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なみのこえ  作者: 甘巻蔵
第一章 残暑~夜が明ける
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・~ 夕凪の散歩 ~・ 

 見たことのない真っ白な砂浜が、すぐ目の前で広がっている。

 濃い緑の上で美幸は、両足を前に伸ばして座っていた。手に触れる砂地の細長いつるや、お尻の下の丸っこい葉は硬くごわついて、座り心地は良くない。

 でもそれは、とても些細なこと。そう思わせてくれるものが、この場を優しく包んでいた。波打ち際の音と一緒に、肌にまとわりつく潮風をもサラッとした風に変えてくれる。

 それは、澄み渡る青空に似た……とても爽やかな香り。

 この淡い香りを大きく吸い込み、身も心も軽くなった美幸の近くで、とても小さな声らしきものが聞こえてきた。


 足元の濃い緑の葉っぱの中、少しだけ伸びた茎の先に、薄紫色の小さなつぼみが並んでいる。そのつぼみの先を押し出すように、四つの小さな花びらと少し大きな花びらがゆっくりと開く。そして囁くような微笑みを、美幸にそっと手渡した。

 やがて、その可憐な笑みが幾つも重なり……いつの間にか美幸は、涼しげな花たちの小さな歌声に囲まれていた。そして気がつけば、美幸の隣に犬のゴローさんが寄り添っている。

 「キミを見ていると、本当に飽きないね」

 年老いた男性のゆったりとした口調で、深緑の瞳が美幸をじっと見つめている。

 え? ゴローさんが、喋った?!


 短く息を吸い込み、美幸は目を開けた。

 自分の左腕が、ぼんやりと視界の中にある。とりあえず、座卓にくっついていた右のほっぺを引きはがし、上体を起こした。

 遅い昼食を済ませたあと、そのまま……寝てたみたい。

 微かな歌声がフワリと、居間の中を通り過ぎたような気がした。でもそれは、座卓の上にあった携帯ラジオから、流れて来たものだった。

 少し離れたコップに手を伸ばし、美幸は残っていた麦茶を飲み干す。

 そういえば、洗濯物は……もう乾いたかな?


 外の洗濯物は当然、乾ききっていた。

 肌を焦がすような陽射しが、今は少しだけ和らいでいる。そのかわり、ジトっとした蒸し暑さが体につきまとっていた。

 洗濯かごを持って外の洗濯物を取り込んだあと、軒下の乾いた洗濯物もついでに隣の仏間の畳の上に広げた。やがて、洗濯物をたたむ美幸の額と腕のあたりから、ジワリと汗が浮き出てくる。


 洗面台の収納からタオルを取り出し、そのまま蛇口をひねってみたものの……生ぬるい水道水はすぐに閉めて、台所の大きな流し場で顔を洗った。

 ちょっとだけ、さっぱり。でも何だか、もの足りない。

 冷たい井戸水で顔と腕の熱気を流し去り、美幸は蛇口をじっと見つめながら頭に手を置く。

 ちょうど今、髪はショートだから思い切って……

 蛇口の先を確認した後に美幸は顔を下げたまま、流し台に頭をゆっくりと入れた。そのとき

 「あ~ただいま!」と、先生の声が玄関から聞こえてきた。

 その声につい、美幸の体がビクッと反応してしまう。次の瞬間、後頭部に蛇口の先がめり込むような痛みを感じた。


 「ここに居たんだね。帰ったよ、美幸さん」

 両手に荷物を抱えた先生が、居間のほうからひょっこりと姿を現す。

 「おかえり……なさい」

 大きな流し場を背に、後頭部にそっと右手を置く。ズキズキする痛みに耐えながらも、美幸は出来る限りの笑顔を作ろうと必死になっていた。

 「小宮さんから聞いたけど、今日は……うん、良さそうだね」

 濃いサングラスのようなメガネを外した先生は、美幸の顔を少し覗き込む。そうして、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。

 「どうかな、美幸さん。ゴローさんと一緒に……散歩してみないかな?」

 その声に反応して、近くで横になっていたゴローさんが、のっそりと起き上がる。チラッと先生のほうに目を向けたあと、彼は美幸の顔をじっと見つめた。何かを期待するように、尻尾をゆっくりと左右に揺らしながら。


 「いいかい? ゴローさんのあとをついて行けば、大丈夫だから」

 玄関先で先生は、真新しい麦わら帽子を美幸に渡した。

 つばが少し狭く、花柄のリボンが付いているこの帽子は、先生の農作業用の大きな帽子と違い、確かに可愛らしいとは思う。けれども、今の自分には全然、合っていない。部屋着のような、七分丈のイージーパンツと半袖のプリントTシャツではなく、外出用のワンピースに着替えることも一瞬、美幸の脳裏をよぎった。

 でもまあ、このあたりなら人目もないし……このままでも、いいか。

 そして、ゆったりとした足取りのゴローさんは、もう既に道路脇の歩道のあたりまで進んでいる。

 「いってらっしゃい。足元には、気をつけるんだよ」

 先生の声を背中に受け、美幸はゴローさんの元へ足早に向かった。


 右にゆっくりとカーブしている道路脇の歩道を、ゴローさんの後ろについて緩やかに下っていく。行き交う車を一度も見ることなく、美幸はのんびりと歩いていた。すると、雑草まみれの左側の視界が突然、大きく開けた。

 「海だ」美幸はつぶやく。

 黒っぽい濃い青が遠く沖まで広がり、手前のほうでは淡い緑が一面に溶け込んでいる。穏やかな水平線の少し上には、まばゆい太陽。それは海面の中央を白銀に照らし出し、帯状に揺れながら輝いていた。

 きらめく海を眺めつつ、歩いている美幸の少し離れたどこかで……あのイヤな気配をふと、微かに感じた。

 でも、気にしない。あの広い海に比べれば、こんなちっぽけなモノ……

 背後から突然、ゴローさんの短い鳴き声が聞こえてきた。振り返ってみると、少し離れたところで彼は立ち止まっている。美幸が戻りかけたそのとき、白い姿が海のほうへ落ちるように消えていった。

 えっ……!?

