前編
最初から解っていた。
政略結婚の為の婚約なんて、こんなものだと。でもだからって、アレはあんまりだと思うわ。
マデリーンにとっては久しぶりの夜会だった。その途中テラスに休憩に来たのだが、ふと庭を見下ろして唖然とした。そして視界の先にいるカップルを確認して、はぁと大きく溜息を吐く。
庭の繁みの影でいちゃついているのは、どう見ても我が婚約者のラルフ・ダ=ノートン。お相手は噂になってるチェルシー・ルッツだろうか。
ラルフと婚約して早2年。卒業したら結婚だと言われ、アレコレと将来義実家になるノートン伯爵家のしきたりを、なんだかんだと詰め込まれていたのだが。
「他に好きな人がいるなら、早く婚約解消して欲しいんだけど」
マデリーンは独りごちて、テラスから踵を返す。
元々ラルフに好意は無かったが、せっかくのご縁なんだからと前向きに頑張っていたし、好きになろうと努力はした。
だがこういった努力は、1人では実を結ぶ訳がない。
顔だけは良い婚約者は、この2年のらりくらりとマデリーンを躱し、フラフラと遊び歩いていた。それを将来の義母は、マデリーンのせいだと責め立てる。
そんな事言われたって成人したいい大人なんだから、今更閉じ込めるわけにもいかない。
責め立てる将来の義母に、
『それは義母様の育て方の問題では?』
と言いたかったが、揉めるのは間違いないのでマデリーンは敢えて指摘はしなかった。
その結果が、この体たらくである。
今日の夜会もエスコートすると伯爵家から手紙が来たのに、ラルフ本人は来なかった。ドタキャンされたのは1度や2度ではない。
今回、急遽拝み倒して来てもらった弟は、未来の花嫁探しに華やかなフロアへと旅立っている。うまく見つかるといいのだが。
それはさておき、件のラルフは他の令嬢と嬉しそうに参加していた。察した周りのマデリーンを見る目が同情的なのが痛い。
だから、私を見ないでよ!
両親はラルフのマデリーンへの対応に不満はあるが、いかんせん立場が弱い為に文句も言えない。何しろラルフとの結婚と引き換えに、資金を援助して貰っているのだ。
私と合わないなら、向こうからとっとと断って欲しい。
「主賓には挨拶したんだし、もう帰っちゃおうかな……」
あんなのでも一応婚約者なので他の男性を誘うわけにもいかず、皆は遠巻きに見詰めるだけだ。
うん、もう帰ろう。
パタリと扇子を閉じて握りしめると、出口へと向かう。弟には好きに帰るよう言ってあるので、大丈夫。
急ぎ足で素早く移動する間も、マデリーンに向けられる同情と言う名の好奇の目。気づかぬふりをするにも、結構胆力がいる。
貴族の娘として、家の為に嫁がなければいけないというのは、解っていたつもりだった。でも。
あと何回堪えれば、私は楽になれるの……?
広間を出て玄関ロビーに向かう廊下。その薄暗がりに入って、一瞬気が緩んでしまった。
思わず涙ぐんでしまい、溢れないように立ち止まって隅で上を向く。帰りの馬車の中まで、堪えるべきだったのに。
唇を噛み、感情を流す努力をする。
あぁ、早く止めないと。まだ馬車を呼んでいないのに。
「レディ、如何されました?」
不意に、近くで低く落ち着いたバリトンが聞こえた。
誰かに見つかってしまったという悔しさ。
そしてこんな私を見つけてくれたという嬉しさ。その優しい声があまりにも好みで、ドキッと心臓が高なってしまって。
うっかり涙ぐんだまま、その声の主の方へ振り返ってしまった。
ポロリと一雫、頬を転がり落ちる。
マデリーンの目の前には、長身の男性がいた。落ち着いた亜麻色の髪と、澄んだ青い瞳。
身なりからして身分はかなり上の方だけれど、男性の顔に見覚えはない。
年齢は30歳前後だろうか、17歳のマデリーンからしたらとても大人の男性。
その人は、溜息が出るほど顔の整った凛々しい人だった。
穏やかな表情の彼はマデリーンの様子を見ると、一瞬だけ驚いた顔をして。それから流れるようにマデリーンの手を引き、身体を彼の腕の中に引き入れた。
「え?」
「どうか私に任せて」
頰を染め驚き戸惑うマデリーンの耳元でそう囁くと、彼は自身の身体で隠すように庭へと連れ出す。
しばらく歩きーーー気がつくとマデリーンは奥庭の四阿の椅子に座っていた。
