2.職人男子ロラン
肉が食べたい毎日食べたいと駄々をこねる食べ盛りの兄の話をしたら、とっておきのジビエ料理を伝授してあげる!と名乗りを上げたのは、狩人のミシェルだった。
最近じわじわと人気に火がついているジビエ料理。レシピコーナーを写真週刊誌に掲載しないかとミシェルにオファーがきたのは、つい最近のことだった。狩りだけでなく料理の腕前もプロ並みのミシェルの名前も、ジビエ料理研究家としてじわじわと浸透してきている。
ケイトリンは今日、工房で予約客との約束があるので、ライアンにミシェルから直接習うように言ってあった。
「来たよー!」
ノックする音がするやいなや、工房の扉が開き、元気な声が響いた。
「ミシェル!」
声の主ミシェルは、大きな箱を軽々と担いだまま、片手を挙げて挨拶する。
「や!ケイトリン、例のお兄さんは?」
「今、部屋でエプロン選んでるよ。わたしのお古だけどね。」
ケイトリンは調香するとき、作業着代わりにエプロンをつけることにしている。傷んでいても、それほど傷んでいなくても、年に一度新しいものに交換するのがささやかな楽しみだったりするのだ。歴代の古いエプロンはなんだか捨てられなくて、取ってある。
「ケイトぉ~。」
ケイトリンの部屋から、悲痛な声がする。
「なぁにー、お兄ちゃん。」
声だけで返事をすると、困った顔の兄がてくてくと歩いてくる。
大きな体に、フリルのたくさんついたピンク色の小さめなエプロンをつけている。エプロンだけ見ると、新婚の奥さんみたいだ。
「これさぁ、お兄ちゃんには似合わないんじゃないかなぁ。なんか女の子みたいで恥ずかしいよ。」
「全然似合いますよ!」
「!!」
笑いをこらえるケイトリンの横で、あっけらかんと返したのはミシェルだった。まさかもう来ているとは思わなかった。いきなり本日の講師に醜態を晒してしまったライアンは、顔を真っ赤にして慌てた。
「こ、こ、これは失礼しましたっ・・・!」
「初めましてお兄さん!ミシェルです。今日は一緒においしい肉料理を作りましょうね!よろしくっ!」
ミシェルにとっては、正直ライアンが何を着てようが、極端な話何も着てなかろうが何も問題なかった。肉をおいしく焼く!そして食らう!それこそが今日の真の目的・・・!
ミシェルは運んできた大きな箱の中から、朝捌いたばかりの新鮮な鹿肉の塊を取り出した。
「じゃーん!今日のテーマは鹿です!ケイトリン、キッチン借りるよ。」
「うん!ご自由にどうぞ!」
ミシェルは鹿肉を抱えると、まだまごまごしているライアンの背中を押してキッチンへと向かった。
そこへ、再び玄関のドアをノックする音が聞こえる。
「はぁい、どうぞー?」
返事をすると、ロランとソフィアが入ってきた。
「二人とも、いらっしゃい!今日は予約ありがとう。」
「ケイトリン・・・!」
ソフィアは小走りでケイトリンに駆け寄ると、ぎゅっと手を握った。ソフィアの左手には、小さな宝石が飾られた指輪が煌めいている。
「久しぶり・・・!あのね、あのね!私達、婚約したの・・・!」
「ほんと!?おめでとうソフィア。ロランも。」
「あぁ」
ロランは照れくさそうに、そばかすのある鼻をこすった。
純朴そうな二人は、本当にお似合いに見えた。
ケイトリンは二人を応接用のソファーに案内すると、予約用にちゃんとポットに用意しておいたお茶を出し、自分も向かいに腰掛けた。
「それにしても、随分早いのね。二人が付き合ってから、まだ二ヶ月くらいじゃない?」
「そうかしら?」
ソフィアは首を傾げると、ふふっと幸せそうに笑った。
「私達、赤ちゃんの時に出会って、もう26年も待ったわ。」
「そっかぁ・・・!そうだね、本当におめでとう。」
「ケイトリン、式には来てね。絶対よ?」
「もちろん!」
ソフィアはバッグの中から、封筒を取り出した。受け取って開けると、中には可愛らしい装飾のついた招待状が入っている。
封筒はもう一通あるようだ。
「こっちはね、ケイトリンの彼・・・ダニーさんだっけ?の分。」
「ソフィア、そんな恐れ多い・・・!」
慌てて止めたのはロランだった。ソフィアは不思議そうな顔で見つめ返す。
「え?え?何?」
「お忙しいに決まってるだろ!」
ロランは、一ヶ月近く前にケイトリンが気球乗り場へやってきた日のことを思い出していた。
