・~ ひとしごと ~・
あれ? どうして……なのかな?
美幸は、お腹にそっと手を置く。その疑問には、すでに明らかな答えがあった。
そんなに冷やしたつもりは、なかったのに。ただ、いくら言い訳じみたことを考えても、体は……とても正直な反応を示している。
ええ、そうですよ! 食い意地張った私が、やっぱり……いけなかったの?
少し前かがみになりながら、美幸は居間の片隅にある戸棚の引き戸を開けた。その真ん中あたりにあった胃腸薬の瓶を、目ざとく見つけてサッと掴む。その中から数粒を手のひらに出して、口の中へと放り込んだ。すると丸薬独特の香りが、一気に口の中で広がる。
うっ! み……水、水!
鼻孔を刺激する丸薬の匂いに耐えながらも、慌てて台所へ向かった。ぬるま湯のような水道水で、美幸は口内の丸薬を喉の奥へと押し流す。そして、再び丸椅子に座り込んだあと、テーブルの上に汗ばんだ額をのせた。
はぁ……こうやって風にあたっていたから、お腹が冷えたのかな?
テーブルの上に左手を置き、右手でお腹をさすりながら美幸は思った。
すると今度は、お腹の中が何やら騒がしく……グルグルっと駆け巡り始めた。
「あっ!」と、トイレ……
突然、美幸は立ち上がった。が、すぐさまお腹をかばうように、前かがみの姿勢になり……その場で固まってしまう。だが、すぐに決意を新たに? しながらも、おぼつかない足取りで歩き出した。
居間への上り口の近く、すのこの上でゴローさんは昼寝をしている。のんびりとしたその姿を羨ましそうに眺めながら、美幸が今出来る精一杯の足取りで、トイレへと急いだ。
どうやら、お腹の中の嵐は思いのほか、早く過ぎ去っていった。
トイレから無事に生還した美幸は、緊張が解けてホッとしたのか、居間の大きな座卓の前でへたり込んだ。しばらくしてから、何となくお腹に手を置いて、そっと確かめるように自問してみる。
お昼……食べれなくはないけれど、今すぐはちょっと……ね?
何気なく美幸は、座卓の向こう側を眺めた。すると、玄関の上り口あたりで無造作に置かれた服に、目が留まった。
そうだ、少し体を動かしたあとだったら……うん、そうしよう。
丸まっているその服は、出かける前に着ていた先生の作業服だ。
えっと、ズボンは……服を手にした美幸が、居間をぐるっと見回す。
二階に上がる暗い急階段のすぐ隣、先生の自室のドアの前にそれは、脱ぎ捨てられていた。
「これって……」まだ、あまり汚れてない……かな?
風呂場の隣にある、やや広めの脱衣場兼洗面所。そこにある洗濯機の前で服を広げ、美幸は無意識に鼻を近づけていた。
うっ、これは……汗臭いというよりも、泥臭い? でも少しだけ、トマトの葉っぱの香りも紛れ込んでいる。
明るい場所で見るズボンは、もう一目瞭然。そして、上下のポケットを確認してから、洗濯機へ。と、その前に……美幸の視線は、たらいを探し始めた。
母さんを真似て、上下とも風呂場で軽く下洗いしてからにしよう。
ここの洗濯機は二層式というヤツで、前のアパートで使っていたものと大して変わりなさそうだ。こういうのは大抵、使う前に中を確かめないと……
何となく予想がつきそうな気がした美幸は、洗濯槽と脱水槽のフタをそれぞれ開けてみた。
「やっぱり……」排水していない洗濯槽には、服が浸かっている。それに脱水槽の内蓋を取ってみると、槽の内側に薄手のシャツがへばりついていた。
とりあえず、洗濯槽に浮かんでいた糸くずとりを、美幸はつまんでみる。その中身がないのを確かめてから、先ほどの下洗いした作業着を洗濯槽に入れた。
そして、正面の棚にあった洗濯洗剤の箱から適当な量の粉末洗剤を投入し、少しかき混ぜたあとで洗濯機のスイッチを入れる。
さて、次は……って、あれ?
洗濯機のモーターの低い音と洗濯槽が回転して揺れる水の音を聞きながら、美幸は周囲を見回した。だが、探している洗濯かごは、ここにはない。
あ、そう言えばさっき……
ふと思い出した美幸は、風を通すために網戸にした所へと向かう。その日焼けして色あせた廊下のつきあたりで、青色の洗濯かごを見つけた。それを両手で抱えたあと、ちょっとだけ考えてみる。
軒下にぶら下がっている、あの物干し竿で事足りるかも。けれど……
縁側のような廊下のすぐ外にある、踏み石の上のサンダルにチラッと見をやる。そこから、美幸の視線はその先の、太陽の日差しを浴びた段違い平行棒のような物干し台へと向かった。
雨は降りそうもないから、外で……いいよね?
脱水槽の中にあった、数枚の薄い半袖シャツとワイシャツが二枚。それと、一番底で忘れられていた黒い靴下の片方を洗濯かごに入れて、美幸は廊下に向かう。そして、ふと思った。
「えっと……」ハンガーと洗濯バサミは?
