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なみのこえ  作者: 甘巻蔵
第一章 残暑~夜が明ける
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・~ 夜更けの眼 ~・

 本当は、少し前から気がついていた。

 穏やかな夜風が、草木と軽やかな虫の音を一緒に揺らしている。いつしか美幸の左目は、まだまだ暗い夜の中をうつろに眺めていた。

 ああ、やっぱり。また、目が覚めてしまった。

 右肩を下に、横向きの体勢で美幸は寝ていた。両膝を軽く曲げたまま、足の付け根あたり……じゃなくて、下腹部の内側に軽く力が入っているのに気がついた。

 うつ伏せになった美幸は、じっと体を丸めた。少しばかり布団の上でモゾモゾしたあと、おもむろに上体を起こす。

 そんなに差し迫っては、ないけれど……とりあえず、トイレ。

 ぼんやりとした暗がりの中、美幸は一段ずつ確かめるように、ゆっくりと階段を下りていった。


 誰もいない居間は、常夜灯のオレンジ色の明かりで静かに覆われていた。近くのドアの隙間から時々、先生の部屋の明かりを見ることがある。だが今夜は、その明かりも消えていて、足元は心もとない。美幸は、大きな座卓に足をぶつけないよう注意しながら、トイレに向かった。

 用を済ませたあと、喉の渇きを感じた美幸は、台所に寄ることにした。

 それとなく手探りで、柱のスイッチを探す。薄黄色の電灯が数回点滅したあと、コンクリートの土間を照らす。床下のあたりだろうか……コッソリと独奏していた虫の音色は、美幸の足音に気がついてピタリと止まった。


 大きな流し場の蛇口に、美幸は左の手のひらを差し出した。少し口に含むだけ、と思いながら冷たい井戸水に触れる。でも気がつけば、両手を合わせてゴクゴクと……喉を鳴らしながら、コップ一杯分くらいの量を飲んでしまっていた。

 ひと心地ついたあと、ほぼ無意識に濡れた両手を顔に押し当てた。冷たい水滴が、ぼんやりとした顔の熱をスッと取り除いていく。そして美幸は、サッパリとした気分と同時に、ほんのわずかな後悔が浮かび上がる。

 こんなときに目が冴えても、ねえ……

 そのとき、ふと何かの視線を感じた。その方向に目をやると、出入口の網戸に見慣れたシルエットが姿を現していた。


 「ゴローさん」美幸は網戸の前でしゃがみ、小さく声をかけた。

 彼は夜の間、たいてい外にいる。納屋の近くに大きな犬小屋があるけれど、台所の物音に気がついて、様子を見に来たようだ。

 彼は網戸越しに、美幸の顔をしばらく眺めていた。そして気が済んだのか、ゆっくりと向きを変えると、暗闇の中へ歩き出した。

 どうしよう……美幸は少しばかり迷った。心の赴くままに、ゴローさんのあとを追って外に出る。まあ、それも悪くないと思った。しかしながら、外にいる虫たちの皆が皆、涼しげで心地良い音色を奏でてくれるとは限らない。そんなことを思っていた矢先に、むずがゆいような微かな羽音が、不規則に耳元を通り過ぎたような気がした。


 えっと、確かこのあたりに……アルミの流し台の下にある扉を開けて、丸い形のあるモノを探す。

 「あった」美幸は丸い缶のフタを開け、蚊取り線香をひとつ取り出した。

 でも、やっぱり……丸い缶の隣にあった陶器の受け皿を手に取り、しゃがみ込んだ美幸は考えた。そのとき、昼間の出来事がフッと頭をかすめ、新たに別のことを思いついた。

 そうだ。廊下からだったら、もしかして……

 戸棚の近くにあった使い捨てライターを手にとり、渦巻の線香に火をつける。その角が取れて丸くなった先端から、ひとすじの煙が伸びていく。嗅ぎ慣れた香りが漂い始めたあと、美幸は静かに歩き始めた。


 蚊取り線香の受け皿を左手に持ち、ゆっくりと前に向ける。そして、転ばないように慎重に足を進めながら、美幸は廊下にたどり着いた。

 網戸になっている廊下に身をかがめ、音を立てないように受け皿をそっと置く。その脇で美幸は、あぐらをかいて座り、右手で頬杖をついた。そのまま、蚊取り線香の揺れる煙を横目に、しばらく外をぼんやりと眺めていた。

 薄暗い夜の闇に目が慣れてきた頃、外の物干し台のあたりで、影がのっそりと動いているのが見えた。

 あ、やっぱり……ゴローさんだ。美幸がそう思ったとき、彼も気がついたようにピタリと止まった。そして、こちらにやって来るのかと思いきや、その場に留まって鼻先を上のほうへ向けた。