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その日は風邪をひいたソフィアが休みで、ロラン一人で遊覧気球乗り場を営業していた。
遠くから、見慣れた人影が二つ近づいてくる。小さい方が、ぶんぶんと手を振っているので、ロランも気さくに手を振り返した。
『よお!ケイトリン!』
それと、その隣の大柄な影は、ツバキの結婚式でロランとも親しくなった、あのダニーに違いない。そう思いじっと目を凝らしたロランは、我が目を疑った。
なんだかよく分からない装飾をじゃらりとぶら下げ、がさつに歩く派手なダニーはそこにおらず、代わりに、小綺麗な身なりをした、絵本から抜け出した王子様のように気品のある男がいた。燃えるような赤い髪をしているということ以外の共通点が見つからない。どう見てもロランの記憶の中のダニーとは似ても似つかなかった。
『ロラン、久しぶり!』
『あ、あぁ。ケイトリン、こちらは・・・?』
『だ・・・ランドルフ様よ。アリステニア領主の。』
ケイトリンは、少し答えに困ったように考えると、ぽそっと口にした。ロランは驚いて後ずさった。
『・・・この人っ、じゃなくて、この方が!?へー、驚いた・・・お、俺、ロラン·エマールって言います!何もないところすけど、楽しんでいってください!』
『まぁそうかしこまるなよ。知り合いだろ?』
そう言ってにやりと意地悪そうに笑ったランドルフの表情と声の調子は、ロランの中でぴたりとあの人物と一致する。
『って、やっぱダニーさんすね!?』
人間、ここまで印象を変えられるものなんだなと驚きながらも、ロランはケイトリンたちを最新型の気球へ案内した。1階に客席、少し段差を上がったところに操縦席と分かれているので、完全に個室というわけではないが、プライベートな空の旅を楽しみたい客層には好評の機体だ。
ケイトリンが乗り込む時に、丁寧にエスコートされているところを見ると、二人は前よりもいい関係のようにロランには見えた。
『それじゃ、ケイトリン、ダニーさん。出発しますよ!』
『はーい!』
『おう、頼むわ。』
ロランが操縦席で機体に『ギフト』を送り込むと、ゆっくりと上昇し始める。いつだったかケイトリンに、“デートにもおすすめ。”と、遊覧気球を勧めたことを思い出す。あの時ははぐらかされたが、なんだかんだ実現したというわけだ。ロランにしてみれば、感慨深かった。
――とはいえ。
ロランはちらりと、客席側の二人を盗み見る。少し離れて、無言で遠い目をしてちょこんと座っている。
(なにやってんだよ・・・。)
こりゃダメだ、とでも言いたそうにロランは眉間を押さえた。
ソフィアは、ケイトリンとダニーは絶対付き合ってるって言ってたが、ロランはそうは思わない。確かに二人は仲良く見えるが、まだ友達の距離だとロランは思っていた。なんて言ったって自分は、26年間も好きな女の子と友達の距離を保ってきたんだ、間違いない。
(だが今日の二人は一味違うぜ・・・!)
久しぶりに会ったロランの目から見ても、ケイトリンもランドルフも、ぎこちなくよそよそしい。お互いを意識して、距離感を測っているように見えた。
このフライトで、その距離を少しでも縮めることができたら。それこそ、ケイトリンへの恩義に報いることができるってもんじゃないのか。
空は徐々に赤みを帯びてくる。友人の運天士ツバキが、そろそろ太陽の高度を下げている頃だろうか。
(とっておきの景色を見せてやる!)
普段、観光用のフライトでは雲を超えることはしないが、今日は特別。ロランがさらに『ギフト』を送り込みぐぐっと高度を上げると、機体は雲を突き抜け、ケイトリンとランドルフ、そしてロランの目の前に、オレンジに染まる雲海が広がった。
(さぁどうだ・・・!)
『きれいね・・・』
ケイトリンがポツリと呟いた。
(よし。何かいいこと言えよ、ダニーの旦那・・・!)
『そうだな。』
それっきりまた沈黙が流れた。
(もうばかっ!お前の方が綺麗だよとかそういう趣旨のことを言えよ!おばかっ)
ロランががくりと項垂れると、ケイトリンがすす・・・とお尻を動かして、ほんの少しだけ、ランドルフに近づいた。
(お!)
膝の上に重ねていた手を、そっと体の横に置く。
(これは!)
