに包まった子猫が眠っている。こいつ、主が人助けしてる間に何寝てんだ……それもお前が寝たら誰が泉を守るんだよ。
薄情な悪魔に対する怒りは絶えず湧くが、彼女は子猫の寝顔を見て静かに微笑んでいた。
「今日はハルデに色んなことを教えてもらったの」
彼女はそっとチャックを閉めると言った。
何をと訊くと彼女は一言「内緒」と返す。なんだよ、どいつもこいつも。
俺が不満そうにしているのを見兼ねたのか、泉は考えるような素振りをして一歩近づいてきた。
「千田くんは私の事、どう思ってる」
「は?」
唐突な内容の問いかけに、俺は反射的に訊き返してしまう。しかし彼女はもう一度同じ言葉を口にするだけだ。
じわじわと羞恥心が這って来るのを感じる。速まった心臓が煩いのに、脳内には静寂が広がっていた。
「……大切な保護対象」
動いた口は思いの外冷静だった。予想通り、泉は質素な返事を口にする。しかし何故だか彼女の顔色が落胆に近く見えた。
「ごめんね、変な質問しちゃった」
無感情の声色が乾いた風に攫われる。喪失感に似た胸の寂しさがざわついた。
「ハルデに何か悪いことでも吹き込まれたんじゃねぇよな」
「悪い事ではないと思うけど」
表情の変わらない女子高生と目付きの悪い男子高生が並んで歩き出す。
端から見る者の目には、楽しそうでないように映るだろう。しかし俺にとって、この人の隣に立つことは嫌いじゃない。むしろ居心地が良い。変な気を遣っても遣わなくても、同じ反応しか示さない彼女だからだ。
先程の泉の問いへの答えは、間違いではない。だがそれ以上に思っているものがある。いつか目を見て言えるだろうか。
「どうかした?」
上目遣いで泉が訊く。見覚えのある、その濁りのない瞳に俺は首を振った。
同時に募る想いにそっと蓋をする。言い出しそうになった本当の答えは、彼女に伝えるべきではないと密かに息を吐いた。
お前が好きだ。
言ったとしても、きっと彼女は首を傾げるだけなんだろうな。




