第十一話 あたたかなてのひら・後編(3)
まず聞こえたのは、幼い声。追って大人の笑い声が響いた。
『ママ、パパ! はやくいこうっ』
『待って真吏、走ると危ないわよ』
『本当、真吏は水族館が大好きなんだな』
白く濁る視界が少しずつ明るくなってきた。
そこには小型車の周りではしゃぐ、ちいさな少女とそれを見守りつつ、車に荷物を詰める女性と男性。考えるまでもない、泉にマリちゃんと呼ばれていた子供とその親だ。
彼等はこれから水族館に行くようで、幸せそうな空気を纏っていた。
視界が一旦暗くなる。
再び明瞭になった頃には、目を覆いたくなるような景色があった。
白い車体に滴り落ちる赤。
少女の泣き叫ぶ声。
鳴りっぱなしのクラクション。
あの一家は目的地に向かう道中、高速道路にて事故に遭っていた。
運転席と助手席は勢いよく潰れ、開けていたであろう窓から彼らの手が飛び出ている。後部座席のチャイルドシートに乗っていたマリは、幸いにも目立った外傷は無かった。
散乱するガラスの破片を掻き分け救助隊の人が少女をひしゃげた車から引きずり出す。見知らぬ大人に抱えられ、マリは怯えた表情を浮かべる。
徐々に遠ざかり、救急車に入れられそうになった彼女は甲高い声でふたりを呼んだ。
『やだ、はなしてっ パパ! ママ!』
救助隊の人の腕の中で彼女は暴れ、大人の肩越しに見える自分たちの車に向かって呼び続けた。はなして、ママとパパがまだいるの、と言い続けるも隊員は何も言わない。
溶けはじめる視界の端に俺は違和感を見つけた。
潰れて原型がわからない運転席と助手席から、微かに黒い霧のようなものが立っている。その正体に辿り着いた瞬間、俺は目を覚ました。
*
瞼を上げ、ぼやけた視界を明瞭にしていく。目の前の手の影たちは変わらずそこに居て、じっと静止したまま動かなかった。
左を見ると、つらそうな表情をした泉が俯いている。記憶を覗く前に握っていた手が震えておさまらないみたいだ。
「間違いねーな、これで」
影の手に添えていた右手を離し、泉にそう確認した。彼女も左手を下ろして頷く。
独りで待っていたマリは、途中で寂しくなったようで黒い手のすぐ傍までに来ていた。泣き腫らしたばかりの腫れぼったい瞳でこちらを見つめ、心配そうにしている。
「マリ、だったな。お前の両親が今、どんな状態なのか知ってるか」
目下の幼女に尋ねる。彼女は返事をしようとしたが口を噤んでしまった。
それは何か、隠しているような顔だった。もしくは認めないとでも言うような。
しかし、それではなんの解決にもならない。
事実というものはあまりにも残酷で、惨い。
目を逸らし生きていくのもまたつらい。
逸らしたままでは、そこから何も学ぶことができなくなる。俺だって、あの二人がいなくなったことから何度も目を伏せていた。
でも今は違う。
ふと隣の泉が優し気に声を掛けた。
「じゃあマリちゃん、お父さんとお母さんの好きなところを教えてくれないかな。できるだけ、たくさん」
その提案は下手をすれば相手の傷を抉ることになる。だが彼女の声音で安心したマリは、元気よく答えた。
「うんっいいよ! えぇとね、ママはあんまりおりょうりが上手じゃないの。でもね、いつも色んなところにつれて行ってくれるんだ! 車のうんてんはいつもママがするの。パパはね、なんでも作れちゃう。おかしもごはんもおいしいんだよ! またパパのクッキーがたべたいな」
彼女の答えは絶えず続き、時に思い出に浸るように遠くを見つめ、時に演技をしてみせた。
マリの両親はたいそう娘を可愛がっていたようで、週末はいつも何処かに出かけていたみたいだ。彼女もそれをとても楽しみにしていて、今回の水族館も心待ちにしていたらしい。
するとピタリと彼女の口が動くのをやめた。我に返ったマリは俯いて、震えた声を漏らす。
「マリ、わるい子だったのかな」
ぎゅうと、伸びてしまうほど強く自分の服を握りしめる。
「パパとママ、マリのこときらいになっちゃたのかな。だから、いなくなっちゃったの」
その場にしゃがみ込み、マリは啜り泣き始める。何度もごめんなさい、と呟いた。
「そんなことないよ」
隣の凛とした声に俺もマリも顔を上げる。
向けた視線の先、泉はふわりと微笑んでいた。洗練された不純物のない純粋な微笑。
「だってほら、傍にいる」
マリの両隣に浮かぶ黒い手の影。
左手は指が太く角張っていて、右手は綺麗な曲線を描いている。彼等は幼女の頭を慣れたように撫でていた。
