・~ 昼どきの風 ~・
台所に戻ってきた美幸は、竹かごをそっとアルミ台の上に置いたあと、少しばかり考えた。
トマトはお昼のあと……じゃなくて、その前に小さいのを、ひとつだけ。
そう決めてから、冷蔵庫の一番下にある重たいチルドの引出しを開けた。平らなトレイの上に重ならないように、トマトを慎重に敷き詰めていく。しかしながら、そのトレイの中にどうしても全部は収まらない。そして、美幸の両手の上にあるトマトを見つめながら、ふと思った。
冷蔵庫の上の開きなら、入らなくもない。けれど、ひとりぼっちは何だか……可哀そう、かな。
とりあえず美幸は、そのトマトを竹かごに戻した。そして、冷蔵庫の隣にある戸棚から、手頃な大きさのアルミボウルを取り出し、自分に言い聞かせる。
うん、仕方ない。少しばかり冷やしたあとに、ふたつとも……頂くことにしましょう。
冷たい井戸水で満たしたアルミボウルの中に、真っ赤なトマトをそっと入れる。
さて、食べ頃になるまでの間、ただ待つだけというのも……そう思いながら、テーブル近くの丸椅子に、美幸は目を向ける。と同時に、右足のあたりに柔らかいものが、そっと触れてきた。
「ゴローさん、どうしたの?」
美幸の顔を見上げる彼に、優しく尋ねてみる。
すると、ゆったりとした足取りでテーブルの下に頭を入れ、そこに置いてあったプラスチックの丸い容器を咥えてから、美幸の元へと戻ってきた。
「のどが渇いたのね……」
あちこちに傷がついた水入れの容器を受け取り、軽く洗い流してから水を注ぐ。
「はい、どうぞ」ユラユラ揺れる水をこぼさないようにしながら、美幸は両手で持った容器をテーブルの下にある、いつもの新聞紙の上にそっと置いた。
すぐに冷たい水で喉を潤すのかと思いきや、ゴローさんは美幸の指先をペロリと舐めたあと、網戸の外のほうをじっと見つめた。
しゃがんだままの美幸も、つられて彼の視線の先を追った。そのとき
<もうすぐ……で、ございまする>
すぐ隣から、聞き慣れない低い声が、そっと囁く。
え? ゴローさんの横顔に、美幸はサッと目を向けた。
彼は少し口を開き、とても穏やかな表情のまま、網戸のその先を眺めている。
<ゆるりとした、ワタツミの風がやって来ますぞ、御君よ>
その姿は何だか、ひとり言をつぶやいているように見えなくもない。でもその声は、彼の背中のあたりから聞こえてきたような気がした。
さまざまなモノの『名残り』が、この家とその周辺にいろいろと点在している。先生はそのように、美幸に教えてくれた。でも実際に、間近で聞くとなると話は別……って、あれ?
初めて耳にしたのに、これは……そんなに怖く感じない。
どちらかといえば、落ち着きを保っていた自分に対して、我ながら驚いているかも。それに、あの階段に住みついている『アレ』の騒々しさに比べたら、この声はどことなく先生に似た、穏やかなものさえも感じる。だから……なのかな?
美幸の様子にあまり変化がないから、ゴローさんは背中のほうに少し耳を傾ける程度で、ほとんど無関心を装っているようだった。
私がもし、今と違って酷く取り乱していたなら……すぐさまゴローさんは、その『声』を追い払ったあとで、私を守るように必ず寄り添ってくれる。この家に慣れずにいた頃、むやみやたらに私が周囲へまき散らかした『恐怖』を、やんわりと遠くへ追いやってくれたように。
そういうことを何度か繰り返したあと、ゴローさんの存在を新たな心の拠り所のひとつとして、いつしか美幸の胸の内に刻み込まれていた。
これは、たぶん……大丈夫だと、思う。
ゆっくりと足を伸ばして立ち上がると、美幸は何かを振り払うようにサッと後ろを向いた。そして何事もなかったかのように、居間に上がる板間の脇に置いてあった、くすんだ銀色の携帯ラジオに手を伸ばそうとした。
<お気を悪くされたならば、ご容赦くだされ。されど、風を通せば然るのち……和ぐことでありましょう>
それは何となく、美幸の背中にそっと語りかけながら、外のほうへ向かって離れていったような気がした。
携帯ラジオを手にしたまま、片膝を板間の上に乗せて少しばかり固まっていた。だが美幸は、再び明るい網戸のほうに向きを変えて立ち上がる。
すると、ゴローさんは少し心配そうな表情を浮かべて、こちらを見上げていた。
「うん。だぶん……大丈夫」