 美幸が慌てて駆け寄ると、ゴローさんは乾いたコンクリートの階段を下りている最中だった。そして途中の踊り場で立ち止まると、こちらのほうを見上げた。


 なあんだ、階段……ね。

 半袖シャツの胸元あたりを軽く掴み、汗ばんだ肌に生ぬるい風を送る。そうして美幸は、ゆっくりと階段を下りた。

 「もう! ちょっとビックリしたじゃない」

 階段の踊り場で待つゴローさんに美幸はつい、小言を漏らした。すると彼は、あくびをするように口を大きく開けたあと、何事もなかったかのように残りの階段を下りていった。

 美幸もあとに続く。消波ブロックの隙間から漏れる波の音が、次第に近づいてくる。そして湿気を多く含んだ、やや重たい潮の香りに覆われた。

 階段を下りたところは、コンクリートの高い壁と強い陽射しで真っ白。その強烈な照り返しは、うつむきがちな美幸の顔を強制的に前へと向けさせた。その視線の先では、ちょうど人ひとりが歩ける幅の犬走りみたいな通路が、壁沿いに左へゆっくりとカーブしている。

 ゴローさんは美幸の顔をチラッと見たあと、海のほうには目もくれず、乾いた通路の上を少し足早に進み始めた。その後姿を追いながら、美幸も遅れずについて行く。すると、少し先にある大きな岩の向こう側に、砂浜が見えてきた。


 ここはゴツゴツした岩場と岩場の間にある、割と小さな砂浜だった。

 ゴローさんは、茶色く濡れた砂浜の上を、ゆっくりと波打ち際へ進んでいく。美幸は、乾いた白っぽい砂地にスニーカーの跡を残しながら、ふと周囲を見回した。

 さっき通ってきた大きな岩のすぐ横、コンクリートの壁の上には雑草や木が生い茂っている。この濃密な草木の緑の壁は、弧を描くようにして向こうの岩場のほうまで続いていた。

 プライベートビーチって、こんなところ……なのかな?

 そんなことを思いつつ、美幸は靴を脱いで裸足になり、ゴローさんの元へと向かった。


 キラキラと小さな輝きを散りばめた、寄せては返す波打ち際。美幸の足に触れる海水は、意外にも……生ぬるい。

 ゴローさんは、お腹の柔らかい体毛をぐっしょりと濡らしている。けれども、まったく気にせずに泡立つ波に足を入れたまま、気持ちよさそうに目を細めていた。

 <あら? いつもと違う連れとは……珍しいわね>

 打ち寄せる波の音に混じって、そよ風が吹くように小さな声が流れてきた。

 すぐにゴローさんは、その声がしたほうに鼻先を向けた。そして乾いた砂浜の奥、やや盛り上がっている砂地の濃い緑のほうへと真っすぐに歩いていく。

 きめの細かい、サラサラした感触。砂に足が少し沈むのを感じながら、美幸は波打ち際でじっとゴローさんの後姿を目で追った。

 そこに近づいた途端、ゴローさんは体を震わせ……全身から水しぶきを上げた。

 

 <ちょっと、やめなさいって……>

 再び聞こえてきた小さな声は、ゴローさんに優しく笑いかけているような気がした。と同時に、潮の香りの隙間を縫うようにして、爽やかなひとすじの香りがフッと美幸の前を通り過ぎていく。

 その香りに誘われるようにして、美幸もゴローさんのほうへゆっくりと近づいていった。

 たぶん……大丈夫。

 緑の葉の中で寝転がっていた彼は、美幸の顔を見るとパっと伏せてから尻尾をゆっくりと振った。その仕草と表情は、何だか楽しそうにも見える。

 美幸も試しに、その緑のじゅうたんの感触を足で確かめてみた。が、丸みを帯びた葉は思いのほか硬く……ちょっとムズムズする。それでも気にせずに、ゴローさんの隣に腰を下ろす。すると、小さな青紫の花がまばらに咲いているのが見えた。


 美幸がその小さな花に気をとられていると、ゴローさんは再び寝転がって背中を葉っぱに押し付け始めた。すると涼しげな香りと共に、小さく微笑むような声が幾つか、浮かび上がってくる。そして、今までの湿っぽい空気の重みが消え去って、フッと体が軽くなったような気がした。

 何だろう、この感覚。ここに来たのはもちろん、この浜辺の植物もはじめて目にしたハズなのに……不思議と、懐かしさを覚えた。

 小さな声と戯れるゴローさんを横目に、遠く広がる海と向かい合う。離れてやって来る波の音と目の前を通り過ぎる風が、穏やかに揺れる中……美幸は、砂まみれの足の裏が乾いていくのを、のんびりと待つことにした。

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