ロランにだってわかる。これは手を繋ぐ絶好のチャンスだ。ケイトリンが手を繋ぎたがっている・・・!
そしてランドルフが一瞬そちらをチラリと見たのを、ロランは見逃さなかった。
(動くか・・・!?動くのか・・・!?)
伏し目がちなケイトリンの頬がうっすらピンクに染まり、期待で胸がどきんどきんと鳴る。
ランドルフは意を決して、
席を立って外をのぞきこんだ。
『おーーー、鳥がこんな高さまで!』
(動いたーーー!!!まじでこいつら何しにこんな高さまで来たんだよ!)
ロランはとてもがっかりした。
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あれきりランドルフには会っていないが、その後二人は上手くいってるのだろうか。領主様でなければ、説教してやったのに、とロランは思った。
「平気よ。どーせあの人しょっちゅうそこらへんブラブラしてるから。渡しておくね。あと彼氏じゃないよ。」
「そうなの?じゃあお願いね。」
うん、やっぱりまだ彼氏じゃなかった。ロランは薄笑いでお茶をすすった。
「それでね、今日はケイトリンにお願いがあって来たのよ。前にシェンちゃんに“結婚式の誓いが永遠に続く香り”を作ってたでしょ?私にも、お願いできないかなって・・・。」
「もちろん!喜んで作らせてもらうよ。」
ケイトリンが打ち合わせ用のメモを手に取ると、威勢の良い声が響く。
「ケイトリンー、辛さってどのくらいまで大丈夫?っとと・・・」
キッチンから顔を出したミシェルが、来客中ということを思い出して声のトーンを落とした。
笑顔で会釈するソフィアに頭を下げると、その隣のロランに目を止め指をさす。
「あーーー!ロランエマール!!」
「あ?何だアンタ?」
突然呼び捨てにされ、不機嫌そうに返すロランの袖を、ソフィアが引っ張って窘める。
ミシェルは構わず、自分の荷物から一昨日新刊が出たばかりの週刊誌を取り出し、ページをめくった。
「職人男子のコーナーで特集されてたロランエマールだよね!・・・あった、ほら!!」
ケイトリンたちが囲む応接テーブルの上に広げて置かれたそのページには、工具を手に遊覧気球の組み立てに汗を光らせ取り組むロランの横顔と名前が大きく掲載されている。タイトルは、“街角の隠れたイケメン、職人男子特集!”。ロランの記事は合わせて3ページにも渡っていた。
「・・・ああこれ、何かこの間写真撮りに来てたっけ。すっかり忘れてたや。」
「見せて!!」
ソフィアは、素早く雑誌を手に取ると、目を大きく見開いて食い入るようにページを見つめている。
身内に見られていると思うと急に気恥ずかしくなってきたロランは、ミシェルに話しかけて気を紛らわそうとした。
「アンタなんでこんなマイナー誌持ってるんだよ。」
「ふふん、私はね、この誌面にジビエ料理のコーナーを持ってるの。ミシェル·リドゲートよ!よろしく、ロランエマール!」
「・・・ロランでいいよ、よろしく。こっちは婚約者のソフィア。」
そのソフィアはロランの特集ページを見てぽーっとなっている。普段の呑気な様子のロランも好きだが、機体に向き合っている時の真剣なロランの表情が、ソフィアは大好きなのだ。
「・・・えーと、ソフィア?よかったら、そのページだけあげましょうか?」
「いいんですか!?」
「いいよ、ケイトリン鋏貸して。」
ミシェルはハサミを受け取ると、ロランの掲載されているページだけ丁寧に切り取り、ソフィアに渡してあげた。
「ありがとう・・・!」
「いいって。二人も鹿食べる?今料理作ってるんだけど、辛さどれくらいまで平気?」
辛いものが苦手なソフィアに合わせて、辛さ控えめをお願いすると、ミシェルはキッチンに戻っていった。
ケイトリンたちは再び、かわいい花嫁の為の打ち合わせに取り掛かる。
香りのレシピは出来上がったが、いくつか採取が必要な材料が出てきたので、製作と受け渡しは後日ということになった。
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ケイトリンの工房からの帰り道、ソフィアは、どんな香りが手元に届くのかわくわくしていた。
おいしい鹿料理に舌鼓を打ち、新しく出来た友達に、結婚式の料理をお願いすることもできた。親しいケイトリンとも久しぶりにたくさん話をすることが出来たし、お兄さんを紹介してもらえた。