言わずもがな、この手たちはマリの両親の念だった。
死んでしまった彼等は、独り残した娘が心残りで成仏できずに形となったのだろう。姿を変えても、娘が自分たちのことを両親だと気づかなくても、守ろうという気持ちが強く残った結果だ。
すべての事実を受け入れたマリは、年相応の笑顔を両親に向ける。
「まったく、パパもママもかくれんぼ上手なんだから!」
念はいずれ必ず消えてしまう。
まだ現世界に未練が残っていても、そうでなくても、一定期間しか形を得られない。
当たり前だ、この世にずっと在るものなど無いのだから。
桜の花弁が風に起こされ舞い上がる。
夕闇の空の果て、見えなくなるほど遠くに飛ばされ消えていく。彼らの存在も薄れ、後ろの景色が透けて見え始めた。
片割れ時、本当の別れ。
「じゃあね。パパ、ママ。げんきでね」
大きな両手は少女のかたちを忘れまいと、ぎゅうっと優しく包み込む。氷のような冷たさだったはずの両掌は、とてもあたたかそうだ。
感情の雫を伝わせて、マリは彼らと会話するように頷いて返事をする。
大好き、大好きだよ。
彼女は止めどなく言い続けた。
彼らは輪郭だけの存在となり、やがて――消えた。
残された少女の目元に涙はない。清々しそうで、さみしそうな表情を浮かべたまま空を見上げている。
死というものを避けて通ることはできない。
早いか遅いかだけしかなく、早く死ぬことが良いとか悪いとかが大事なのではない。
少女には伝わっただろうか。まだ、難しいだろうな。
こんな幼い子供の傷を抉ってその痛みを利用し戦わせる狩人たちを、俺は赦せない。それがどれほどの苦痛なのか、アイツらは知るはずがないだろう。
無差別に他人を巻き込み、勝手に命を売り出している彼らに対話の余地など必要ない。
俺の行き着く先は、すべて消し去ること。
狩人を殲滅し、後に魔女の家系を途絶えさせ、この争いを終わらせる。
互いの存在が無くなってしまえば、小競り合いも関係のない人の被害もなくなる。マリや泉のような存在を生まなくて済む。
どれほど長い道のりでも、絶対に諦めない。必ず成し遂げる。
俺の父親と母親の、仇を討つ為にも。
「千田くん? 泣いてるの?」
泉の声に、はっと意識が戻る。
何故か視界が変に歪んでいた。咄嗟に目元を拭うと、確かに涙が袖に染みている。
どうして、だ。
涙が止まらず頬を滑り落ちていく。マリの件について感情移入したのか? 悲しいと思ったのか? 否、違う。理由は? わからない。
すると唐突に、左手が強く握られた。あぁ、まだ繋いだままにしていたのか。にしてもかなりの強さだな。
「痛い」
「あ、ごめん。でも」
そちらに顔を向けると、珍しく彼女は思い切り感情を表に出していた。なにか言いたげに口を少し開く。
「すごく、つらそうだったから」
そんな顔を無意識にしていたのだろうか、気づかなかった。
魔女狩りについて考えこんでいたら、自然と怒りが湧いてきたのかもしれない。それと、脳裏にちらついたあの過去に触れたせいか。
「心配かけたのか、すまん」
手を解き、彼女の体温が離れていく。泉はそう、と言うと少し離れた幼女に視線を向けた。
マリもこちらを見つめ返し、笑ってお礼の言葉を口にする。なんだか変だな、彼女が妙に大人びて見えた気がした。
・
・
・
その後、マリちゃんを親戚の家に送って無事に事件は解決した。時刻はもう七時を回っている。
暗くなった上に現在地が私の家とかなりの距離があったため、特別に彼の箒に乗せてもらっていた。温い風が頬を伝い、髪を流す。
魔女の後ろに、私は横を向いて座っている。彼は無言のまま正面を向き、箒の操作に集中していた。
「今日は先に帰らせてすまなかった」
「いいよ別に。こちらこそまた助けてもらっちゃったんだし、ごめんね」
再び、しんとした空気が下りる。風を切るのが心地良く、初夏の夜を駆けていった。
箒を降下させる。家に着いたようだ。
彼は浮いたまま私を降ろすと、軽く挨拶をして空へ飛ぼうとした。それを止めると、魔女はあからさまに不満そうな顔をする。
構わず、私は言葉を音にした。
「自分の為だと思うけど、いつも助けてくれてありがとう。また明日」
千田くんは少し驚いたように目を見開いたが、すぐに普段通りの目つきになって返した。
「礼なんていらねぇのに。ん、じゃあな」
飛び立つ瞬間、彼が微笑んでいた気がした。




