第三話 魔女の実力(1)
朝。
玄関で行ってきますと言うと、向こうの部屋から母さんの返事が聞こえた。そして今日から始まる、変わったいつも通り。
家を出てすぐ近くに魔女はいた。不機嫌そうな顔をして、手元のスマホを見ている。
昨日の約束。
あくまで私達は「呪いの相手」であり、友人では決してない。良くて知人という認識だ。
だから学校では相当なことがなければ会話はしない。勿論、それは登下校中も同じ。
魔女の彼はかなり気遣ってくれいているようで「心配するな」「無理もするな」と連絡をくれた。勘違いされることを気にしていると思われているらしい。事実そうだけれど。
今朝気が付いたことなのだが呪いの証――刻印があるであろう場所を鏡で見てみたら、何やら赫い十字架が刺青のようにあった。
だがそれは他人には見えないらしく、自分や呪いの相手、魔女、その他魔法使いなどが目視できるらしい。親や教師に指摘されたらどうしようと悩んでいたが杞憂だった。
しかし一番困っているというのが……触られている感覚がお互いあるという点である。
昨晩、課題に手を付けていたら突然、刻印のある箇所が濡れたように感じたのだ。濡れた、というよりかお湯が伝っているような。
恐らく千田くんがお風呂に入っていたのであろう。それを考えると、逆に私がお風呂に入っているときは向こうがそう感じてしまうのだろう。
なんだか申し訳ない気分になる。
タオルを当てながらやってはみたが、どうしても避けることはできなかった。何かで対処しなくちゃ。
そうこう考えているうちに学校に着いた。朝早いため生徒はそこまでいない。
軽く振り返って見てみると、彼はそそくさと自分の教室に入っていった。本当に気にしなくていいみたい。
それからは特に変わった点はなかった。少し首に触れるのが慎重になったくらいで。
*
四校時目の体育。
着替えを済ませて体育館へと向かうのに廊下へ出た、そのとき。
ばりんっとガラスが目の前で割れた。
破片がこちらへと飛んでくるのに、咄嗟の判断で腕で顔を覆う。周りから悲鳴が響いた。
目を開けると、割れた窓の向こう側。
異質な影がこちらを見ていた。
ゾクッと背が粟立つ。これってまさか狩人……?
「大丈夫ですか泉さん! 怪我は?」
「聡乃ちゃん大丈夫っ?」
間髪入れずに、学級委員長の子と近くにいた子が駆け寄ってくる。私は何がなんだかわからないまま大丈夫、大丈夫を繰り返し言っていた。
ふっと隣のクラスの廊下を見ると、他クラスの子達もこちらを凝視している。その中に千田くんがいた。
彼は私と目が合うとすぐに背を向け、走り去ってしまう。
たすけて、くれなかった?
いや、多分違う。彼だっていつも通り過ごしているんだ。変に皆の前で魔法を使ったら、いけないだろうし。
何故か心の中がざわついている。もう一人の私が何かを囁いていた。
本当にそれだけの理由で?
本当は助けられたんじゃないの?
さっきだってすぐ走って行ってしまったじゃない。
――『助けなかった』の間違いじゃないの?
*
下校時間。
廊下を出るとすぐに千田くんがいた。心の何処かで気まずさに似た感情が蠢く。私は視線を下に向けて歩き出した。
魔女は何も言わなかったし、何もしなかった。少し離れた所で歩いているだけで。
人が徐々に減ってくる。やがて二人だけになった。
ローファーの固い音が鳴る。ちゃんと一緒にはいてくれているみたいだけれど。
「おい」
突然、千田くんが声を掛けてきた。驚いて振り返ると、相変わらずの目つきのままこちらに手招きしている。
「な、なに」
「ここからは隣で歩いてもらっていいか。あと、道はこっちの方がいい」
そう言って彼は自身の右手側にある小道を指す。でもそっちだと遠回りになるんだけど。
何を考えているのかわからないが一応従っておく。俯いたまま彼の隣に来た。
それからまた沈黙が降りる。
離れていても隣にいても会話をするつもりはないようだ。
「次こっち」「そこ曲がる」
度々彼の指示が飛んできて、内心顰め面になる。この人はどこに連れて行こうとしているんだ。
道なりに歩いていると突如、視界一杯に優しい色が広がった。
「桜?」
季節は等に過ぎている筈なのに、満開の桜が枝を弛ませている。青空によく映える、ほんのりと緩いピンク色が揺れていた。
「ここは俺の庭。誰も入れない秘密の庭だ」
確かに辺りには人気がなく、家らしき建物も見当たらない。魔女の秘密基地のようなものだろうか。
「……昼頃のやつ、まだ倒せてねぇんだ」
千田くんが目を伏せて言った。
「昼頃って、窓ガラスを割ったやつ」
「そう、狩人はやっぱりお前のことを狙ってる。だから『誰も入れない』ここに連れてきた」
ひゅうと、温かい風が私と彼の間を通り過ぎる。花弁が舞っていった。
「あの時すぐに後を追ったんだが見失ってな。その間お前に何もなくて良かった」
言葉とは裏腹に表情はとても暗い。怒られた子猫のような落ち込み具合だ。
私はただ黙って彼を見ていることしか出来なかった。気の利いたことの一つも言えない。
彼は間を置いてから顔を上げ、こう私に指示した。
「暫く待ってろ、アイツ絞めてくるから。ここは俺の魔力で隠してあるから誰にも気付かれない。安心して待ってて」
彼は身を返し、私から離れていった。
あのこと――私に背を向けて行ってしまったのは、敵を追うためだったらしい。呪いの相手の無事を確認して、それからすぐに追いに行ったということ。
私はなにを、勘違いしていたのだろう。
心の底ではまだ彼を信用していないみたいだ。千田くんはこんなに、私のために力を尽くしているというのに。
恥ずかしく思った。
惨めに感じた。
私は自分のことばかり考えていた。
とても、申し訳なかった。
彼が去り、鼓膜を揺するのは風だけになる。
とりあえず荷物を木の下に下ろし、私は空を見上げた。雲ひとつない青空はつまらなさそうにぼーっとこちらを見下ろしている。
「こんにちは。アナタが聡乃ちゃん?」
凛とした声音。
唐突に聞こえたそれに、慌てて木から背を離す。
振り返ると、木の後ろに髪の長い大人な女性が立っていた。
え、誰?