何より、それらの嬉しい瞬間全部、隣にロランがいた。たったそれだけで、ソフィアにとっては些細な出来事が特別に思えてくる。
「ねぇロラン。私とっても――」
幸せよ、と隣を歩くロランに語りかけようとした時、二人組の女性が話しかけてきた。
「あの、ロランエマールさんですよね、職人男子の・・・!」
「雑誌読みました!握手してください!」
「えっ?お?あ・・・」
急なことに戸惑うロランの手を取りかわるがわる握手すると、女性達はきゃあと声を上げながら走り去ってしまう。ソフィアが辺りを見渡すと、道端で、店先で、女性達がロランを見てひそひそと話している。
「な、なんだ?今の・・・」
驚いて顔を見合わせる二人は、あっという間にたくさんのは女性達に囲まれてしまった。
「ロランさん、私にも握手してください!」
「サインお願いします!」
「ちょっとだけ筋肉触らせてください!」
「こっち向いてー!」
「ちょ、押すな・・・!あ、ソフィア・・・!」
ソフィアが女性達の輪から弾き出されてしまう。ロランはソフィアに手を伸ばそうとしたが、阻まれて届かなかった。
ソフィアは輪の外から、少し寂しそうな笑顔でその様子を見つめた。
(ロラン、かっこいいもんね。あんな特集が出たら、ファンができちゃうのも納得だよ・・・。)
でも、自分はそのロランの婚約者。ロランがたった一人、妻にと自分を選んでくれたのだ。堂々としていればいい。そう自分に言い聞かせて、この騒ぎが落ち着くのをその辺で待っていようと思っていた時だった。
「ロランさんの、気球に向き合う真剣な表情を特集で見て、一目惚れしちゃいました!」
――ソフィアの目に炎が宿る。
ちょっとそれは聞き捨てならない。ロランの仕事中の真剣な表情は、ずっとパートナーとして働いてきた、私だけの特別なのに・・・!
「ちょっと!!」
ソフィアが吠えた。
女性陣も、そしてロランも、目を点にしてソフィアに注目する。
「人の婚約者にベタベタしないでもらえません!?私達、デート中なの!!わかったらとっとと彼から離れて!離れなさいよーっ」
大人しそうなソフィアのあまりの剣幕に、女性達は蜘蛛の子を散らしたように立ち去って行った。
俯き肩で息をするソフィアと、輪の中心で揉みくちゃにされ疲れきったロランだけが取り残される。
ソフィアは下を向いたまま、帰りましょ、と小さく声をかけるとロランの横を通り過ぎた。
ロランも慌てて追いかける。
「ソフィア・・・なんか怒ってる?」
「怒ってないよ・・・」
怒ってはいない。ただ・・・。
ソフィアの目にじわりと涙が滲む。
「う・・・うぇぇん」
「ソフィア、な、泣くなって」
立ち止まって泣きじゃくるソフィアを、ロランはおろおろしながら慰めた。泣くなと言われると余計に涙が溢れてくる。
「怒っちゃった・・・!知らない人たちに向かって、ひどいことを・・・。それにきっと私、すごく怖い顔してたわ。ロランに嫌われちゃう・・・!」
思えば、子どもの頃から滅多に怒ることのなかったソフィア。いつもにこにこしていて、人間関係でトラブルが起きてしまった時も、今みたいに、まず自分を責め反省するような子だった。
そんなソフィアだから、ロランは好きになったのだ。
「嫌いになんてならないよ。」
ロランは、小さい時からソフィアが泣くといつもそうしていたように、優しく頭を撫でてあげた。そうすると、ソフィアの涙がぴたりと止まることを知っている。これから先も、もしソフィアが泣くことがあれば、その涙を止めるのは自分の役目だ。
涙が止まったことを確かめると、ロランはソフィアを抱き締めた。
「俺はソフィアが大好きだから、嫌いになんてならないよ。怒った顔だってかわいいし。・・・もしソフィアが俺を嫌いになることがあったら、そうだなぁ・・・」
赤く泣き腫らした目を覗き込んで、ロランは陽気に笑って見せた。
「ケイトリンに作ってもらった、“付き合いたての気持ちを忘れないようにする香り”に仕事してもらいますか!」
ソフィアもつられて笑う。
「私だって、嫌いになんてならないよ!・・・でも、今度取材を受ける時は、マネージャーの私を通してね?」
「はいはいー」
「“はい”は一回!」
どんな自分でも好きでいてくれるロランとなら、きっと素敵な結婚生活になる。
ソフィアは、ロランの職人らしいごつごつとした大きな手を握り、前を向いて歩き出した。