・~ 日暮れに灯る ~・
それは砂浜からの、散歩の帰り道。
草木に囲まれた狭い小道の中を、ゴローさんは慣れた足取りで一歩一歩、ゆっくりと進む。その緩やかな上り坂は、曲がりくねっているうえに、デコボコして歩きにくい。
ときどき、木の根っこや段差に足をとられ、美幸は転びそうになった。そのたびに、少し前を行くゴローさんは立ち止まり、チラリと横顔を見せる。そして涼しい木陰の中、ぽつぽつと点在する木漏れ日を踏みしめながら、彼は再び歩き出した。
美幸は自分の足元とゴローさんの後姿を交互に見ながら、足を前へと動かす。呼吸が荒っぽくなってきたそのとき、前方の木陰がフッと消え去った。そして、明るくなった地面の向こう側、視界が一斉に開けていく。
へえ、ここに……出て来るんだ。
自然と両手を上にあげ、美幸は大きく背伸びをした。見慣れた赤茶色の二階の屋根が、小さいながらも遠目に見えている。そして、ホッとした気持ちと一緒に、大きく息を押し出した。
膝下くらいの草むらで、ゴローさんが用を足すのを待つ間、美幸は海のほうを振り返ってみた。
ここからだと、真下の砂浜は……残念ながら、草木に埋もれて見えない。遠く水平線に目をやると、フワリと浮かぶ白い雲が、横一列に並んでいる。その柔らかそうな雲の塊は、傾きつつある陽射しを吸い込んで、ほんのりと色づき始めていた。
草をかき分ける音に気がついた美幸は、足元に視線を落とした。いつしか長く伸びた自分の影に、ゴローさんがそっと寄り添う。そのまま美幸たちはゆっくりと、先生が待つ家のほうへと一緒に歩いていった。
玄関のあたりまで戻ってくると、聞き慣れた澄んだ音色がまばらに重なって、広がり始めていた。海とは反対側の薄暗い雑木林の中、そこで広がるヒグラシの鳴き声は、移りゆく夕方のひとときを周囲に漏れなく伝えていた。
台所から伸びたトタン屋根の軒下、長方形のコンクリートの土間の上で、淡いグレーの背中が丸くなっている。ゴローさんと美幸は、そこに座り込んでゴソゴソしている先生に近づいていった。
「ただいま、戻りました」美幸は、細身の背中に帰宅を告げた。
小さな木箱の腰掛に、先生は座っていた。五分丈の浴衣みたいな、ゆったりとした服と頭にタオルを巻いている。
「やあ、おかえり。どうだったかな、海辺の散歩は?」
すり寄ってきたゴローさんを右脇に抱えて、美幸のほうを見上げた。
「海の水が、ぬるま湯みたいでした」思ったことを、そのまま口にすると
「だろうね。今日も暑かったからね」ほんの少し、先生は苦笑いを浮かべた。
「さて、美幸さん。風呂の支度は済ませてあるけど……」
その途端、灯油ボイラーの音が十数秒くらいの間、家の周囲を包み込む。その鳴り響く低音が途切れる直前に、美幸は軽くうなずいた。
「なら私は、ゴローさんを綺麗にしよう……かな?」
いたずらっぽい笑みを浮かべて、先生は大きなゴローさんの体を半ば強引に……でもゆっくりと、横に押し倒す。水を含んだ濃いコンクリートの上で、彼は先生が手にしたブラシのされるがまま、尻尾をのんびりと動かしていた。
少しの間、気持ちよさげなゴローさんの表情を眺めたあと、美幸は家の中へと入っていった。
風呂場の小窓が薄っすらと、茜色に染まっている。それを美幸は、湯船の中から何となく眺めていた。
これまでと違って、今日は様々な変化に触れた一日だった。そんなことを振り返りながら、脱衣場で半袖の新しい部屋着に頭を突っ込む。
いいえ。今日はまだ、終わってなんかない。どちらかと言えば、これからのほうが……
そこで一旦、美幸は考えるのを止めた。一瞬チラついた、根拠のない不安。でもそれは、風呂上がりの余分な熱と一緒に、扇風機の『中』くらいの風でざっくりと、吹き飛ばすことにした。
美幸はふと、家の外のほうから先生と話す男性の声を耳にした。だが、話はすぐに終わったようで、続けて聞こえた車のエンジン音も、やがて遠ざかっていった。
いつの間にか、玄関の上がり口が居間の障子越しに明るくなっている。その淡いオレンジ色の明かりが、玄関先に訪れた夕闇をも同時に、照らし始めていた。
「さて、今晩は……毎度おなじみ、小宮カレーだね」
金色のアルミ鍋を両手に持ったまま、先生は台所から上がってきた。とっさに美幸は、座卓の隅にあった新聞紙を真ん中あたりに移動させる。先生は小さくヨイショっと言いながら、その上に鍋を置いた。
鍋蓋の隙間から漂う香ばしいカレーの匂いが、居間に広がり始めた。その中で、先生と美幸はお皿やコップ、それに冷蔵庫にあらかじめ入れてあったキュウリとトマトのサラダを、次々に卓上へと並べていく。その後に先生は、いつものようにドアを開けたまま、自室の中に入っていった。
