12.幻獣使い フィラロ·ファルシ
夜中にひどく雨が降ったらしい。
澄み渡るように晴れた清々しい朝の空を、2軒隣の玄関前で大きな水溜まりが鏡のように映している。
ケイトリンは工房の前に散り散りになった街路樹の葉を箒でかき集めていた。キッチンの小窓から逃げ出した甘い香りが漂う。ライアンが朝食を用意してくれているので、掃除を引き受けたのだった。
ほのかに湿気の残った葉が穂先についてしまうのをぶんぶんと振り落とすと、柄を握る丸っこい自分の手が目に入った。
気を抜くとほっぺたがゆるゆると緩んでしまう。
ほんの五日前、この手で、ランドルフと手を繋いで帰ったことを思い出す。徒歩で二時間かかった。
それでもケイトリンにはたった10分くらいの出来事のように感じた。
「なーに締まりのない顔してんの?」
「お、お兄ちゃ・・・!」
工房のドアを開けて、呼びに来たライアンが呆れたように笑った。
「まただよー。絶対またヴィンセントのこと考えてたに、お兄ちゃんの分のワッフル一個賭けてもいいよ」
「ちがうからね!」
「はいはい、反抗期かなー?朝ごはんだからおてて洗っていらっしゃい」
子ども扱いするような口調に頬をふくらませると、ケイトリンは持っていた箒を乱暴にライアンに押し付け工房へ入っていった。微笑みながら立ち尽くすライアンの耳に、ぱたぱたと騒がしい足音が耳に入る。また表通りを通学途中の子どもたちが駆け回っているのだろうか。あんまり走るとコケるぞ、と声をかけようと振り返った時だった。
「ケーーーイーーーーーー!」
女の子が飛びかかってきた。
「どわっ!」
バランスを崩してもつれるように地面に倒れると、さっきまで握っていたはずの箒の柄ががライアンのこめかみを掠めて石畳を跳ねた。思わずひっと息を呑む。
「あれぇ、人違い・・・?こっちからケイの声がしたと思ったんだけど・・・あの子とよく似た髪だから見間違えちゃったのかな」
女の子はライアンを遠慮なく踏み台にして立ち上がると、きょろきょろを辺りを見渡し、不意に気づいたようにゆっくりと大きな声で声をかけてきた。
「あのぅ、すいません。この辺に、ケイトリンちゃんっていう、私くらいの歳の、女の子のおうちって、ありませんかぁ?」
「いてて、もう・・・君、ダレ?ケイトの友達?」
「そぉなんです!!」
やっと半身を起こして見上げてくるライアンに構わず、目をきらきらとさせながら、うっとりと語りだした。
「あれは忘れもしない、入学式の日のこと!校内でさっそく迷子になったひとりぼっちの私に、ケイはこう声を掛けてくれたんです・・・"ねぇねぇ、あなたも迷子?"って!ふふ!」
「つまりはケイトも迷子だったわけだね・・・」
「それですっかり意気投合した私たちは、大の仲良しさんになったんですよ、おばあさん♪」
「ちょっと待って!?俺はお兄さん!!一万歩譲ってもおじさんな!?」
「あれぇ・・・?あ!めがねがない!あれれ!」
どうやら女の子は愛用している眼鏡を、ライアンに飛びかかった衝撃で紛失してしまったらしい。これはかなりの近眼だなとライアンは思った。ため息をつきつつ、探すのを手伝ってやろうかと立ち上がる。
と、その時再びドアが開いた。
「もう、お兄ちゃん、表で騒がしくしないの。近所迷惑でしょ・・・って!?」
顔をのぞかせたケイトリンが目を丸くすると同時に、女の子が歓喜して抱きついた。
「ケイ!久しぶり!」
「フィーじゃない・・・!元気だった?いつ帰ってきたの?」
「さっき!」
再会を喜び合う女子達を、居心地悪そうにライアンが眺めていると、気づいたケイトリンが女の子を引き剥がしてライアンの方へ向き直らせた。
