序章 暮れ六つ時
現代ファンタジー。場所は日本ですが地名は架空です。
ヒューマンドラマではありますが、主軸は恋愛。
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洸輔を育ててくれた先代の『烏羽帝』、玄一郎は無口で物静かな男だった。家族もなく、友と語り合う姿も見た事がない。寡黙で、いつも眉間に皴を寄せて他者を拒む、孤独な男だ。
ある晩夏の日、血を思わせる真っ赤な夕暮れに蜩が寂しく鳴く境内の縁側に、黒い袈裟を着たその男が相も変わらず座っている。地縛霊の様に虚ろで青白い顔をした男は、魂が抜け落ちた様に動かない。
「玄一郎、食事が出来たよ」
洸輔が彼に声をかけると玄一郎は覇気のない目でこちらを見た。黒曜石の瞳は夕暮れの光を浴びているはずなのに、その光すら吸い込んでしまうほど深く濁っている。
今日は昼頃にこの寺に来客があった。玄一郎が応対し、洸輔は何の用か分からず奥に引っ込んでいたけれど、
(パッと見えた感じ咲人だったし、五帝の仕事だったんだろうな)
小さな寺に暮らす玄一郎の元にはよく客がやってくる。大抵は法事を頼む近所の檀家さんが大半だが、時折寺に迷い込んでくるのが、何か深い悩みを抱えて思いつめた顔をした咲人達だ。常人とかけ離れた体質を持つ彼らは、その内に秘めた多くの悩みを玄一郎に打ち明けにやってくる。
法事の仕事は洸輔も手伝った事があったが、咲人との案件が来ると玄一郎はすぐに洸輔を遠ざけた。故に彼らがどんな理由で玄一郎の元を訪れたか、洸輔はいつもわからずじまいだった。
玄一郎は立ち上がると無言で食堂へと向かった。洸輔もその後についていく。
「なぁ、今日咲人のお客さん来てたけど、何かあったのか?」
大股で歩いている玄一郎の背に向かって尋ねたが、
「お前には関係あらへん」
突き放すような言い方に洸輔はムッと口を歪める。不器用で不愛想な人ではあったが、その言い方はどうにも癪に障った。
「なんでだよ、五帝の依頼だったんだろ? 俺にも関係あるじゃん」
「お前は五帝やない」
玄一郎は取り付く島もなかった。目の前に広がる黒くて大きな背中は頼りなさげで、どうしてそう思うのかと言われれば、単純に年老いたからなのか。
「なんだよ……、まだ『お前は五帝になるな』なんて言うつもりか?」
「……」
「いい加減認めてくれよ。俺はあんたみたいになりたいんだ。そのために修行だってこなしてきたのに」
孤児だった洸輔は幼い頃玄一郎に拾われた。烏羽帝の号を持つ玄一郎に憧れて、幼い頃からずっと彼の元で修行して、少しずつ五帝の役割についても理解してきたつもりだ。
「俺もう十八だよ。そりゃああんたに比べりゃ餓鬼かもしれないけどさ」
もう物事の分別もわかる。それなのに、玄一郎はいつまでも洸輔を子ども扱いする。
ふと、玄一郎が立ち止まった。
「……お前、そんなに五帝になりたいんか?」
振り返った玄一郎の顔がよく見えない。影に沈んで彼が何を慮っているのかがわからなかった。
「なりたいんか、って……。当然だろ」
「なんでそんな五帝にこだわる?」
「……っ、拘ってるわけじゃ――」
玄一郎は洸輔にとって唯一無二の家族だ。血は繋がっていなくても、洸輔にとって父親も同然で、玄一郎に拾われてから、彼の背についていく事が嬉しかった。
ただ、拾ってくれた玄一郎に対する恩返しがしたい。彼の様に誰かを救える人間になりたい。そう思ってるだけなのに、
「お前は五帝にならんでええ、洸輔」
段々夕暮れの空が暗くなっていって、光は儚く消えていく。目の前の玄一郎の姿は益々黒く濁っていった。
「お前はなんもわかってない。五帝がどんな残酷な存在か」
「な、なんだよ……、それ」
「五帝はヒーローやない。誰かを救えるなんてそんな甘い考え、持ったらあかん」
苦しそうに吐き捨てる玄一郎の声が洸輔の身体に突き刺さる。そして彼は悲しそうに告げるのだ。
「洸輔、よう覚えとけ。五帝はな、誰も救えんのや。咲人も、――人間もな」
やめてくれ、そんな事言わないでくれ。
俺はあんたに救われたんだ。あんたに憧れたから、あんたのような人間になりたいと思ったんだ。その想いを否定するような事を言わないでくれ。
だが、洸輔の言葉は玄一郎には届かない。そしていつも最後に、玄一郎はこう言い締めて話を終える。
「洸輔、俺はな。――もう誰も救えへんのや」
黒い影に覆われたその養父の顔を、洸輔はもう思い出すことが出来なかった。