そう口にしながらも、美幸はゴローさんを軽く抱きしめた。そのまま少しの間じっとしていると、外のほうからフワリと……柔らかい風が入って来た。
その風は静かに、美幸の頭にそっと優しく触れたかと思えば、またどこかへと通り過ぎていく。少しすると今度は、美幸の腕のあたりを通り過ぎて、居間のほうへ向かったように感じた。
あとを追うように美幸が居間に上がると、中央にある大きな長方形の座卓に目が留まった。その上に無造作に置いてあった新聞紙の、丸くなった端っこがページをめくるように小さく揺れている。
居間を囲んでいる重たくて開けにくい板戸はそのままに、玄関のほうの障子付きの引き戸と廊下に通じる襖の戸を半分ずつ開けたままにした。
さらに美幸は、四畳半くらいの仏間の障子も同様に開ける。そして仏間の先にある廊下につきあたると、閉め切っていたガラスサッシの半分をすべて網戸にした。すると、さっきの柔らかい風が美幸の背中のあたりで、クルリとひと回りする。そのあと、いつしか廊下の外へと消えていった。
こんなに慌てなくても良かったのに。立ち止まった廊下の蒸し暑さで、ふと我に返る。
でも、まあ……いいか。
暑そうな白っぽい外をしばらく眺めていたら、廊下の網戸をすり抜けた風が、そっと入って来た。それは、少しばかり生暖かく感じたけれど、それほど不快なものでもない。それに、ほんのわずかだけ海の香りが混じっているような気がした。
そういえば、そろそろ……美幸は思い出したように、土間の台所へと足早に戻っていった。
美幸は早速、大きな流し場にあるアルミボウルに手を当ててみる。
冷凍庫の氷みたいなキンキンに……とはいかないが、冷えているのが手のひらに十二分に伝わってきた。
まずは、アルミボウルの中で大人しくしている小さめのトマトを手に取り、そのまま口の中へと運んでいく。
うんうん。程よく冷えていて、とっても美味しい。
まだ口を動かしてはいたが、美幸はその余韻を楽しむ暇もなく、水滴のついた次のトマトを既に掴んでいた。
最初のほのかな甘みが、じんわりと口の中に広がるのを確かめてから、本能の赴くまま赤い果肉にかぶりつく。
ちょっぴり、はしたないような気もするけれど、誰もいないし……食べ終わった頃になって、ふと周りを見渡してみる。
今、この家にいるのはゴローさんと私だけ。
何の遠慮もいらないから、ね……診療所に出かけた先生の口癖が、ふと美幸の頭をかすめた。
そう。遠慮というよりも、ここで人目を気にすることは無用だった。
ここは、以前の街中のアパートと違って、ぽつんと離れた一軒家。あえて言うなら、この家の『お隣さん』は雑木林と原っぱ、道路を挟んだ小高い山にどこまでも広がる大海原。つまり人目などというものは、皆無に等しい。
この束の間の、ささやかな解放感に似た感情を抱いたまま……美幸はトマトの余韻が残る口元をすすいで、軽く手を洗う。そして用済みのアルミボウルをサッと水洗いしてから、もうひとつの流し台の上にある水切りかごの中に置いた。
不意に、網戸が開く軽い音がした。
そこには、器用に戸を開けて外に出ていこうとする、ゴローさんの後ろ姿があった。そしてテーブルの下の水入れの容器は、いつの間にか空っぽになっていた。
たぶん、用を足しに……また戻ってくるから、網戸はそのままにしておこう。
美幸は、テーブルの上に置いた携帯ラジオのスイッチを入れる。音量はやや控えめにして、針金のような小さなアンテナを伸ばすと……ちょうど、昼前の天気予報が流れてきた。
そろそろ、お昼か……
片肘をついて何となく聞き流していた美幸の足に、そっと柔らかいものが触れてきた。
戻ってきたゴローさんは、定位置のテーブルの下には入らずに、そのまま奥へと進む。そして彼は、居間に上がる板間の側にある、すのこの上に体を横たえた。そのすぐ脇には、先生の黒っぽい大きなサンダルがある。
網戸を閉めたあと、美幸は丸椅子の位置を少し変えてから腰を下ろした。そして、テーブルの上で頭を横向きにして、ゴローさんの姿をぼんやりと眺めてみる。
すると、携帯ラジオから……正午の時報が流れてきた。
ご飯はまだ、あとにしよう。
そう思いながら、ラジオと暑苦しいセミの鳴き声を半々に聞いていたら……美幸の足元を、涼やかな風が通り抜けていった。
その風は、ゴローさんの背中の柔らかい毛先を少しばかり揺らしたあと、静かに家の奥のほうへと去っていった。