・~ 朝の手前で ~・
まだかなあ……朝の陽射しを受けた窓ガラスと、四角い壁掛け時計を何度も見返す。じっと椅子に座ってはいたものの、ブラブラと動かす小さな足には落ち着きが見られない。
でもきっと、もうすぐだよね。そう自分に言い聞かせながら、いつものように耳を澄ませる。
やがて、ガシャンと玄関の扉が音を立てた。それを聞いた瞬間、美幸の顔がパっと明るく弾ける。その嬉しさと興奮を隠すように、小さな体をダイニングテーブルの下に潜り込ませた。
「ただいま……って、あら?」
買い物袋の音と母さんの声が、一緒になって近づいてくる。
美幸は知っていた。この先の展開が、いつもどおりに進んでいくことを。だから、板間の床で寝転んでいても全然、平気だった。ううん、このかたい感じが逆に、イイの。
「もう! 美幸ったらまた、こんなところに……」
ほんの一瞬だけ、テーブルの下は母さんの声で満たされた。それは怒っているというよりも、半ば呆れている様子だった。
「ほら、出てきなさい」少し間を置いてから、母さんはいつもの口調に戻った。そのしゃがんだ姿を、美幸は逆さ向きに見ていた。そのまま、自分の胸の内にある想いを両手にのせて、まっすぐ腕を伸ばす。
「おかえり、お母さん」
この美幸の出迎えに、母さんはちゃんと応えてくれる。それを知っているから、素直な気持ちが自然と満面の笑みになって表れた。
「はいはい、ただいま」
美幸の手を引く母さんの疲れた顔に、少しだけ笑みがこぼれた。それを見た美幸は、また嬉しくなって顔がほころぶ。そして、立ち上がろうとする母さんの肩を掴みながら、ギュッと背中にしがみついた。
そうそう……あの頃の私、変なクセがあったっけ。それが何故だか、無性に楽しくて仕方がなかったことだけは、今でもハッキリと覚えている。
そんな日々も、あっという間に通り過ぎて……って、あれ? このフワフワとした感じは、何?
どこかに出かけていた意識が、フッと美幸の元に舞い戻ってきた。
半開きの美幸の目には、ぼんやりと何かが映し出されている。薄暗い中に浮かんでいるそれは、横長の四角い形の……そう、見慣れた二階の窓枠。そのとき、ふと思った。
あ、そっか。夢の中で、ずっと前の懐かしい光景を見てたんだ。
お腹を覆うタオルケットの手触りが、いつもと同じで心地良い。うん、いつもどおりの感……触?
そういえば私、いつの間に布団に潜り込んだの? 確か、さっきまで……廊下で横になっていたのに。
部屋の中が心なしか、ひんやりと感じる。
でも、まあ……いいか。
ぼんやりとした頭で今、別にアレコレと考えることでもない。あとは余計な力を抜いて、ただ目を閉じるだけ。
しかしながら、そんな美幸の思いとは反対に、体が勝手に起き上がってしまう。そして、うつむいていた顔が自然と、東の窓のほうへと向いた。
特別な何かを感じ取った、という訳ではない。四つん這いのまま、誘われるように窓へと近づく。そして美幸は、何気なく外の景色を眺めた。
網戸越しの薄暗い中でも、納屋の一部とトマト畑の輪郭を何となく捉えることはできた。さらに美幸の視線は、少し離れた雑木林へと進む。今は風も収まっているようで、揺れ動く草木の音もない。そこにはただ、ひっそりとした静寂だけが漂っていた。
いつの間にか、家の周囲を彩っていた虫の音色は薄らぎ、今にも途切れてしまいそうだった。そして周囲の物音は、真っ黒に塗りつぶされた雑木林と薄暗い夜空の間に、ゆっくりと吸い込まれていく。
あまり静かすぎるのは、ちょっと……
妙な胸騒ぎを感じた美幸は、それを抑えるように胸元で両手を重ねた。そのとき
<そろそろ、明け六つ時のようだねえ>
しんみりとした女性の声が、不意に頭上で広がった。
その声に、美幸の両肩がビクッと反応した。すぐさま目を閉じて、服の上からお守りをギュッと握りしめる。だがその直後、あることに気がついた。
突然で、ビックリはしたけど……ただ、それだけ? あの、何とも言い難いイヤな雰囲気は、まったく感じられない。
<あらあら、ごめんなさいね。驚かせてしまったかしら?>
その割に、あまり悪びれてない言いかたに聞こえる。それは、妙に馴れ馴れしいような……冗談交じりの笑みが容易に想像できる、ごく普通の声だ。
美幸は、ゆっくりと目を開けた。薄暗い部屋の板壁も、上目遣いに見た網戸の窓も勿論、いつもと変わらない。意を決して見上げた天井も、それは同じだった。
「だ、誰?」やや落ち着きを取り戻した美幸だが、どことなく尋ねる声は思いのほか小さくて、か細い。
<アタシのことは気にしないで。まあでも、そうだねぇ……>
何か考え事をしながら、その声は天井から壁伝いに下りてくる。そして、窓の下枠あたりで美幸と向かい合ったと思ったら、小さな笑い声のあとで
<『この部屋の住人』とでも、言っておこうかしら>
彼女は、そう告げた。
部屋の住人……美幸は頭の中で繰り返す。
<アンタがここに来たとき、すぐに声を掛けようとしたんだけど……そこの御方に止められていたからねぇ>
目の前にある窓が、胸元にある両手の中をじっと見つめているような気がした。
<いいかい? この部屋の中で、それに触れている間はアタシ……>
胸元が気になった美幸は、両手を離して確かめようとした。その途端、目の前の声がフッと周囲に溶け込んで消えていく。それに気がつき、すぐさま胸元のお守りを握り直した。
