第一話 箒乗りの男子高校生
泉聡乃。
郊外にある高校に通う十六歳。よく周りから何を考えているのか分からないと言われる、友達を作れない女子高生のなりたて。
私を表すならそれだけで十分だ。
ただの人間であることに違いないし、これと言って特技もない。良くも悪くも平凡。
――だったはずなんだけれど。
耳元で風が鳴る。
全身にかかる負荷は一瞬で、すぐに体は重力を思い出した。
「……あっぶねぇな」
目前の男子高校生、もとい同じ高校の生徒であろう男の子が低く呟いた。
今さっき、私はとんでもないものを目にしてしまったかもしれない。
手短に説明しよう。
帰宅途中、横断歩道を渡っていた私は爆走する車に轢かれかけた。ブレーキも踏んでいない車に、だ。
誰がどう見ても轢かれる状況だったのだが、この男子高校生が助けてくれたのだ。
箒に乗って。
彼は走り去った車を睨みつけ、右手に握る箒を消した。跡形もないし、なんの予備動作もない。
例えるならば手品や魔法。でもあの箒、飛んでいた気もするけれど。
「ケガなさそうだし、もういいよな」
戸惑う私の反応に気づいていないのか、そう淡々と言って踵を返した。
慌てて呼び止めたが、彼は振り返ることすらせずに言い捨てる。
「あんま俺と関わんな」
残されたのは、冷たいその台詞と狐につままれた私だけだった。
泉聡乃、十六歳。
生まれて初めて白昼夢を見た。
*
翌日、放課後。
下校のチャイムが鳴ったのと同時に席を立ち、昇降口へと駆けていく。昨日のあの男子を見つけ出すためだ。
一晩考えて、思い出したことがある。
彼が持っていた学校指定のバッグには、一年生の証拠である赤いラインが引かれてあった。となると私と同い年。下駄箱も一緒の場所の筈だ。
十分近く人の流れを見続けた後、私の予想は当たりを告げる。彼がいた。
声を掛けると、彼はあからさまに嫌そうな顔付きになる。
「だれ」
「昨日助けてくれた四組の泉、です。お礼がしたくて」
手元の紙袋を申し訳程度に掲げてみせる。彼は更に目付きを悪くして言った。
「あのさ、俺言ったよな? 関わんなって」
隠す気のない不機嫌さ。鋭利な眼光はさながら刃物のようで、喉に突きつけられているみたいだった。
だめだ、怖い。
でもこの人は命の恩人。ここで逃げてはもっとだめだ。
一度きゅっと唇を結び直す。雑踏に飲まれないように声を張った。
「それでもお礼を言いたかったの。昨日は本当にありがとう」
半ば無理矢理だったが、彼は渋々袋を受け取ってくれた。
よし、これでタスクは終わり。
一刻も早く離れたい私は、勢いよく頭を下げると駆け足で彼の元を去った。名前も知らない、箒乗りの彼の元から。
そういえば、周辺に目撃者はいなかったのだろうか。空飛ぶ男子高校生なんて、すぐにネットで拡散されそうな話題だと思うけど。
あまりにも気が動転していたから周囲のことなんて見えていなかった。もしかしたら本当に白昼夢だった可能性もある。
でも、どうしてあんなに接触を拒むんだろう。
初めから交流を遮断するみたいな物言いだった。きっと怖い人なんだろうな。
胸の内の靄は晴れず、しばらく不快な気分が続く。考えても仕方のないことだと分かっていたが、帰路はずっとそればかりが過った。
知られたくなかった、とかなのかな。
不意に辺りが陰る。寒気に似た気配。
おかしいな、もう五月なのに。
いつの間にか俯いていた顔を上げる。視線の先が、なにかとぶつかった。
「お嬢さん、少しいいかな」
いや、人だ。
黒いドレスのような服をまとった老婆。優しげな笑顔を浮かべて、数メートル先に立っている。
知らない人。不審者。道に迷った人。困ってる人。数々の憶測の言葉が駆け巡ったが、一番腑に落ちる単語は「幽霊」。
近づいちゃいけない気がした。
後退りする私に、彼女は比例して歩み寄ってくる。
表情は変わらない。
白い長髪、頬の赤い入れ墨。
日本人ではない。
本能からの危険信号は大抵正しい。しかし私の足は恐怖に負けたのか、上手く動いてくれない。半歩ずつしか下がれない。
違う、動かないんだ。
「ごめんなさいね。でもアナタも悪いのよ」
なんの、話?
声が出ない。首を絞められている感覚。
ついに老婆は私の眼前にやって来る。背丈は向こうの方が高い。
皺だらけの、枯れた小枝の指が伸べられる。変わらず彼女は微笑んでいるばかりで、それがとてつもなく不気味だった。
指先が首に触れる。冷たかった。
「サクラに宜しく伝えておいてね、お嬢さん」
途端、ばちんッと音が鳴る。
首から火が出ているのかと錯覚してしまうくらい熱くて痛い。束にした針で突き刺されているような。
「っ、あ゙あ゙ぁ゙ッ!」
「大丈夫よ、死にはしないわ」
四肢にかかっていた力が抜けたかのように私は地面に伏せる。老婆は離れてクスクスと笑った。
何された? 痛い。
首は? サクラって誰?
逃げないといけないのに鋭痛が思考を阻む。触れられた場所を両手で押さえるも、そこが脈打つだけで痛みは和らがない。どくどくと熱が蝕む。
助けて。
その時、地面が揺れた。
同時に黒い老婆は瞬く間に姿を消す。だが、そんな摩訶不思議に構っていられないほど私は痛みを耐えるのに必死だった。
耳朶を打ったのは、聴いたばかりの声。
「おい待てクソババァ! ったく、だから俺には関わんなっつったろ」
アスファルトに蹲ったまま、現れた彼を見上げる。あがってしまった呼吸を整えようとするが上手くいかない。
「無理に喋ろうとすんな。痛みはすぐ引く」
箒乗りの男子高校生はそう言って、私の顔を覗き込んだ。