番外編 悪魔の過去
「ハルデ、今日は特に用事がないから自由にしていいぞ」
普段通りの不機嫌そうな顔をして、ぼくの主は家を出た。乱暴に肩に掛けたスクールバッグが視界の端に映る。
窓から差した日の光を浴びてゴロゴロしていたぼくは、気だるげに返事した。
最近気が付いたのだが、ガキ魔女の性格が徐々に穏やかになってきている。
ぼくに対する態度は相変わらずだが総合的に見たら丸くなったと思う。それもこれも、あの少女のお陰なのだろう。
子猫の姿で軽く伸びをすると途端に目が覚めた。家でのんびりするのもいいけれど、今日は少し遠い場所まで足を延ばしてみよう。そうだ、主やときのちゃんが毎日通っている「こうこう」とやらに行ってみよう。
ぼくは軽い足取りで目前の窓に飛び上がり、器用に前足で鍵を開ける。悪魔の姿になってもいいけど面倒だし、このままでいいか。
日が昇ってから時間がそんなに経ってないというのに、すっかり気温は上がり切っている。アスファルトは熱された鉄板と変わりないほど熱そうだ。火傷してしまわないように気を付けないと。
こうこうに行くまで少し時間があるから、ぼくのことについて話そうか。
縛られることが嫌いだったぼくは半野良の悪魔となり、主の家系を支えずに身勝手な行動をして生きていた。
契約したばかりの頃は素直に主の命令を聞いていたし、主を傍で支えていた。だがそれは初代から三代目までで、日を重ねる度に人への信頼と憧れを失っていくことになる。
魔女戦争が起こったのは六代目の時、ぼくが完全に距離を置くようになった頃。
西洋の外れの国に暮らしていたシュレイア家――のちの千田家であり、ガキ魔女の祖先に当たる家系――にも魔女狩りが襲いかかっていた。
子供は先に国外へと逃がし、大人たちは身を挺して家族を守ろうと尽力する。何度かぼくにも応援要請が来たが、相手が多い、手に負えないことを理由に魔界に逃げた。今思えばとんでもないことをしたものだよ。
魔界から様子を見て分かったことは一つ、人間の方がよっぽど悪魔だということ。
魔女も人間も構わず、容赦なく焼かれていた。
爛れる肉を引きずりながらも、家族を守ろうと魔法を唱える魔女。
内臓を潰されようが骨が粉になろうが、仇を討つため立ち上がる狩人。
親とはぐれ、そのまま戦火に焦がされ泣く子。
それでもぼくは地上には降りようと思わなかった。
降りたところで戦況が変わる訳でも、戦争が終わる訳でもない。狩人が契約している悪魔の方が階級も身分も上なのだから、どう抗っても勝ち目などない。
そんな絶望的な状況の中、現れたんだよ。彼女が。
我が主の全ての憧憬を捧げる、尊敬してやまない白魔女・シンシャ。
少女はその小さな身体を酷使し、多くの命を救い出した。誰もこれ以上悲しまないようにするため、足元に咲く一輪の白花を守るため、文字通り命を賭けて戦場に立つ。
そこで援護するように立ち回ったのがシュレイア家だ。戦火からいち早く逃げた彼等は、救ってくれた少女の力になると約束した。
元々シンシャは普通の魔女の家系に生まれ、先祖代々受け継がれてきた「人間への復讐」を行う筈だった。しかし彼女は優しく、誰も殺すことができず周りの魔女から落魄れと呼ばれることになる。
それが理由なのか定かでないが、シンシャは魔女ではなく人々を救う白魔女になることを決意した。
シュレイア家は幼い白魔女を守り、戦う全ての者たちに争いをやめるよう叫んだ。だが、仲間を裏切り逃げた輩の言葉など聞く耳持たずで、他の魔女たちは魔法を唱え続けた。
ぼくも彼らを馬鹿だと思ったよ。
誰よりも先に逃げた臆病者たちが、ヒーロー面して戻ってきたんだから。だからぼくは更に呆れた、こんな者が主なのかと。
結果として戦争はシンシャのお陰で幕を閉じ、一時的な平穏が訪れる。まだ彼らの蟠りが解けないまま、表面上の平和を形成していった。
あの三年間の戦争を見てぼくは、契約する相手を間違えたと後悔した。
