第十八話 悪魔の悪戯(1)
四校時目、数学A。
私の視界の中で浮遊する人影が一つ。
「ここ次のテストに出すぞ。寝てる奴らいいかー」
ただでさえ無機質な教師の声が、教室内を行ったり来たりする人影の所為で更に遠ざかっていく。自由気儘に飛び回るそれを、私は目線だけで追っていた。
人影の頭上では二つの三角耳が揺れている。ゆるりと尻尾がうねり、背にある小さな翼が上下した。
チャイムが鳴る。
集中できないまま授業が終わってしまった。
「授業中に悪戯しちゃダメって言ったでしょう、ハルデ」
浮遊していた人影を捕まえ、教室の隅に連れてくるとそう叱った。猫耳を反らし、私の注意に彼――ハルデは頬を膨らませる。
「えーやだよ。さっきも言ったじゃん、悪魔の仕事は人の欲で遊ぶことだって」
「ダメなものはダメ。ここには皆、勉強をしに来ているんだから」
納得がいかなさそうに眉根を寄せると、彼はぷいっとそっぽを向いてしまった。猫耳が思い切り後方へ反らされている。
私は小さく肩を竦めると、黒板の上に掛けられた時計に視線を遣った。胸には黒い綿飴のような不安が立ち込めている。
今日は一日、千田くんが傍にいない。
彼がいない事に対しての不安ではない。彼自身が心配なのだ。
今日は魔法使い・隼人さんとの約束を果たしに遠出している。詳しくは話してくれなかったが、狩人の人質にされているという隼人さんの家族を助けに行ったのだ。
そこから考えると彼は、敵の本拠地に足を踏み入れるのだろう。
本人曰く大した事でないようだが、私は曇った顔を隠すことができなかった。仲間意識の強い彼のことだから仕方ないのかもしれないけれど。
千田くんがいない代わりに私の護衛をする事になったのが、使い魔であるハルデだ。
いつもの子猫の姿では学校に長居できないため、普通の人には見えない本来の姿でいることになっている。
が、それを良い事に彼は悪魔の仕事(どう見ても悪戯)をしていた。先程の授業で居眠りをしたていたクラスメイトが多かったのは、大体この悪魔の所為だ。
そんな調子で、午前の授業は睡魔が宙を泳いでいた。教師も欠伸を噛み殺していたし、みんな可哀想だ。
「ていうか、ときのちゃん。ぼくの姿って君にしか見えていないんでしょ。ぼくと話してて大丈夫なの」
顔を向こうに向けた状態で視線だけをこちらに遣り、ハルデは問うた。私は瞬きを繰り返したのち答える。
「いや、全然大丈夫じゃないけど」
「なら声かけなくていいじゃんか」
彼は心底呆れた表情をすると、私の手を掴んで教室を飛び出した。
驚き過ぎて声も出ず、私はされるがままに彼の連れて行く先へ足を走らせる。
辿り着いた場所は、屋上に繋がる立入禁止の階段だった。薄暗く人通りもない。
「ここなら大丈夫! はい、これお弁当」
ハルデは愛らしい声で言い、何も持っていなかった筈の右手から私の弁当袋を出現させた。お手本のような力の無駄遣いだ。
でも今日は林田くんも部活の大会でいないから、結局独りで昼食をとらなくてはいけない。たまには良いかと私はその場に腰を下ろした。
「ハルデはお昼ご飯、ないの」
「無いよ。悪魔は基本お腹が減らないからね」
彼も私の左隣に座ると笑って返した。小豆色の猫毛がピコピコと跳ねる。
「久しぶりだよね、二人きりになるの」
「うん。あまり千田くんがいない時ってないし」
「ガキ魔女の奴、今頃がんばってるんだろなー。いつからあんな世話焼きになっちゃったんだか」
「昔からなんじゃないの」
苦笑するハルデに問うと、彼は困ったような顔になって答えた。
「んーそうだった気もする。でも昔は見捨てる事の方が多かったんだよ」
あまり見せないその表情に私は暫く視線を持っていかれた。ふとハルデが満面の笑みを浮かべた時、やっと私は我に帰る。
彼は小悪魔という表現が似合う笑い方で言った。
「君はガキ魔女のことが好きかい」
突拍子もないことを尋ねられ思わず目を見開く。彼は意地悪そうにこちらの顔を伺っていた。
「……好き、だと思う」
「それって恋愛的な意味で?」
悪魔は問いを畳み掛ける。彼の食い気味な訊き方に私は狼狽した。
「それは、たぶん違う」
「なんで?」
しぼんだ声は少しの音も立てずに床に落ちる。箸を握る手が震えた。
そうだとは認めたくないから。
答えると、胸の内側が誰かに掴まれているように痛んだ。それで良いのだと言い聞かせている自分がいた。
俯く私にハルデは子供じみた笑顔で謝罪したが、すぐにふっと笑顔の火を消す。
「でも恋じゃなくて安心した」
普段あまり聞くことのない彼の低い声に面を上げる。何より言葉の意味が理解できなかった。ハルデは神妙な顔をして呟く。
「魔女に好意を抱いてはいけない」
どういうことだと尋ね返すと、悪魔は頭上の三角耳を真っすぐに立て答えた。
魔女と関わる人間はろくな死に方をしない。そもそも関わること自体、自分の命を危険に晒しているのだと彼は言う。
本来、魔女は人を不幸に陥れるために生まれた存在。事実だけを見れば魔女は悪役であり、ただの人にとって正義の味方であるのは魔女狩りなのだ。
だから魔女に近寄る人間などいなかった。死ににいくようなものだから当たり前だろう。
そのような事もあって、昔から魔女は身内で婚姻関係を結ぶことが多かった。普通の人間と結ばれる、ましてや恋をすることなど滅多になかったらしい。
あったとしても、それはどれも悲惨な末路を辿ったという。
「主が君のことをどう思っているのかは知らないけど、その事を知っていて彼は君に近づこうとしている」
薄く張った氷のような冷たい床に、鳴り渡ることのない悪魔の声が響く。
「ぼくの言いたいことは分かるよね」
ふわりと浮かべた力のない微笑み。私は目を伏せた。
やはり彼に近づいてはいけなかったのだろうか。
たとえ千田くんが心優しい人でも、彼の相手をする敵が容赦をしてくれる筈がない。ただの人間である私を魔女の仲間であると認識されるのは至極当然のことなんだ。
「でも」