二言三言何かを後ろに向けて呟いてから隣に腰を下ろした彼が、ポケットからそっとハンカチを取り出して、私に差し出す。真摯な青の瞳が、安心させるように優しく微笑んだ。
「ここなら、泣いても誰にも気づかれない」
「あ、えっと……ありがとう、ございます」
断ろうかとも思ったが、泣いていた所を既に見られているので今更だ。ここは素直にお礼を言って受け取る。
真っ白なハンカチで目頭を押さえると、今まで押し込めていた感情が、何故か溢れ出てきた。
泣くつもりなんか、なかったのに。
「ご、ごめんな、さ……!」
「大丈夫、大丈夫だから」
彼がそっと包み込む様に肩に触れ、ポンポンと叩く。
やだ、私小さな子みたい。
会ったばかりの人なのに。
会ったばかりの人だからなのか。
マデリーンは声を殺して泣き、彼は泣き止むまで側にいてくれたのだった。
§
「本当にありがとうございました。初めてお会いしたのにもかかわらず、ご迷惑をお掛けしました」
「気にしなくてもいい。私が気まぐれに貴女を攫ってきたのだから」
泣き止んだマデリーンが御礼と謝罪をすると、人好きのする笑顔を見せて彼が笑う。
大人美形の笑顔って、こんなにも破壊力があるの!?
それはマデリーンには衝撃的だった。ラルフなど足下にも及ばない。目の前の彼には、気品すら漂う。
慌てて立ち上がったマデリーンは、その場でゆっくりと丁寧にカテーシーをした。
「初めまして。ハウィル伯爵が長女、マデリーン・ダ=ハウィルと申します」
その仕草を見て軽く頷くと、今度は彼が立ち上がった。そしてまるで何処かの姫にする様に恭しく礼を返す。
「私の名は、ジークレイン・ロベルト・ラ=コールウォール。
レディ・マデリーン……カトレアの花のように艶やかな貴女と出逢えた幸運を、今宵の月に感謝しよう」
それからマデリーンの左手を取ると、指先にそっと口づけを落とした。
様になる、その流れるような仕草と色気。思わず赤面したマデリーンだったが、それよりも彼が名乗ったその名に、目を見開く。
「……ま、まさかっ、大公殿下っ?!!」
ラ=コールウォールは王家に連なる男子に与えられる苗字。確か現国王陛下の異母弟で、歳の離れた弟殿下がいると聞いた事がある。
衝撃に固まっていたマデリーンは、慌てて再び頭を下げようとしたが、ジークレインはその手を離さない。あたふたするマデリーンに苦笑して、そのまま椅子に導いて座らせた。
「確かに生まれは王家だが……既に臣下に下っている。遅くに生まれて、この歳までフラフラしているから威厳もない。
出来れば貴女は、普通に接してくれると嬉しい」
「そういう訳には」
「では……私はただの『ジークレイン』という事にしてくれ。貴女に敬って欲しくて、名乗ったわけではないのだから」
「……承知いたしました」
渋々頷くマデリーンに、ジークレインは紳士らしく少し距離を空けて、隣にゆっくりと座った。
何故か離されない手が居心地悪くて、マデリーンが少しソワソワする。そんなマデリーンを楽しそうに見詰め、ジークレインは小首を傾げた。
「攫ってきた私のが言うのもなんだが、レディの手を離したお相手は一体何をしているんだい?」
言いにくい事を指摘されて、マデリーンの視線が彷徨う。トドのつまり『パートナーはどうしたのか?』と聞かれているらしい。
「エスコートは弟でしたので……今は、他の方の所だと」
「では貴女は、今独身なのか」
信じられないと言った顔をされ、気不味くなる。しかし助けて貰った、しかも大公殿下という目上の方に、嘘や誤魔化しを言う訳にもいかない。寧ろマデリーンの名を聞いて、醜聞を知らなかった方が奇跡だったのだから。
こんな美形男性相手に、更に恥を晒す事になろうとは。
穴があったら入りたかったが、覚悟を決めて口を開いた。
「……婚約者が、おります。彼もこの夜会にも参加しているのですが……」
言い淀むマデリーンに、優しく頷いて先を促す。
「婚約者の名は……ラルフ・ダ=ノートンと申します」
その名に思い当たったのか、ジークレインは何か言いかけ、そして改めてマデリーンを見詰めた。
「……そうか、それで貴女は」
「耳障りな話で、申し訳ありません」
「いや、貴女のせいではないのだから、謝罪する必要は無い」
居た堪れない。