初代の主が最高の人格者であり、主に相応しい器の持ち主だったから。主人が替わる度、ぼくの人間への信頼の心は色褪せていく。
やがて月日の流れに押し潰され、シュレイア家は滅んだ。その分家が日本へ渡り、千田という新たな苗字を貰って生活するようになる。
二十三代目の主――ガキ魔女の母親・槭になるまで大きな出来事はなかった。たまに魔女狩りが攻撃してくるくらいで、そこまで大きな問題には発展しないで済んだ。
槭は誠実で正直者だったよ。
今までの頭領と違って自分の利益ばかり追うのではなく、他の誰かに力を使う優しく純粋な人だった。きっとそこに似たんだろうな、彼は。
しかしその純粋さ故に、狩人たちの愚かな手に引っ掛かってしまった。
洗脳され、全てを敵視するようになった彼女はまず、自分の愛する夫を殺してしまう。ただの人間だった彼女の夫は為す術なく、子らを置いて息絶えた。
残された子供たち、椿妃と咲薇もまた殺されそうになった。
助けるかどうか、酷く迷ったよ。
このまま魔女の千田家が滅べば、ぼくは自由になれる。だが互いの魔力の提供はなくなり、ぼくは弱々しい子猫になってしまう。
そして何より、かつての信頼を捨てきれなかった。
久しぶりに降り立った地上は、今日のような猛暑だった。身を寄せ、自身の母親を睨み付ける子の前に立ち、ぼくは目の前の「狩人」を殺そうとした。
ぼくがもっと強かったら、もっと彼等に寄り添って生きていたら、シュレイア家も千田家の魔女も「抜け駆け魔女」と言われなかった筈。非道な仕打ちをされずに済んだ筈だ。
槭が真っ当な母として子らを育てられた未来だってあったのに。
気づくのが遅かったんだ、ごめんね。
最終的には彼女の魔力を全て奪い、自分のものにした。しかし想像を絶する膨大な魔力を一人では抑えることは難しく、奪った直後は動くことができなかった。
その隙に槭は狩人に連れ去られ、暫く消息を絶つことになる。
苦しみ喘ぐぼくを見て、力を貸すと言ったのが咲薇だった。
「おれが魔女になる。だからおれと契約しろ、ハルデ」
自ら茨の道に足を踏み入れた彼を、止める権利など姉にもぼくにもなかった。不安を感じつつも早くこの苦しみから逃れるために、ぼくは咲薇と契約した。
少し難しかったかな。長くなってすまないね、これでも頑張って要約した方なんだ。
日陰を進み、やっと目的地に辿り着く。へー思ったより大きいんだな、こうこうってのは。
正面の門を飛び越え、中へ入っていく。さてと、ときのちゃんを探すとするか。ガキ魔女に見つかったら怒られちゃうし。
そういえばガキ魔女はときのちゃんに好意を寄せているらしいね。確かに彼女、無表情だけど可愛いし真っ直ぐだから、好かれるのも当たり前か。近寄りがたい雰囲気を取り巻いているけど、話せばとても良い子だよ。
悪魔のぼくから見て、二人にはくっついてほしいけど簡単ではなさそうだな。ガキ魔女は奥手、ときのちゃんはそもそも恋が分からなさそうだもの。何か良い方法はないのかな。
そうこう考えている内に、中庭らしきところに着いたようだ。大きく広い廊下を歩く人の群れの中から、見覚えのある影が横切る。艶やかなショートヘアが似合う、無表情の彼女だ。
ぼくはテレパシーを使って彼女に声を掛けた。
『おーい! ときのちゃん!』
「は、ハルデ? どうしてここに?」
目を大きく見開き、ときのちゃんは辺りをよく見回してから窓辺に駆け寄ってきた。
「だめだよ、千田くんに怒られる」
『大丈夫! どんなものか見に来ただけだから、すぐに帰るよ』
ぼくの言葉をあまり信用してないようで、彼女は眉をひそめた。困った顔も可愛いね。
「来たところ悪いけど、次は移動教室なんだ。すぐに向かわないと授業が始まっちゃう」
タイミングが悪かったな、と反省しつつ、ぼくは行っていいよと返した。ときのちゃんは相変わらずの無表情で謝り、小走りになって廊下の端へと姿を消す。
人気が無くなると、ぼくは目を細め虚空を見つめた。同時に脳裏によぎる鮮明な記憶。
やっぱり、ときのちゃんはシンシャの生まれ変わりなんだね。