未来への第一歩
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翌朝、鐵はすっかり顔色の良くなった眞白を連れて葵の指定した待ち合わせ場所に向かった。
「体調、本当に大丈夫なのか?」
ホテルを出る前に鐵が尋ねると、眞白は嬉しそうに頷く。少し空元気のような気もするが、眞白も滅多にない遠出で浮かれているんだろう。まあ傍についていれば大丈夫だろう、と鐵は彼女の同行を受け入れた。
待ち合わせ場所は都内の繁華街のど真ん中。駅前の広場は待ち合わせスポットになっているのか、大勢の若者たちがあちらこちらに立っている。平日だというのに随分な人出だ。久しぶりの都会の喧騒に鐵はもうすでに疲れた顔で壁に寄り掛かる。
一方眞白は辺りのものが珍しいのかきょろきょろと忙しなく首を動かしていた。先月桔梗に買ってもらった白い帽子の奥で大きな瞳が爛々と輝いている。
「きょろきょろしてるとお上りさん丸出しだぞ」
鐵が意地悪く笑うと、眞白は頬を膨らませつつも赤面して帽子を目深に被ってしまった。顔が見えなくなったのは少し残念だと、不意に眞白から目を背けると、
「……」
思わぬものが目に飛び込んできて鐵は固まった。広場から大通りを挟んだ向かい側にある巨大な商業ビル。その壁に貼られた巨大広告に、見知った顔が映っていた。
「あっ、ほむら様だ!」
鐵の傍を通りがかった若い女性二人組がその広告を見上げて声を上げる。
化粧メーカーの広告らしい。長い黒髪をたなびかせ、新商品である真っ赤な口紅を身に付けたその妖艶なその姿に、通りがかる人々は目を奪われそして去っていく。大都会の頂点に君臨するその姿は、まさに女王の姿そのままで、
「……あいつは相変わらずだな」
遠い世界の人間にため息をこぼしたちょうどその時、葵が鐵の前に現れた。
鐵たちが連れてこられたのは都内の陸上競技場であった。中に入ると空調のあまり効いていない特有の熱気に煽られる。
「今日はでかい大会が開催されてるんだ」
葵の説明と共に周囲を見渡すと、ロビーで柔軟をする選手らしき人や、観戦にやって来た人などでごった返していた。中にはテレビカメラ等の機材を抱えた一団もいたので、マスコミも注目する大きな試合だとわかる。何の競技だろうか、と鐵が尋ねる前にたどり着いた観客席から見えるグラウンドコートの光景でそれを理解した。
「陸上か?」
「そう、国内最大級の陸上選手権大会」
「勝手に入っていいのか?」
「大丈夫だよ。俺関係者だから」
葵は鐵と眞白を観客席の一番前に手招きするとそこに座るよう促した。次の競技は短距離走らしく、観客席側の手前トラック選手たちが控えて待っていた。
「――あれ?」
ふと、鐵は控えている選手たちの様子に違和感を覚え、声を上げた。
「この大会、今日で三日目なんだけど今日は昨日までとは別枠で、障害者の選手による選抜なんだ」
得意げに話す葵を横目に次の走者がトラックに入ってきた。彼らは皆義手や義足をつけている。人間の手足とは違う、硬質な金属や木でできたそれを何の違和感もなく使いこなし、確かな足取りで自身のスタート位置につく。
その中に鐵は見覚えのある顔を発見した。同時に、正面の電光掲示板に選手の名前とレーンが表示される。
「藤波蓮司」
「そうそう、あれお前が作った義足だよ」
数か月前に義足を作成した藤波蓮司の足には、板バネ式の大腿義足が鈍い色を放ち輝いている。どうしても走りたいという彼の要望で作成した、疾走用特化の義足だった。
選手各位が位置につく。クラウチングスタートの体勢に入って、ピストルの合図を待つ一時の緊張感。騒がしかった競技場が一瞬で沈黙し、そして、
パァン
空砲がなった瞬間、選手は弾丸のように飛び出した。強烈なエネルギーが突風となってこの観客席にまで届いてきた気がした。
速度を上げる蓮司。自身のハンデなどものともせず、前へ前へと突っ走っていく姿が眩しく見える。
「――」
しかしゴールテープを切ったのは別レーンの名の知らない選手だった。蓮司は惜しくも二位。新記録には繋がらなかったものの、遠目から見た彼の顔は晴れやかだった。
「この日のために必死にリハビリしてたんだよ」
彼の主治医である葵は誇らしげな顔で蓮司を見ていた。
「あいつがもう一度あそこに立てるようになったのはお前のおかげだよ」
珍しく殊勝な言葉をかけられて鐵は嬉しいやら照れ臭いやらで、何も言わずにそっぽを向いた。
「お久しぶりです、鐵さん」
競技を終え控え室で休んでいた蓮司に会わせてもらうと、彼は以前より晴れやかな顔で鐵を迎えた。
雰囲気が随分変わった。関わったのは数日の事だが、彼自身に大きな変化があった事は鐵にもよくわかった。
「復帰おめでとう、すごいなお前、あんなに走れるなんて思わなかった」
「鐵さんのおかげですよ」
彼は謙遜するが健常者と遜色なく走れる彼の姿は間違いなく彼の努力の賜物だろう。
「でも結果としてはまだまだです。やっぱり以前のようにはいかない、ブランクもあるし」
「焦る必要もないさ。これから少しずつ取り戻していけばいい」
鐵は陸上の事は詳しくなかったが、挫折を経験しても結果を出そうとする選手たちの逞しさに感嘆する。すると、蓮司はふと目を伏せた。
「鐵さん。俺、やっぱり美香の事ちゃんと公表して自首しようと思うんです」
突然の告白に鐵は虚を突かれて固まった。
「自首って……」
「いくら錯乱していたとはいえ、俺のやった事は犯罪です。だから、罪はちゃんと償うべきだって思うんです」
「だけどそれじゃあお前――」
せっかく走れるようになったのに、前向きになったのに。という言葉を鐵は飲み込んだ。逆だ、陸上にもう一度向き合えるようになったからこそ、彼は罪を償うべきだと痛感したのだ。
「今日はすごくいい機会でした。今でも自分が走れるってわかったから。これでもう心残りはありません」
「藤波……」
何と声をかけるべきかわからず沈黙していると、蓮司は明るい声で続ける。
「鐵さん、来年イギリスでパラの陸上の世界選手権大会が開かれるのをご存じですか?」
鐵はそうだっけ、と首を傾げた。世間の話題に疎いのが仇となったが蓮司は構わず続ける。
「三年前に国際パラリンピックの委員会が主催して始まったんです。障害を持つ陸上選手が世界で戦える場が出来て、俺は……いつかその大会に出てみたい。そのために、まずはすべき事を清算しないと」
彼はまっすぐに自分の未来を見据えていた。眩しくて鐵には到底直視できない。
「そうか……、お前が決めた事なら俺は何も言わないよ」
「はい。……鐵さんはお変わりないですか?」
「俺? 俺は、そうだな……」
蓮司の依頼を終えてから、義肢の注文は何件か来た。後は、――観音寺家の件くらいか。
「色々あったけど、まあそれなりにやってるよ」
自分でも曖昧な答えだとわかっていたけれど、心の整理がまだできていない状態で言えるのはその程度だ。
「あ、奥さんは元気にしてます?」
「眞白か? あいつも変わりないよ」
眞白は今葵と一緒に別のところで休んでいる。そういえば眞白とも面識があったのだし連れてくればよかったかな、と思ったけれど病み上がりだしあまり無茶をさせるのも気が引けた。




