・~ 先に住むもの ~・
平積みになった専門書や、本立てに押し込まれたファイル類。加えて、横長の封書の束と分厚い電話帳のようなカタログに挟まれたペン立て等々……赤茶色の大きな机の上は、たくさんのモノであふれかえっていた。
左寄りにある引出しの手前あたりに、わずかな空きスペースが残っている。アームを目一杯に伸ばしたデスクライトが、そこにある文庫本と美幸の両手を真上から照らしていた。
ここは、書斎のような先生の部屋。奥行きのある木目調の壁のほとんどを、高さがちぐはぐな多くの本棚が覆い隠すように並んでいた。けれど、図書館のように整えられた静寂な雰囲気は、ここにはない。かと言って、足の踏み場もないくらい、雑多な山に埋もれている訳でもなかった。
美幸の耳に触れたのは、夕食のときとは一味違った、ノイズ混じりの短波放送。ちょうど今は、ゆったりとしたギターの音色と現地語っぽい優しそうな歌声が、控えめに部屋の中を漂っている。
ラジオの信号は時折、不規則に変化していた。受信機の音量は同じなのに、弱くなったかと思ったら急にまた、強くなったりする。それは、遠く離れた南の島……穏やかな波打ち際の音を木陰で聞くように、美幸の足元にそっと伝えてきた。
美幸は、先生の大きな椅子に座っていた。だが、その背もたれと肘掛けに体を預けてしまうと、古びた和紙カバーの文庫本を照らす机から、遠ざかってしまう。仕方なく美幸は、前のほうにチョコンとお尻を乗せる程度に腰掛けた。最初は姿勢よく、背筋を伸ばしてはいたけれど……長続きせずに、自然と背中が丸くなる。
少し離れた壁の本棚では、先生が木製のステップチェアに寄りかかり、先月号の専門誌に目を落としていた。普段とは違う眼鏡を鼻の上に引っ掛けて、時どき手にした本を前後に動かしている。
そんな先生の様子を横目で見ながら、美幸は黄ばんだページの右上から、順にゆっくりと文字を追っていた。だが、その内容……古い歴史小説のようだが、その描かれた世界に没頭している訳ではなかった。
ただ何となく、だと思う。異国情緒あふれるトロピカルな音楽と、目の前にある本のページをめくる音。さらには、外の虫たちの涼やかな音色に彩られながらも、飾り気のない先生がそこに居る……落ち着きのある部屋。
この雰囲気の中に溶け込んでいく居心地の良さを、ただ美幸は静かに感じていたかった。
安らぎがフワリと漂う時間の流れは、やがて美幸に小さな眠気を運んできた。またそれは、夕食後に服用している錠剤が効いてくる頃でもあった。
「そろそろ……どうかな、美幸さん?」
背もたれの角に手を置いた先生が、優しく尋ねてきた。
うん、そうなの。確かにページをめくる手は、完全に止まっている。それに、顔が文庫本の中に埋もれてしまう寸前でもあった。
「はい……」ゆっくりと上体を起こしてから、文庫本をそっと閉じる。そして、目をこすりながら後ろを振り返り、ぼんやりと見える先生の顔に向かって美幸は小さく頷いた。
そのあとのことは、とても曖昧だが……いつものことだった。
先生の部屋を出てトイレに行き、隣の洗面台で軽く手を洗う。それから這うようにして、二階の急階段を上る……あたりまでは、何となく記憶にある。そして気がつけば、美幸は暗がりの部屋の中、布団の上で仰向けになっていた。
ぼんやりとした意識のほとんどは、深い眠りの中に沈みかけている。でも、閉じようとする美幸のまぶたを、とても小さな不安が半ば強引に引っ張り上げようとしていた。
もう……眠たいのに。
眠りにつく前の一瞬の静寂の中を、あのイヤな『声』の気配がポツンと浮かび、脈打ち始める。だがそれと同時に、美幸は自然と右手を胸元の上に置いた。そして、そこにある小さな布袋を服の上から軽く握りしめる。
これは先生がくれた、お守りだ。この中に向かって、美幸は今の想いをギュッと寄せる。
もう、邪魔しないで。お願い……
すると、体が布団の中へ沈み込むような感覚がやって来た。そして、ぼんやりとしていた意識は閉じたまぶたの奥の中へと、静かに消えていった。
何だろう……ふわふわとした、柔らかくて人肌のような温もりに包まれている。
不思議に思った美幸は、目を開けようとした。しかし、そのまぶたは重く閉ざされたまま、思うように動かない。まぶたの向こう側が明るいのは、何となくわかるけれど……でも、ここは?