マデリーンは身を縮めて俯く。
庇ってくれるが、婚約者の手綱も取れぬなどその本人の資質に繋がる。
今日は厄日かも……。
と。
握られていた手が、両手でそっと握られ撫でられる。励ますように、労わるように。
思わずマデリーンが顔を上げると、ジークレインはウィンクを投げた。
「『浮気は男の甲斐性だ』なんて言い張る男に限って、ろくな奴じゃ無いんだ。こんなに素敵なレディを袖にするなんて、ノートンも高が知れているな」
慰めようとしてくれるジークレインに、マデリーンは胸がギュッと苦しくなった。
「……それでも、私は、逃げられないんです。
逃げたら、両親に迷惑をかけてしまいますので……」
つい自嘲的な言葉を口にしてしまう。
多分私は、ラルフに振り回されて一生を終えるのだろう。もし結婚出来たとしても、私に誠実に対応してくれるとも思えない。
「……女性の幸せって、何なのでしょうね」
「レディ……」
子を産み育て、その家の繁栄を支える。その礎となる男性中心の社会を嘆くつもりはないが、でもそれならば私じゃなくても良いのではないか。まるで換えの効く物のようで、私の意思は必要無いように聞こえる。
私を必要として欲しい。そう望むのは、我儘なのだろうか。
泣き笑いの表情で呟いたまま、何かを考え込む様に俯いたマデリーン。
「……男の幸せというのも、なかなか大変なものだよ?」
「ジークレイン様……」
マデリーンが顔を上げると、ジークレインは椅子の背もたれに身を預け、苦笑して夜空を見上げていた。
「私など母の身分は侍女だからね、城では肩身が狭いものさ。兄上はとうに王位に就いていて、下手をすれば甥の方が歳が近い。
中途半端な身分と立場ーーーそんな物が、一体何の役に立つというのか」
そのまま空に手を伸ばし、まるで星を掴むかのような仕草をするジークレイン。
「まだ成人して間もない頃は、これでも夢があったんだ。……でもそれには逆に私の立場が邪魔になる。
人生は、ままならないものだね」
切なく哀しく、憂いを帯びたジークレインの言葉に、マデリーンは自分の事で愚痴ってしまった事を悔やんだ。
この方も、自分以外のことで身動きが取れず悩んでいらっしゃる。
こんなに恵まれていると思われる方でも……。
「申し訳ございません、詮無い事を口にしました」
「……いや、私の事は気にしないでくれ。もう良い歳だしね。
それよりもレディ・マデリーンはまだ若い、諦めるには早すぎる。
もし良ければ、逃げられないという事情を私に話してみないかい?」
「いえ、ですが……庇っていただいた上に、これ以上ご迷惑をお掛けするわけにはいきません」
身を起こし優しく微笑んで問いかけるジークレインに、マデリーンは慌てて首を横に振る。
目の前の、ジークレインに慰めてもらえた事だけで、もう十分だった。
多分……もう2度と会えないであろう、優しく美しい大公殿下。
「ありがとうございました、泣かせて頂いてスッキリしましたわ。これで笑って家に帰れます」
マデリーンの心からの笑顔に、ジークレインはハッとした表情をする。しかし、これ以上掛ける言葉もなく。
ただ視線だけを一瞬後ろに向け、そうして立ち上がる。軽く溜息を吐き、笑顔で右手を差し出してマデリーンを立ち上がらせた。
そしてそのまま、包むようにマデリーンをそっと抱き込んだ。
あまりに自然なその仕草に、ジークレインの腕の中で気づいたマデリーン。ワンテンポ遅れて素を出し、顔を真っ赤に染めてしまう。
「ジ、ジークレ……!」
「しーっ」
片手でマデリーンを抱えたまま、もう片方の手で人差し指を立て、自身の唇に押し当てる。『黙って』のサイン。そして艶やかな笑顔を見せた。
「……私はレディより人生を重ねているから、少しは要領よく生きられるんだ」
いきなり脈絡のない話をされて、マデリーンが頬を染めたままきょとんとする。その顔が余りにも可愛らしかったのか、ジークレインは思わず腕に力を入れ、首筋に顔を埋めて抱き締めてしまいそうになった。
「そんな顔、ノートンにしてはダメだよ?」
「えっ?!」
「それはともかく、何かあったら……いや無くとも、私に連絡しなさい。出来る限りの力になるから」
内緒話をするように小声で話していると。
ガサガサッ!
