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なみのこえ  作者: 甘巻蔵
第一章 残暑~夜が明ける
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・~ 寝起き ~・

 「いい? これは、お父さんにはナイショだから……ね?」

 あまり見せない無邪気な表情を浮かべながら、母さんは軽く念押しをしてきた。


 何のこと? 聞き返そうとしても既に、その顔は窓の外へと向いていた。首を少し傾け、何かを思い出すように右手を頬に置く。その視線は次第に、遥か遠くのほうへゆっくりと離れていった。

 これはたぶん、内緒話でも何でもない。そう……このことは父さんも、ある程度は知っているハズだ。だからと言って、別に口を挟むつもりも無い。とりあえず

 「ああ、いいよ」とだけ、答えておくことにした。

 どうせ、母さんのことだ。脈絡のない長話になるとは思うけど、気にすることは何もない。特に今は、暇なのだから。


 不慮の事故に遭遇した志木谷しきたに まもるは、長期間の入院を余儀なくされていた。

 定期的な病院での検査と、週三日のリハビリ生活。そんな日々と体の不自由さに最近、ようやく慣れ始めてきた。

 偶然にも今、この四人部屋の病室にいるのは、僕と母さんの二人だけ。

 ほんの少しだけ……耳を澄ませてみる。

 ときどき聞こえる廊下の物音が、病室のドアの隙間を縫って低い音だけを伝えてくる。そのほかは普段よりも比較的に、静かだった。

 母さんの『声』以外は、ね。 


 ある昼下がりの、ゆったりとした午後。これは母さんの口からこぼれる、ちょっとした……長いひとり言のようなものだった。

 ここは二階の、屋根裏のような小さい部屋の中。

 傾斜した天井に化粧板などは無く、むき出しになった横木の梁は、やたらと大きい。そのゴツゴツした梁の近くに、黄ばんだカサの丸い蛍光灯が、中途半端にぶら下がっていた。

 部屋の東側と南側に、横長の黒縁メガネに似た曇りガラスの窓が、ふたつ。この古びた窓枠は、茶色い合板の板壁の中に半ば無理矢理、押し込んで作られたようにも見える。それが今、色あせた青色の網戸と壊れた止め金具という、無防備な状態で全開になっていた。


 少し前まで、ひんやりとした朝の澄んだ空気が、部屋の中で静かにしていた。けれど、東の窓から差し込む強い陽射しに驚いて、その多くは慌てて立ち去ってしまう。そして入れ替わるように、南の窓から生ぬるい外気が、部屋で寝ていた美幸の肌に触れてきた。

 やがて部屋の中で、明るい光と湿気が混ざり始めた。それは熱を帯びながら、じわりじわりと室温を着実に押し上げていく。


 あ……暑い。さすがにもう、起きないと。

 枕元の静かな目覚まし時計には目もくれず、美幸は布団の脇に転がっていた紙のうちわに手を伸ばした。パタパタと、うちわを扇ぐ軽い音の奥……やや離れた遠くのほうに、そっと耳を澄ませてみる。

 ちがうの。本当はそんな、遠くじゃない。

 今まで散々悩まされてきた、重苦しい例の『声』の気配。それを美幸は、少し伸ばせば手の届く部屋の隅のほうから感じた。何と言っているのか分からない、得体の知れない存在が……確かに、そこにいる。


 数か月前、この不気味にうめく『声』は突然、やって来た。

 不思議と他の誰にも聞こえていない、奇妙でおぞましい恐怖の塊。それは四六時中、ずっと美幸の耳元だけにしがみついて、離れてくれない。

 いくらイヤだと拒んでも、泣きわめいて疲れ果てても、これ以上はもうヤメテと祈るように懇願しても……耳鳴りが響くように、延々と続いた。この手加減も容赦もない『声』は、いとも簡単に美幸の頭の中の大部分を、覆いつくしてしまう。

 もう……何が、どうなって……るの?

 何気なく過ごしていた、高校二年目の日々。その当たり前の、普通だと思っていた感覚が、混乱の渦の中で奇妙なほどに歪んでしまう。やがて、美幸自身の何もかもが分からなく……なろうとしていた。


 でも、ここでは……この家に越してきてからは、その状況に変化が現れた。

 ゆっくりと、少しずつ。でも確実に、この絶望的な恐怖が薄らいでいく。それは、美幸の中から徐々に引き離され、近くにある空き瓶の中へと吸い取られるように。そうやって、すべてを閉じ込めたあと、しっかりとコルク栓で蓋をする。

 それくらいに『声』は、小さくなった。それに、美幸の耳元からも少しだけ離れて、周囲の物音の中に混ざっていくような気もした。

 本当は、すぐにでも消えてほしいのに。

 でもそれは、今の私には虚しい願い。だから、何か他のこと……まったく別のことに意識を向けていれば……たぶん、大丈夫。

 そんな美幸の胸の内を知る由もなく、外の気配の一部が部屋の中に入り込もうとしていた。


 部屋の中で聞く、さまざまな屋外の音は思いのほか、雑然としていた。

 少し離れた雑木林のほうからは、暑苦しいセミの大合唱が波打つように揺らめいている。それとは逆に、遠く離れた海上をゆったりと進む船の機械音が、ほんの微かな潮の香りと一緒に、優しく風に乗って部屋を一巡する。さらに時折、幾つかの鳥の鳴き声が小刻みに加わった。

 これらはすべて、あの横長の窓を通して、やや控えめに伝わってくる。それは、街角にあふれる雑多な音を、店内のガラス越しに聞いているのと似ていた。

 体を起こした美幸は、あくびをしながら背伸びをしたあとで、ふと思った。

 今日も結局、二度寝に……なっちゃった。


 この家で生活を始めてから、約一か月。

 突然の苦悩を解決する、確かな答えなんて……早々簡単に、見つかりはしない。それは美幸も薄々、感じていた。まずは、衰弱した自分を回復させること。それから焦らずに、ゆったりと日々を過ごすことも、大切だとは聞いている。

 でも、最初の頃より少しは、この家に馴染んできたのかな?