廊下のつきあたりにあったのは、紙箱に入っている洗濯バサミが十数個と、傘の骨だけを折り畳んでいるようなパラソルハンガーがひとつ。
これだけだとワイシャツが……と思いきや、軒下の物干し竿の端のほうに固定されたハンガーがちょうどふたつ、美幸の目に留まった。
まあ、軒下でも十分に乾くだろうし、残りの洗濯物を外に干すことにしよう。
廊下のガラスサッシと網戸を全開にした美幸は、ぎこちない手つきで軒下の物干し竿に洗濯物を干していく。
とりあえずは手が届くけど、竿の位置が少し高く感じるから……ちょっと、やりにくい。
最後に靴下の片方を手にして少し考えたあと、半袖シャツの下端あたりからぶら下げるように洗濯バサミで半ば強引に挟んだ。
時々、半乾きのワイシャツの袖を揺らす程度に、生ぬるい風が廊下を通り抜けていく。それは、今の美幸にとって丁度いい感じの風だった。
空になった洗濯かごを脇に置き、美幸は廊下にしゃがんで膝を抱えた。そして何となく、ユラユラしている明るい外を眺めてみる。すると、乾いた土の上を通るタイヤの音と、やや甲高く聞こえる車のエンジン音が家の近くにやって来た。
廊下からは車の姿が見えなかったが、ドアを閉める音と同時に
「よいしょっと、ね」と言う小宮さんの声を、ハッキリと捉えた。
あれ? 戻る時間にしては、ちょっと早いような。
美幸がそう思ったとき、外の物干し台の横を小宮さんが通り過ぎようとして……すぐに足が止まった。
「美幸ちゃん?」廊下で座っている美幸に気がつき、足早にやって来た。
「もしかして……洗濯してくれてたの?」
丸っこい小宮さんの顔に尋ねられ、美幸は軽くうなずく。
「あら、ありがとね。洗濯物が途中だって、先生から聞いたものだから。あ! そうそう、ついでに持ってきたものが……」
何かを思い出したようで、小宮さんは車のほうへ戻っていった。そして、ビニール生地の手提げ袋を持ってきて、美幸にそれを手渡した。
「これ、美幸ちゃんの分ね」
中身を見る前から、小宮さんと衣服と同じ柔軟剤の残り香が、ほんのりと美幸の顔の周囲で広がった。
美幸の洗濯物は今のところ、小宮さんにお願いしている。
「ありがとう……ございます」
母さんは仕事の関係でアパートに残ったままなので、こちらでの美幸の身の回りのほとんどは小宮さんが何かと気遣ってくれている。
「ところで、もうお昼は食べた?」
小宮さんの元気な声が、お腹に響くようにやって来て……美幸は少しばかり、ためらった。
でも、小宮さんは看護師だ。ここは、先生と同様……遠慮せず、素直に言おう。
「いえ、あの……ちょっと、お腹が痛くなって。でも、薬をすぐに飲んだから……」
心配かけないように努めて元気に言うつもりだったが、以前のような声が上手く出てこない。
「あら、それは大変! 大丈夫? もう痛くない?」
美幸の手を取り、少し驚いたように目を丸くした小宮さんは、あらためて美幸の顔をじっと見つめてから額に手を置く。
目の前にある丸っこい顔が、幼い頃に見た母さんの心配そうな顔と……ぼんやり重なって見えたような気がした。
「はい。もう平気です」ちょっぴり嬉しい気持ちを感じながら、うつむきがちに答えた。
「なら、あまり冷たいものは……ちょっと待っててね」
美幸の両肩に優しく手を置いたあと、小宮さんは玄関を通り過ぎて台所の勝手口のほうへ向かった。
美幸が台所に下りると、すでに小宮さんは手際よく何かを作り始めていた。そして、片手鍋を置いているコンロの火を五、六分くらいで止めて、フタをした。
「これ……卵入りのだし汁、ね。食べる前に冷蔵庫のそうめんと麺つゆを入れて温めると、すぐに食べれるから」
小宮さんは手を休めることなく、まな板や包丁、菜箸などを洗って後片付けをサッと済ませた。
これは、温かいそうめん……いわゆる『にゅうめん』というやつだ。
少しだけフタを開けてみると、湯気と一緒に和風だしの優しい香りが、美幸の鼻をかすめていく。これだけでも十分、卵スープみたいで美味しそう。
「ありがとう、小……」
「じゃ、私はまた戻るわね。洗濯、本当にありがとね。美幸ちゃん」
屈託のない笑顔を美幸に見せた小宮さんは、また忙しそうに外へと出ていった。
小宮さんの後姿を見送ったあと、美幸はふと思った。
せっかく作ってくれたから、すぐに食べてもいいけれど……洗濯が途中で、止まったままだ。
小宮さんの動きに無反応だったゴローさんが、のんびりと一度だけ顔を上げる。美幸と目が合ったことを確かめたあと、彼は再びすのこの上で横になった。
「やっぱり……」そうよね。ちゃんとしてから、だよね。
美幸は自分に言い聞かせながら、洗濯機のある洗面所のほうへと向かうことにした。