<もう! 途中で手を離しちゃダメでしょ。まったく……>
何だか、母さんのボヤキ声にそっくり。それが、なぜか可笑しく思えてつい、美幸の口元が緩んだ。
何だろう……今まで聞いてきた声とは、まったく違う感覚。
本当は声だけが揺らぐ、不気味な存在であるハズなのに。なぜか不思議と、何の抵抗も違和感もない。普通に聞き慣れた人の声を、ただ周囲に薄っすらと響かせているようにしか思えなかった。
<まあ最初は、こんなものかしら。アンタの邪魔しちゃ……いけないから>
窓際にあった声が、再び天井のほうへと戻りはじめた。
「待って! あと……」つい口走るように言った美幸だが、次の言葉がすぐに思い浮かばない。
<アンタの気持ち、わからなくもないわ。けど、今はダメ。もう時間が、そんなに残ってないの>
天井から聞こえるその声は、やや残念そうに言った。
「時間?」 <そう。アンタとアタシは、闇夜の中の間柄なの。それに、もうアタシ……眠たいから>
美幸の問いに、あくびを伴った答えが返ってきた。
<次は、アンタが声をかけてちょうだいね。じゃ……おやすみ>
天井でパッと散るように広がった声は、ゆっくりと部屋の中に溶けていった。
何だったの、いったい……
美幸は傾斜した天井をしばらくの間、見つめていた。あの大きな横木の梁のあたりに、何か残っているんじゃないかと考えてみる。でも、そこにあるのは沈黙だけ。あとは、部屋の隅に……
ハッとした美幸は、首を横に振った。それだけは、ダメ! 気にしない、気にしない。
そのとき、まったく別の気配を外のほうから感じた。今まで寝静まっていた何かが目覚め、ゆったりと動き出そうとしている。美幸はそれを確かめようと、東の窓辺に手を置いた。
ついさっきまでのモノクロな夜空が、濃厚な藍色に染まり始めている。それは、残りの薄暗い闇を少しずつ吸い取っていった。そして真っ黒だった雑木林の中にも、わずかな変化が現れた。あの透明感のある音は……ヒグラシの鳴き声だ。
ひっそりと覆っていた空の濃い厚みはゆっくり、ゆっくりと西側の海のほうへと引き下がっていく。その隙間に現れた濃い青天の空も、徐々に薄らいで……東の空は、白々と明るい光を増していった。
もう、夜が明けようとしている。美幸はただ、この移りゆく景色を眺めていた。
美幸の近くをふと、何かが通り過ぎた。それは、優しく抱きしめる人肌の温もりと同じようなものを、部屋の中に連れてきた。
ああ、この安心感……本当に久しぶり。美幸は両手を重ね、そっと目を閉じた。
やがて、波打つようにざわついていた胸の中に、以前の日常の感覚が少しだけ戻ってきたような気がした。
これって、ごく普通で当たり前のことだったのに。
それが今は何だか、とっても懐かしい。すぐに消えてしまったのは、ちょっぴり残念。でも、忘れてしまった大事なことを思い出せたみたいで、心の中は嬉しい気持ちで満たされていた。
両手の中にある温もりを感じ、自然と笑みが浮かぶ。
いつしか美幸は、布団の上で丸くなっていた。この穏やかな気持ちを、胸の中で大事に抱えるように。
「……でね、あの日はそう……本当に特別だったの。私にとっては、ね」
小一時間くらいの長いひとり言が、ようやく終わろうとしている。
その母さんの姿を横目で見ながら、守はふと思った。
以前に聞いたアレの話と、内容はだいたい……同じかな。
「そうそう。そのあとに面白いことが、また……」
ん? まだ続く? 守はあらためて、母の顔を確かめた。そこに浮かんでいた表情は、さっきとは別の……違う景色を眺めようとしている。
そろそろ、過去を漂う少女から、今の『美幸さん』に戻ってきてもらわないと。
「そういえば、今日は父さん……早番だったよね?」
守は軽く咳込むと、ややわざとらしく尋ねた。
「え? そうね。今日は……」その時計を見る表情が、いつもの母さんの顔になった。
「あら、大変! 買い物が……もう行かないと」
慌てた様子で、丸椅子から立ち上がる。と同時に、戸棚とベッドの脇に置いてあった紙袋を両手でサッと掴み、足早に病室から出ようとした。
「じゃあ、また今度ね」そう言い残していった母さんだが、大事なものを忘れている。
<ホントに、あのコは……相変わらずだねえ>
置き去りにされたポシェットから、ため息混じりの声が聞こえる。
「そうだね。でも、さっきの話だとキミは……」
<あのときは、色々と事情があったの。今は直接、口を挟まないだけ>
声の主はポシェットの肩ひもに半透明の小さな体を巻きつけ、その真紅の目を守に向けた。
「でも、別の口のほうは……」
守が言いかけたそのとき、病室のドアが勢いよく開いた。
「もう! 早く言ってよね。忘れるところだったじゃない!」
自分の右肩あたりに小さく愚痴をこぼしながら、母さんは戻ってきた。そして、片手で掴んだポシェットを紙袋の中に押し込んだ。
「ホント、気をつけなよ」 「わかってる。じゃあね」
息子の心配をよそに、その母親はドアに挟まれそうになりながら、また慌てて出ていった。普段は決して耳にしない、不思議な『声』を引き連れて。
<そこどけ、ソコドケ! 慌てん坊のお嬢が、お通りだゾ!>
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