少しすると、軽やかなピアノが奏でるジャズっぽい音楽が流れ始めた。それを背にした先生が、部屋から姿を現す。
「じゃあ、食べようか」先生と美幸は、向かい合うようにして座った。
この家での夕食は、いつも先生と一緒だ。そして必ず、場違いなくらいに洒落た雰囲気の音楽が、控えめに流れている。
これは、食事中の沈黙を打ち消すための、先生なりの配慮かもしれない。でも時どき、音楽に合わせて体を揺らしている彼の、単なる趣味だと言えなくもない。
食事の合間に先生は、診療所での出来事をぽつりぽつりと話すこともある。だが今晩は、好物の海鮮カレーとあって、いつも以上に口数が少ない。
地元の新鮮な貝類には、今まで美幸の知らなかった独特な磯の食感を多く含んでいた。けれど、中辛のルーとの絶妙な混ざり具合と食べやすさに、あっという間に慣れてしまった。
だが美幸はそれ以上に、目の前にあるサラダと同じトマトが、カレーの中にも多く含まれているのを知っていた。さらに、このハヤシライス風のさっぱりとした後味が、すぐさま次のひと口を誘うように促してくる。
「うん、おいしいね」先生は確かめるように、何度もつぶやく。そして、自分の皿にカレーを追加する。すかさず美幸も続いて、鍋のお玉杓子に手を伸ばした。
ちょうど何曲目かの音楽が終わった頃に、ふたりの食事の手も止まった。おそらく、多めに作っていたであろうカレーも、ほとんど鍋底が見えそうな状態になっていた。
「ふう……たくさん食べたね」お腹をさすりながら、満足げに一呼吸する。
「ホント、おいしかった」肩の力が抜けた互いの様子の見て、ふたりは自然と笑みを漏らす。
「ああ、今日は本当に……良さそうだね」
美幸の表情を見て、先生は再び満足そうに頷く。その穏やかな色違いの瞳と目が合った瞬間、なぜか美幸は気恥ずかしくなった。そして緩みっぱなしの口元を、両手で覆うように隠す。
「いやあホント、良かった良かった……」
カレー鍋の蓋から手を放した先生は、体を後ろに反らす。それを両手で支えたと思ったら、今度は体が自然に座卓の下へと、ゆっくり沈んでいった。
「美幸さん、ここで遠慮は……いらないから、ね?」
仰向けになった先生は、いつもの口癖を美幸に向けて山なりに、フワリと投げてきた。
もし、父さんがいたら……ふと、美幸は思った。
実のところ、美幸は父親のことをほとんど知らない。なぜならそれは、美幸がまだ二歳になったばかりの頃、彼女の父親は不慮の事故に巻き込まれ、命を落としているからだ。
もちろん、当時のことは何も覚えていない。だからなのか、今でも時々……いろいろな想像を思うまま、頭の中で巡らすことがある。私の父さんって……
この先生みたいに、ぎこちなくも見守ってくれる……安心感に似たような優しさを、持っていたのかな?
美幸も先生を真似て、仰向けになってみた。
白い蛍光灯の明かりが、居間の真っ黒な天井を隅々まで照らし出している。
「この家が出来たばかりの頃……ちょうどここに、囲炉裏があったんだって」
寝転がった美幸に気がついたのか、先生が静かに話し始めた。
この家は、先生の生家でもあった。当時は生まれて数年ほどで、すぐに別のところへと移り住んだらしい。そして月日が流れ、先生の事情と様々な縁が重なり、この家を十数年前に譲り受けたそうだ。
「そうそう……私が戻ってきた当初は、掘りごたつ式になっていたよ。でも、かなり傷んでいたから……床板を新調したあとで、畳を敷いたけどね」
その畳を覆っている市松模様の花ござの上に、美幸は横になっている。そして今、顔のあたりに残るカレーの匂いを、い草の微かな香りが下からそっと押し上げようとしていた。
「ここで、いろんな人たちが食卓を囲み……もうかれこれ、百年近くになるそうだよ」
それだけの長い間、ここでは多くの出来事があったに違いない。そんな様々な想いが少しづつ、ゆっくりと混ざり合い……今、美幸が見上げている天井の色どりに仕上がったのかもしれない。
先生の話に耳を傾けていたら、流れていた音楽がいつの間にか終わっていた。そして、二人が寝そべっている居間の中には、新たな別の音色が漂うように、やって来ようとしていた。
闇夜を待ちわびていた、幾つもの虫たちの軽やかな音。そのひとつひとつは小さいけれど、少しづつ重なり合って繊細な音色を奏で始めた。それらは、この居間の壁や床……あの真っ黒な天井の中にも、スッと溶け込んでいく。
やがて彼らは、この古い家の至るところに夜の優しい音色をぽつり、ぽつりと置いていった。