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なみのこえ  作者: 甘巻蔵
第一章 残暑~夜が明ける
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・~ 家主と夏野菜 ~・

 台所のテーブルに肘をのせて、両手で頬杖をついている。ぼんやりとした美幸の視線は、ただ何となく近くをブラブラしていた。

 ときどき、視界の片隅で明るく輝くものが、こちらの気を引くように揺らめいている。やがて美幸の顔は、自然と屋外のほうへと向いていた。

 暑いけど、ちょっとだけ……行ってみようかな。


 台所から外への出口は、ふたつある。

 ひとつは、テーブルから数歩先にあるアルミサッシの引き戸。すりガラスの戸と網戸が、こげ茶色の比較的新しいサッシ枠に収まっている。そして今は、やや色あせた灰色の網戸越しに、軒先の向こう側を見ることができた。

 もうひとつは、流し場の隣にある木製のドア。この家と同様、見るからに重く古びている。それに建て付けが悪いのか、足元の化粧板の角が縦にひび割れ、めくれ上がっていた。


 立ち上がった美幸は、網戸のほうに手をかけた。

 ほのかに熱を帯びているサッシ部分は、ここからでも外の暑さを十分に教えてくれる。それに、台所の屋根から少し伸びた影の先は、強い日射しに照らされていた。その輝きは、まばゆいばかりに白く……今はまだ、直視できない。

 美幸は、暑いのが苦手だ。

 物心ついた幼い頃は、あまりそうは思わなかった。けれど、数年くらい前から街の空気が、様変わりしたような気がする。

 それとも何? この変化に私自分が、ついていけなくなったの?

 いろいろ考えてみたけれど、正直なところは自分自身も、よく分かっていない。とにかく、屋外の熱気が無性なほどに、不快だと感じるようになった。


 けれどもここは、以前のような街の息苦しいほどの暑さを、まったくと言っていいほど感じない。ただ、強くにらみつけるような日射しだけは、場所を選ばないみたい。たまにフラッとやって来る風が、美幸の頬に優しく触れて、通り過ぎていくのを感じる。それは、この熱視線をさりげなく受け流すように和らげてくれた。

 外の明るさに目が慣れたところで、美幸は近くの畑に足を向ける。それは離れの納屋の脇にある、どちらかと言えば家庭菜園的な、こじんまりとしたものだ。そして普段と同じなら、家主が……この辺りに居るはずだ。


 納屋の角にある、ひょろっとした差掛けの柱に美幸は手を置いた。少し先に目をやると、麦わら帽子が濃い緑の葉っぱの上で、ユラユラと揺れているのが見える。日差しに照らされたトマトの繁みの中、帽子の隣からスッと伸びた手が、美幸に軽く挨拶をしてきた。

 「美幸さん、すまないが……納屋の入口に置いてある、竹かごを持ってきてくれるかな?」

 家主の口調は、のんびりとしたものだった。その穏やかな声は、間延びしない程度にユラユラと美幸の耳元に届く。そして、かかしのように軍手を付けた手を納屋のほうに向けて

 「大きめで平たいのを、頼むね」そう注文を付け加えた。


 納屋の入り口の近くに、長椅子のように座れる古びた木製の台がある。美幸は、その台の上に無造作に置いてある三つの竹かごのうち、大きなフライパンのようなかごを手に取って、畑の中に入っていく。

 「持ってきました」美幸はそう言って、竹かごを手渡した。

 「やあ、ありがとう。草むしりついでに手頃なトマトをひとつかふたつ、と思って来てみたら……ほら、こんなに」

 腰を落としたままの彼は、嬉しそうな表情を浮かべて、あたりを見回している。

 つられるように美幸もしゃがんでみると、トマトの葉っぱの青々とした匂いに包まれた。そして幾つもぶら下がっている、真っ赤に熟れた大小のトマトを目の前にして、美幸の心が少しだけ弾んだ。


 ここに来てから美幸は、新鮮な夏野菜を初めて美味しいと感じた。特に、このトマトを最初に口にしたときは、本当に驚いた。

 スイカに塩を少々振りかけて食べると、ほんのりとした甘さを感じるように……ここのトマトも、甘い味覚が後を引くように口の中に残る。だが、それは塩を振りかけなくても感じる、何とも不思議な甘さだ。これは美幸が今まで抱いていた、特有の酸味と水分が詰まっただけのトマトのイメージを……まったく違うものに変えてしまった。

 もし例えるなら、どう表現すればいいかな?