 ここからだとよく見えないけれど、何か上のほうを見ているような……

 ゴローさんを真似て、視線を上のほうへ向けてみた。昼間に洗濯したときの物干し竿と、軒先の裏側の板が暗闇の中でひっそりとしている。その近くで美幸は、か弱い光の粒と目が合った。あれは、たぶん……星だ。

 雑誌や新聞記事などで、星の名前はよく目にしていた。しかし、実際の夜空と照らし合わせる機会がなかったせいか、星を見分けることには慣れていない。

 だから今、見ているアレもどんな星なのか見当もつかない。でも……美幸は網戸に顔を近づけたまま、その輝く点からしばらくの間、目が離せなかった。


 見上げる姿勢に疲れた美幸は、だらりと横たわって仰向けになった。縦長の廊下の天井をチラリと見たあと、外にいるゴローさんの姿を探す。だが既に、物干し台の近くに彼はいなかった。

 もう眠くなって、納屋のほうに戻ったのかも。ゴローさんを探すのをやめて、美幸は再び夜空を見上げた。

 月明かりが全然ないのに、目に映る空は何だか薄っすらと明るく感じた。さっきまで眺めていた星も、目を離してしまえば他の小さな星々と混ざり合い、もう見分けがつかない。ただ、どれも同じように小さく、とっても遠い存在。それでも確かな輝きを、美幸が眺める夜空に散りばめていた。


 静かに漂っていた蚊取り線香の煙が、フッと押されるように揺れ動く。

 廊下の網戸越しに、夜風が虫の奏でる音色と共に優しく流れてきた。夜もかなり更けているようで、虫たちの鳴き声も若干、まばらになってきた。そして、何となく眺めていた夜空の星も、次第にぼんやりと……にじみ始めてきた。

 目に見えない、何か大きなものにフワリと包まれているような、心地良い感覚。

 眠気が再び、静かにやって来た。

 胸元あたりで両手を重ね、美幸は体を横に向ける。いつの間にか、体が自然と丸まっていた。閉じたまぶたの奥深くで感じる、自分のゆったりとした息づかい。それを遠くに聞きながら、そのまま廊下で眠りに落ちた。


 見えない時の流れは、ゆっくりと……闇夜の中を静かにただ、通り過ぎていく。

 「ん? 何か匂うと思ったら……」

 仏間の障子に手を置いた先生、志木谷しきたに おさむは小さくつぶやいた。

 薄暗い廊下の中、彼は陶器の受け皿から昇るひとすじの煙と、規則正しくも微かに動いている背中を見つけた。さらに、網戸の向こう側でじっとしている、大きな影の存在にも気がついた。

 「やあ、ゴローさん。いつも、ありがとね」

 美幸のほうをじっと見ている彼に、鎮は軽く頷いた。

 さて、このままではダメだ。ちゃんと二階の布団で、寝かせないと。

 「ほら、美幸さん。ここで寝たら……お腹が冷えるよ」

 肩を優しく揺らしながら、鎮は声をかける。すると彼女は、拒否するように肩を左右に小さく動かしたあと、体をさらに丸くした。

 「さあ……風邪ひく前に、上に戻るよ」

 鎮は蚊取り線香の先を短く折ったあと、美幸の背中を手のひらで、軽くポンポンと叩いた。


 「んっ、んん……」美幸は体を伸ばして、仰向けになった。だが、目は未だに閉じたままだ。

 「さあ……」鎮が促すように声をかけようとすると、美幸は両手をゆっくりと伸ばした。そして、彼に向かって手を差し出し、少し眉間にしわを寄せながらも口を動かす。

 「んん……おっ……して」

 寝ぼけた彼女はきっと、私を母親と勘違いしているのだろう。そう思いながらも鎮は、その手を取ってゆっくりと引っ張る。だが、起こした彼女の頭はユラユラと、不安定に揺れ動いている。

 美幸の右手を掴んだまま、鎮は向きを変えてしゃがんだ。そして

 「ほら、おいで」なるべく小さく丸めた背中を、彼女に向けた。

 少し待ってみたが、美幸に動きは見られない。そこで鎮は、彼女の手の温もりを自分の肩にそっと引き寄せてみた。すると彼女は仕方なくも、のろのろと彼の背中に顔をあてると、ぎゅっとしがみついた。


 美幸をしっかりと背負ってから、鎮はそっと立ち上がる。その様子を見てゴローさんは、静かに網戸から離れようとしていた。

 「おやすみ」鎮は、闇夜に消えていく後姿に声をかけた。すると、背後から

 「うん。おやすみ」と、無邪気な声が小さく返ってきた。

 そうだね。ゆっくり……おやすみ。

 静かに笑みを浮かべた鎮は、美幸を背負い直してから、階段を慣れた足取りで上がっていった。

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