 ここに来たばかりの私は、もう本当に酷く……いいえ。そんなこと、もう忘れなくちゃ。

 気がつけば、美幸は顔にうちわを当てて目を閉じていた。そして、じわっと浮いてきた額の汗が、紙のうちわに吸われていく。

 さて……ゆっくりと上体を起こす。今朝は比較的、楽に感じた。

 そう。以前よりも体が、美幸の思うとおりに動いてくれる。すっかり元どおりの日常、とまではいかないけれど、ずいぶんマシになったのは確かだ。


 美幸は、布団を三つ折りにした。

 この部屋には押入れがないので、布団はこのままにして枕を上に置く。その枕に顔を沈めたい一瞬の衝動を抑えながら、うちわと時計を折り畳み机の下に滑り込ませた。

 そして、急傾斜の薄暗い階段をしゃがんだまま、ゆっくりと一段ずつ降りていく。特に、最後から2番目の段には慎重に……体の重みを預ける。

 カコン。乾いた木を叩くような音が、軽やかに鳴る。それが今日も漏れなく、この広くない家全体に響き渡った。

 美幸が階段を降りて、居間の敷居をまたいだ。そのとき

 <お嬢だ、お嬢! 寝坊助のお嬢が、ようやくお目覚めダ!>

 足元から、声だけが聞こえてくる。


 最初は、本当に驚いた。そして、新たな悪夢がまた、追加されたのかと思った。でも、美幸を悩ませている例のモノとは、明らかに違うことがある。

 それは、声の内容がハッキリと、聞き取れることだった。

 そして何故だか、この家にひとりで住んでいる家主も、この存在を知っている。しかも、穏やかな笑みを浮かべながら、淡々と教えてくれた。

 その話を聞いて美幸は、ここでも自分の理解の外にある存在を……否定しないように一応は、努力してみた。

 でも本当は……否が応でも納得せざるを得なかった、と言うのが正しいのかも。私は後からやって来た、この家の一時的な同居人なのだから。


 この『声』の対処方法は、いくつか教えてもらっている。けど、数日くらい前から少しばかり、放置することが多くなってきた。

 何だかこれが、目覚まし時計の聞き慣れた『音』のように思えてきたから。

 美幸は居間を通りぬけて、台所に向かう。その一段下の板間に降りて、サンダルを履いた。

 ここは昔ながらの、広々とした土間敷の台所。コンクリートで固められた大きな流し台と、その隣には見慣れたアルミの小さな流し台があり、それぞれに蛇口がひとつずつ付いている。

 美幸は、大きい流し場の蛇口を回して顔を洗う。それはポンプで汲み上げた井戸水で、勢いよく出ないものの、とても冷たくて気持ちいい。

 <こっちの水はあ~まいゾ、あっちの水は……何だっけ?>

 蛇口の近くから聞こえてきたが、気にせずに薄手のタオルで顔を拭く。そして、近くにある大きな冷蔵庫の中から、オレンジジュースと菓子パンを静かに取り出す。これらを脇のテーブルにそっと置いて、美幸はゆっくりと丸椅子に腰掛けた。


 <お嬢は今から遅い朝飯だ、オソメシダ! オソメシダ!>

 もう……すでに、目は覚めた。

 この『アラーム』は用済みなので、そろそろ引っ込んでもらおう。

 「ゴローさん……」伏し目がちに、美幸がつぶやく。

 台所に降りたときから、彼の存在には気がついていた。彼の不機嫌なところを、まだ一度も見たことはないけれど……美幸は、なるべく優しく声をかけた。

 すると彼は、テーブルの下からゆっくりと出てきた。

 白くて柔らかい毛並みに、あまり色艶はない。しかし、レトリバー犬によく似た大柄の風貌からは、未だ衰えていない力強さのようなものを感じる。

 「ゴローさん、お願い」見上げるつぶらな深緑の瞳を、美幸はまっすぐに見つめ返した。

 こんな頼みかた……母さん以外には恥ずかしくて、他の人には出来ない。


 美幸の素直な願いに、何となく気がついたのだろうか。彼はテーブルの上のある一角を睨んで、犬歯をむき出しにしながら……ほんの少しだけ、唸った。

 <お嬢の番犬、怖い! コワイ!>

 その『声』は半分笑いながらも、あっという間に遠ざかっていく。すぐに階段のカコン、という音が後から小さく聞こえてきた。

 「いつも、ありがとう」美幸は彼の体にそっと、左手で触れた。

 すると何事もなかったように、ゴローさんは目を閉じながら眠そうな表情であくびをした。そして、のっそりとテーブルの下、彼の定位置へと戻っていく。

 外が暑いこの時期には、この土間の台所が彼の心地良い居場所のひとつとなっているようだ。


 美幸は菓子パンを食べながら、ときどきテーブルの下を覗いてみる。

 ゴローさんは、目を閉じて眠っていた。でも垂れた耳だけは、こちらを向いているようにも見える。また、大きな白い体は規則正しく、ゆったりと上下に動いていた。

 そんな彼を見ていたら、また何だか……

 こうして、美幸にとっての一日が、穏やかに動き始めた。

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