第八話 西の訪問者(2)
「いいか、刻印には絶対に触んなよ」
「分かりましたって、四回目です」
目の前のヴァンパイアは、眼鏡を丁寧にはずしながらそう相槌を打った。
シュークに初めて会ったのは、俺が中学一年生の冬の頃。極度の飢餓状態に陥っていた彼を、たまたま下校中に見つけたのだ。
シュークのことは嫌いな訳ではない。
吸血欲求以外を見れば紳士そのものだし、男子の俺が言うのもおかしいが美男子の類なはずだと思う。
でもやはり、俺の血への執着心は異常だ。
実を言うと、俺は吸血されるのが癖になりつつあって恐ろしく思っている。
首に牙を刺すとき麻酔兼媚薬を牙から注入され、血を啜られる。その時の感覚は、脳が勝手に快感と勘違いしてしまうのだ。
「なんだか、貴方が奪られそうで少し危機感を感じますね」
眼鏡を外した彼の切れ長の目が、やけにはっきりと見える。流し目、っていうんだっけか。
「誰にだ」
「トキノ様です。貴方は彼女を好いているのですか」
ずいっと顔を近づけさせられる。端整な彼の顔に、不本意にも心臓が跳ねた。
「泉はただの呪いの相手だ。呪いが解ければそれまでの関係」
説明しているというのに、コイツは俺の襟を退かすのに夢中だ。結局血しか頭にないんだな、吸血鬼なんて。
襟が引っ張られて首筋は露わになる。壁際まで追いやられ、本当に逃げ場はなくなった。
彼の吐く息に背がぞくりと感じる。何回やっても慣れないなと、悠長に考えていた。
彼の唇が柔らかく当たった。牙は皮膚に食い込み、やがて完全に貫通する。媚薬のせいか、その部分だけ熱を持っていた。
「んっ……」
水分を多く含んだ音が振動となり直接伝わってくる。吸われている感覚はないが、足に上手く力が入ってくれなかった。
「ま、だか? ぅん……っ」
苦し紛れの問いは聞こえていないようで、血を吸うことに夢中だ。いつにも増して貪り食っている。
足は使い物にならず、ついに立てなくなった。シュークは俺を片手で支えながらゆっくりと下ろす。
気が付くと、右手は彼の左手と絡まっていて動けなくなっている。
「っんぁ」
こんな情けない姿を、死んでも彼女に見せたくない。
先程タチが悪いと言った理由。俺はコイツを拒めないのだ。
ヴァンパイアは恋をすると、その相手の血しか飲めなくなりその吸血欲求は日に日に強まるのだ。終いには血を吸いつくして殺してしまう。
恋した相手を自らの手で殺してしまうなんて、哀れだと思わないか?
彼もその運命に苦しんだ一人だ。
まだ西洋の国に暮らしていたころ、シュークはある女に恋をした。上記の通り彼女の血しか受け付けなくなった彼の体は、本能的に女を死へと追いやってしまった。彼女がこの世から去っても、彼の体は彼女の血を求める。
女を殺してしまったことに対しての、自分への怒り憎しみが全身を焼く。彼女以外の血を飲めないシュークは、餓死することを決意して旅に出た。
その道中に行き倒れ、俺と出会ったの下りになる。
彼は自身の恋に上書きをした。急なBL展開ですまない。
「ごちそうさまでした」
彼が離れると、一気に熱が放出される感覚がよく伝わる。いくらエアコンが効いているとはいえ男同士がべたべたとしてるなんて、画面も暑さも地獄だろ。
シュークはペロリと唇を舐め、満足そうに微笑んだ。その笑い方に心が苦しく感じる。
「お前は本気で俺のことが好きなのか」
以前から改めて訊きたかったこと。俺だってそれなりに覚悟せねばなるまい。
「えぇ、勿論」
「俺を殺すことになるの、分かってるよな」
「はい、承知の上です」
眼鏡を掛けながら返す。
「すべて吸い切る前に自ら命を絶ちます。ですので私の望みは叶うことはない。ご安心を」
吸血鬼とは、哀しい存在である。
彼らの恋が実ることはなく、人間から遠ざけられ、生きる術もなく孤独に死ぬ運命。
俺は彼らについてよく知っている。だからこそ力になりたいと思った。
彼らも俺らも救われる道をさがしている。
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「大丈夫だっつってんだろ」
私の問いに呆れた声で返す彼は不機嫌そうだった。首には二つの赤い点がある。きっとそこが咬まれた跡なのだろう。
千田くんの顔色は悪そうでないが、かなりの血を持っていかれたらしい。いつもより覇気がないようで、不安が溢れてしまった。
「ほら、本人もこう言ってるんだから。心配性だね」
ハルデも私をなだめさせるのに笑っている。
「私はこれで失礼します。咲薇様を頼みますね、トキノ様」
シュークさんはそう言い残して帰っていった。相変わらずミステリアスな空気を取り巻いて。
ハルデも暑さにやられたため、先に休んでると言い帰った。
部屋に戻ったのは私と彼。
一気に静まる空間に、彼の荒い息が鼓膜を揺すった。
「貧血?」
「気にすんな、すぐ治る」
スクールバッグを肩にかけ、彼は部屋を出ようとする。
咄嗟。迷いはなかった。
千田くんがふらりとドアに凭れかかり、呻き声を漏らす。その時、私は思わず彼を支えるのに腕を伸ばしていた。彼は私の腕に掴まる。
「大丈――」
彼がこちらを見上げる。
ぱちりと合う視線。
至近距離。
互いの息すら感じてしまうほど。
魔女は青くしていた顔を背け、すぐに体勢を整えた。
「わ、悪いっ」
それでも覚束ない足取りだ。手を貸そうとするも拒まれてしまう。
結局、彼は勢いのままに出ていってしまった。
玄関で困惑する私の元へ、様子を垣間見た母親がやって来る。
「どうしたの。咲薇君、顔が真っ赤だったけど」
え、と小首を傾げる私を見て、母さんは少々考えてからニヤつく。
「青春ねぇ」
意味深長なセリフを残して彼女は踵を返した。あ、これ母さん勘違いしてる。
でも、どうしてか嫌な気はしなかった。私はまだその気持ちが分からないけれど、確実に彼は赤の他人ではない。
しかし、こうも思う。
あの魔女なら、互いの命を守るため赤の他人でいようと言うだろうなと。