「ほら、そんなところで突っ立っていないで……」
母さんの声によく似た柔らかい手が、そっと優しく手を引いた。すると突然、体がフワリと宙に浮く。
えっ……エエッ!? 驚きのあまり、泳ぐように体をバタつかせる。そして何も見えないまま、美幸の手を引く誰かの腕にしがみついた。
「大丈夫。落っこちたりは、しないから」
その声は、美幸の隣で優しく笑う。と同時に、その掴んだ腕の感触がフッと消え去った。
浮いている……隣の誰かと一緒に。よく分からない状況なのに、なぜか不思議と心地が良い。
最初は、宙に浮いているような感じだった。けれど、次第に体の余分な力が抜け落ちて、今は……温かい水の上で、仰向けになっているような気分だ。そして、何ともいえない浮遊感が、全身を隅々まで解きほぐしていく。
「とっても、いい」自然と緩んだ美幸の口から、吐息混じりの声がこぼれた。
「そうそう。のんびり気楽に、ね。ここは、あなたの世界なのだから」
隣にいる誰かさんは、優しく美幸に声を寄せる。
「わたしの、世界?」 「そう。とっても自由だけれど、ちょっぴり不自由な……あなたの中の矛盾した世界」
隣でじっとしていた声は、美幸の周囲でフワリと漂い始めた。
「目が開かないのは、あるモノをこの中に閉じ込めているから。その正体が何なのか、予想がつくかしら?」
普段ならドキッとするような言葉も、今は素直に受けとめることが出来た。
ええ、わかっている。
それは以前よりも、とっても小さくなっていた。いつの間にか体に付着した一粒の砂のように、気にも留めないくらいの存在。でも……
それでも、やっぱり怖いの……どうしても。
美幸を中心に、ひとつの波紋が広がろうとしていた。だが、そのとき
「そんなに怖がらなくても大丈夫。だって今ここに、私がいるから」
大きく揺れ動きそうな美幸を、その声がすぐさま包み込む。すると何事もなく、美幸の周囲は静寂を取り戻した。
「あなたは……誰?」やや戸惑うように、美幸は尋ねる。
「私は、あなたの近くに住んでいるの。あなたのことを本当に心配して、気遣って……そして見守ってくれる人たちよりも、ほんの少し……先にいるの」
えっ、近く? それに、少し先って……どこ?
美幸の疑問は、、小さなシャボン玉のように膨らんで、浮かび上がった。
「そうね、いわゆる『お隣さん』のようなものかしら。こうして毎晩、あなたと会っているけど……普通のお喋りは、これが初めてになるわね」
その声は美幸の手を取り、ゆっくりと上下に重ねた。その美幸の合わせた手を、柔らかな温もりが上からそっと包み込む。
「ま、毎晩?」驚いたあとに出たのは、自分でもよく分からない疑問だった。
「ええ。私に触れたあと、次に目が覚めるまでの間だけ……ね」
目が覚めるまで? じゃあ、これって……
「そのとおり。記憶に残らないのにアレコレ考えても、野暮なだけ。だから……何の遠慮も、いらないのよ」
その声の温もりが不意に、美幸から次第に離れていく。
「あ、待って!」遠ざかる声を掴もうと、美幸は手を伸ばす。教えてほしいことが、まだ……
「ここで伝えることは今、無いの」やや残念そうに、その声は告げる。そして
「近いうちに、私のところでまた……ね」声は細かく散らばって、周囲に溶け込んでいった。その消え入る寸前、指先に何かが触れて……まぶたが軽くなった。
ハッとなって、目が開く。暗い部屋の中で、美幸の右手は天井に向かって伸びていた。その中指と薬指の間に、ビニールのひもが引っかかっている。
あれ? どうして私、手を……灯りをつけようと、していたの?
広がった指はそのままに、触れたひもを引っ張らないようにしながら、静かに手を下ろす。そして美幸は、胸元にあった左手の上に右手をそっと重ねた。
何かを見ていたような……夢の中で。それを思い出そうとして、再び目を閉じた。そして美幸は、ゆっくりと深呼吸をする。だが、おぼろげな意識の中では、やはり何も見えてこない。ただ同時に、落ち着いた夜の気配も一緒に、そっと吸い込んだような気がした。
その澄んだ空気に包まれた部屋の中は、とても心地が良かった。ゆっくりと上下に動く美幸の胸の中は、フワフワと浮かぶように……軽くなっていく。
やがて美幸は、深い眠りに就こうとしていた。涼しげな外の夜風と虫の鳴き声を、はるか遠くのほうで……微かに感じながら。