第十四話 決意を(1)
あの目は、人を殺すことを怖がっていなかった。
遊園地に行った日から、もう六日が過ぎようとしている。追いつかない思考と、茹だる暑さによって私は疲弊していた。
『やぁ、ときのちゃん』
聞き慣れた中性的な声が、ベッドに突っ伏していた私の鼓膜を撫でる。私は無意味に考えすぎていた意識を引き剥がし、目を開けた。
顔を明るい方へ向けると、開けていた窓から黒い子猫が座っていた。
『具合でも悪いの? それとも』
音を立てずに子猫は入り込み、背筋をスッと伸ばす。赤の瞳を細め、こちらを見つめた。
『ガキ魔女のことについて、かな?』
びくりと無意識に体が反応する。虚ろで曇った視界を擦り、彼をやっと認識した。
「ハルデ」
ひとつ呟くのにさえ体力をごっそり奪われた気がした。
子猫の姿をした悪魔はそこから私に近づくことなく、じっとこちらを見つめている。
『ガキ魔女の様子が変だと思ったら大正解みたいだね。何があったの』
私は起きる気力がなかったため、そのままの体勢で首を横に振った。
すると彼は鼻で溜息を吐き窓の外へと視線を向ける。話くらいなら聞くよ、と優し気に言う彼は三角耳をピクピク動かす。
悪魔の誘いに私はどうしてか乗ろうと思って上体を起こした。
ハルデと向き合うが、今は目を見ては話せないから俯く。
六日前の出来事を事細かに話す。
三人で遊びに行くのをとても楽しみにしていたこと、彼らと仲良くできることが嬉しかったこと、そして、彼が怖く見えたこと。
狩人に襲われて、彼が助けてくれた。いつも助けてくれるけど、今回は何かが違かったんだ。
あの時、私と彼は劣勢だったのだろう。勝つために魔法で作り出した武器を振るい、彼は相手の指を切り落とした。その後、嚙みついてきた狩人の腹に蹴りを入れて気を失わせた。
その行為らに驚きがなかった訳ではない。でも、それ以上に怖かったのだ。
名を呼び、彼が振り返ったあの瞬間。
脳内に映ったのは、酷く見覚えのある情景だった。
『見覚え?』
怪訝そうに耳を傾ける子猫に、私は頷いてみせる。その光景をうろ覚えながら伝えた。
彼より小さな少年が、上半身だけをこちらに向け口角を上げている。足元には、赤に塗れた一つの影が横たわっていた……気がする。
当たり前だがそんな状況に出くわしたことなどない。だから尚更、それにそっくりな状態だった彼に恐怖心を抱いてしまったのだ。
その上、彼との価値観の食い違いにも温度差を感じた。
「人殺しを躊躇わない彼が、ひたすら怖いの」
彼は過去に、誰かを殺したことがあるのだろうか。
知りたくはない、でも、知らなくちゃいけない。彼とちゃんと、向き合わなくちゃいけないのに。私はいつだって守られる側で、上から物を言うような立場でない。だから彼の価値観を中心に理解を深めなくてはいけない。でも今私は目を逸らしていて、逃げていて、その度に彼を傷つけて――
「それ程、ぼくの主のことを考えてくれていたんだね」
ふわりと頬を包まれる感覚に、自然と視線が上がる。そこには瞳を細め、微笑む少女がいた。
「嬉しいな。分かろうとしてくれて」
彼、いや彼女はスルリと手を離し、私を見上げる体勢になる。ハルデは笑みを消すとこちらをしっかりと見た。
「我が主は今までで殺人を犯したことはない。でも彼はいつか大罪を犯すつもりだよ。死刑だけでは到底許されない、大きな罪をね」
「どういうこと」
「存在する魔女狩りを滅ぼし、全ての魔女の家系を途絶えさせる。主はこの小競り合いの元凶を消すつもりなんだ」
その言葉を否定したくて、脳裏をよぎった彼の発言を口にする。
「でも、贖罪の為に魔女の家系は途絶えさせちゃいけないって」
「考えが変わったんだ。主なりの贖罪の答えが出たってことなのかもしれない」
もう、何も言えなかった。
呆然とその事実に怯えることくらいで、来てほしくない未来を止める自信はない。
椿妃さんに願われた、彼の手を引き留める役に臆していた。その引き留める手が誰かの血で汚れていても、私は正気を保ったまま彼を連れ戻せるのか。それとも彼は私の手を振りほどいて殺そうとするのか。
この首の呪いが命綱なのかもしれない。
そう思ってしまった自分にも、恐怖した。
「彼は幼い頃から、普通の人間として生きたかったんだ」
なんの前触れもなく、彼女はそう切り出す。
「どれほど主が『普通』に憧れていたか、ぼくが一番知ってる。周りの人たちは、いつもボロボロだった彼を奇異の目で見た。そんな中、しん君やときのちゃんに出会って『普通』じゃなくていいと学んだみたいだ。だから」
ふっと表情を緩める。悪魔はやさしく囁いた。
「きっと、いや絶対、主は君を傷つけない筈だ」
気休めか、はたまた本当のことなのか。
私は目の前の悪魔を見つめる。
彼女の言葉を信じようと純粋に思った。彼と、千田くんと向き合おうと思えた。
だって彼は信じてくれていたのに、私が突き放してしまったのだから私から歩み寄って仲直りしなくてはいけない筈だ。
今、私はあの人にたくさん話したいことがある。それが彼を傷つける結果になっても、嫌われても、ちゃんと話さなくちゃ。
「私、千田くんに会って話をしたい」
「うんうん、そのセリフを待ってた! じゃあ」
ハルデはパッと笑顔になり、立ち上がる。するとポケットから丸めた紙を取り出し、手早く広げて見せた。
「花火大会、二人で行ってこい!」
紙には黒の空に咲く、光の花の写真が大きく載っていた。あぁ、確か昨日からやっていたんだっけ。
「どうせならユカタ? ってやつ着ていけばいいよ! ときのちゃん似合うだろうなぁ」
自身の右頬に手を添え、だらしない表情になるハルデにこう返した。
「浴衣、持ってないよ」
「え⁉ ニホンジンなら皆持ってるんじゃないの?」
すごい偏見を持ってるな、この悪魔は。
「んじゃ作っちゃおう、えいっ」
彼女は可愛らしく笑って、人差し指を立てた右手を私に向ける。瞬間、ぽんっと音が鳴って煙が立つ。
薄桃色の煙が晴れる頃、私は朝顔の柄が入った白い浴衣を身に纏っていた。
それを見てハルデは満足そうに頷き、私の髪までもいじり始める。
女子の姿を手に入れて、彼はおしゃれに目覚めてしまったのかもしれない。
こうして私は夕方になるまで、悪魔の着せ替え人形になったのだった。