 今までの、つたない経験の中から……目を閉じた美幸の脳裏にふと、思い浮かんだのは『白桃の缶詰』だった。

 とろみのあるシロップに、たっぷりと浸されたような甘ったるい濃厚な味……は勿論、ない。ただ、口の中に入れたときに感じる、果肉からにじみ出るような食感と味覚が、どことなく似ているような気がする。それと、一度にたくさん食べることは出来ないけれど、すぐにまた食べてみたいと思わせてくれる……クセになる味であることも、よく似ているなと美幸は思った。


 家主は慣れた手つきで、真っ赤に熟れたトマトを竹かごに入れていく。お店の商品とは違って、どのトマトも形がいびつで不ぞろいなものばかり。けれど、美味しいことに何ら変わりはない。

 あっという間に竹かごが一杯になったとき、家のほうから別の声が風に乗って聞こえてきた。

 「先生……志木谷しきたにせんせ~い」

 家主を呼ぶ女性の声は、セミの大合唱と張り合うかのように大きく、ゆったりとこちらにやって来た。

 「おっと、もうそんな時間か……」

 呼ばれた家主は思い出したように、ゆっくりと立ち上がる。

 「このまま出かけると、小宮さんに怒られるだろうね」

 そう言うと家主は、被っていた麦わら帽子を片手で取る。そして軽く数回ほど振ったあとで、美幸の頭にそっと置いた。

 美幸は左手で、その麦わら帽を軽く押さえながら、家主を見上げる。

 ひょろっとした細身だから、余計にそう感じるのかもしれないけど……彼は人並み以上に、背丈があるように見えた。

 「ええっと、今日の予定は……どうだったかな?」

 白髪がちらほら混ざっている頭に手を置き、少しだけ考えごとをしている。


 トマトの重みであふれる竹かごを両手で持ち、美幸は立ち上がった。

 「とりあえず……かごの中の赤い皆さまがたは、美幸さんにお任せすることにして、と……」

 家主は美幸の持つ竹かごをチラッと見て、穏やかな笑みを浮かべた。

 彼の右目は暗緑色のように濁っていて、何となくだけど……ゴローさんの目の色と、よく似ている。

 「まずは、着替えないとね。あ、それと……」

 薄手の作業服の胸ポケットから、濃いサングラスのようなメガネを取り出す。そして片手で軽く振ってから、メガネの柄を拡げた。

 それは、いつも外出するときに身に着けているものだ。

 「おそらく帰りは……夕方頃になるだろうから、お昼は美幸さんの好きなときに、ね」

 そう言うと彼は、おもむろにメガネを掛けてから主屋のほうへ小走りに戻っていった。


 この家の持ち主、志木谷しきたに おさむは医師だ。

 以前は都市部の大学病院に所属し、幾つかの大きな病院で非常勤医師としての多忙な日々を送っていたと、聞いたことがある。

 そして今は、小さな漁村の民家を改装した診療所に勤めている。そこは普段、近くの年配の人たちが集まる、比較的のんびりとした場でもあった。この家の前の、緩やかなカーブを描く道路を下りきったその先……あの小宮さんの車で約四、五分くらいのところにある。


 少ししてから、美幸が台所の勝手口に戻ろうとしていた。そのとき、玄関の開く音と一緒にふたりの話し声が、混ざり合うようにして外に出てくる。

 先生は、薄い青色の無地のワイシャツに紺色のズボン姿になっていた。そして玄関先でよろめきながらも、茶色の革靴に左足のかかとを半ば強引に押し込んでいる最中だった。その脇を、美幸より少し背丈のある小宮さんの姿が、軽快にすり抜けようとしていた。だが、ふと立ち止まって

 「あら、美幸ちゃん。今日も暑いわねぇ」

 丸っこい顔に浮かんだ汗を拭きながら、少し離れたところに停めてある車へと足早に向かう。その白くて、かっぽう着のような予防衣の後姿を目で追っていたら、ひょろっとした長い手が不意に、美幸のところまでやって来た。

 「じゃ、行ってくるね」小さめのトマトをふたつほど、先生は片手で掴む。そして、もう片方の手に白衣を持ち、慌ただしく小宮さんの赤い小型車に乗り込んだ。


 勝手口の近くにある、色あせた白っぽい木の棚に竹かごを置いた。直後に美幸の足が、自然と小走りになる。そして、道路に向かう車のあとを、少しだけ追った。

 たぶん先生は、自分の姿に気がつかない。けれど……それでも、構わない。

 ガードレールと歩道の向こう側、先生を乗せた赤い車がゆっくりと、カーブを下って遠ざかっていく。その見えなくなるまでのわずかな間、美幸は遠慮がちに手を振り続けた。

 「いってらっしゃい」

 先生を見送る、か細い声。それは小さな風に乗ると、美幸の前からフワリと離れていった。

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