ジークレインの後ろの方の茂みが揺れ、誰か男性が去っていく音がした。それを追う女性の声もして、2人は早々に遠ざかって行く。
抱き込まれたままなので、覗き込んでハッキリ確認する事は出来なかったが。あのジャケットの色に、マデリーンはとっても見覚えがあった。
「ジ、ジークレイン様、これは非常にマズイのでは?!」
「大丈夫」
ジークレインが見た方向にはいつの間にか従者らしき人がいて、ジークレインが頷くと同時に身を翻す。
そしてマデリーンは、ジークレインと再び2人きりになった。
辺りでは虫の声がする。
えーっと……一体、何がどうなったの?
混乱して固まっているマデリーンを、クスクス笑いながらジークレインがその腕からフワリと解放した。そして右手の小指に嵌められていた指輪を外すと、マデリーンの手を取って握らせる。
「僕に連絡する時は、この紋章で封蝋をして届けるように。最優先されるから」
「ジ、ジークレイン、様?」
「明日辺り、動きがあるだろうから」
「あ、あの?」
「ご両親に予定空けておいてもらうよう、レディからもそれとなく頼んでおくといい」
「ジークレイン様?!」
話が見えなくて更にパニックになるマデリーンに、ジークレインはフッと表情を変えた。
上品で爽やかな印象が、切なく強い想いに支配される。その瞳に込められた想いを受けて心臓の鼓動が高鳴るマデリーンは、思わずドレスのヒダをギュッと握りしめてしまった。
誰からも受けた事のない、熱い視線。言葉にしていないからこそ、堪らなくなってしまう。
頰を染めて震えるマデリーンに気付いて苦笑しながら表情を柔らかなものに戻すと、ジークレインはマデリーンから手を離す。
「私はこの国の外交官をしていてね、外交の仕事っていうのは、豊富な情報とそれに基づく迅速な判断・行動力が重要になってくる」
「は、はい」
「だから悪いようにはならないーーー多分ね?」
そこでジークレインは、ちゃめっ気たっぷりにウィンクして見せた。
「……ジークレイン様!」
揶揄われたのだと、マデリーンの眉根が寄り口がキュッと結ばれる。
そんな顔を見て、ジークレインは楽しそうに笑った。
「とにかく、今夜は帰りなさい。送ってはいけないけれど、護衛は付けておくから。……連絡、待ってるよ」
ジークレインに見送られて、馬車に乗り邸を後にする。余りにもめまぐるしくて、夢のようで。馬車に揺られながら、マデリーンはジークレインの事を何度も心の中でリフレインしていた。
あの瞳。
揶揄われたにしては、強く切なくて……まるで私を好きみたいに。
渡された指輪の台座には、羽ばたくグリフォンの紋章。多分これがジークレインの大公家の紋章なのだろう。
手渡した時の、男性らしい大きな手。長い指がマデリーンの手をそっと包んでくれていた。
抱き込まれた時の、優しくも強く逞しい腕。ラルフになど抱き締められたことすらない。
着飾ってはいたけれど、マデリーンの器量は並であると自覚している。だからこそラルフに邪険に扱われていたのだろうけれど。
何を、気に入っていただけたのかしら。
連絡をしろと紋章付きの指輪まで渡されたのだ。これまでも揶揄われていたのなら、ジークレインは最初からマデリーン目当てで演技をしていた事になる。
何より切なそうに星空を見上げて語った言葉は、ジークレインの素に思えた。アレが演技だというのなら、もうマデリーンは誰も信じられなくなる。
そして何よりも、マデリーン自身が既に心囚われているのだ。
この気持ちを知らないで、嫁がなくて、良かった。表に出せる想いではないけれど、ひと時の夢を見させて頂いた。それでもう、十分……!
目を閉じて思い浮かぶのは、ジークレインの柔らかな笑顔。初めての想いを胸に、マデリーンは幸せな気持ちで帰途に着いたのだった。