「お兄ちゃん、紹介するね。技術学校時代の友達のフィラロよ」
「あらー・・・おじさんって、ケイのお兄さんだったんですねぇ。どうりで雰囲気が似てると思った!フィラロ・ファルシです!えと、こういう時なんて言うんだっけ・・・?覚えとけよ・・・!?」
「お見知りおきを、だね。俺はライアン・ベネット。よろしくね。ところでフィラロちゃん、」
苦笑しながらライアンは上を指差す。それにつられるようにケイトリンとフィラロも上を見上げた。
「ウチの看板がかけてるの、君のめがねじゃないかな」
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追加で焼いてもらったワッフルをひとかじりすると、フィラロはレンズの下の目をぱちぱち瞬かせた。
「おいちぃー!」
表情をとろけさせるフィラロのマグカップにビーカー紅茶を注ぎ足すと、ケイトリンも自分の皿の上のワッフルの、最後のひとかけらを頬張った。
「お兄ちゃんは料理が得意なの。そんなに気に入ったならお代わりも頼んじゃおう!」
「わぁい!」
「太るぞ」
冷ややかな目をこちらへ向けながら手早くボウルに卵を割りいれるライアンに、食いしん坊たちが抗議する。
「お兄ちゃんったらそんなこと言わないの!長旅明けで腹ペコの女の子に向かってー!」
「そうですよぅ、客人は全財産を投げ打ってでももてなしてください!」
「破産するって・・・」
それでも、作った料理を褒められるのは悪い気がしないので、もう2~3枚焼いてやるつもりでいた。
ライアンが大人しく生地を作り始めたのを見届けると、テーブルでは再びお喋りが始まる。
「フィー、修行の旅はどうだった?」
「うん、いろんなことがあったよ。一晩かかっても話し足りないくらい!・・・ごめんねケイ、卒業したら隣同士で工房を開こうって約束してたのに。」
「あれ、フィラロちゃんも職人なのかな?」
問われて、フィラロはライアンに曖昧な笑顔を向けた。
「を、目指してたのです。ちっちゃい頃から銀細工師になるのがユメで、技術学校にまで進ませてもらって。でも、いよいよ独り立ちって時に、幻獣使いをしていた父が亡くなって、急に跡を継がなくちゃいけなくなったのです。・・・“いつかは”って、わかってたことなんですけどね!」
「先代が亡くなったらすぐに継がなくちゃいけないのかい?」
「ええ、私の家系は、必ず誰かが器にならなくてはならないんです。じゃないと居場所がなくなっちゃうから、この人の」
言うや否や、フィラロは空いている椅子に首からはずした繊細な銀のネックレスを置き、その上に手を重ねると小さく何かを唱えた。
もくもくと煙が上がり、ケイトリンとライアンは咳が止まらなくなる。やがて煙が収まると、椅子に何者かが腰掛けていた。
とがった耳に鋭い瞳。その顔は間違いなく山猫なのに、悠々と腕を組んで足を投げ出して座っている姿勢は人間のしぐさのようだった。
「軽率に呼び出すなといつも言ってるだろう、フィラロ」
「だってだって、ダンテもそろそろおなかがすく時間かなと思って!」
「ほう・・・それで、この人間どもが朝食ってわけだな?」
獣人はギロリと兄妹を見やる。舌なめずりする口元から、鋭い牙が覗いた。
青ざめて固まる二人をしばらく眺めて威圧していたかと思うと、たまらなくなったかのように大きな口を開けて笑い出した。
「獣人ジョークだ!いやあ驚かせて悪かった。フィラロがお世話になってるね!ははは!」
馴れ馴れしくばしばしと肩をたたかれ、ライアンは引きつった笑顔で、はぁ、と返すしかできなかった。
「ケイ、お兄さん、紹介するね!おじいちゃんの代から家に仕えてくれている幻獣のダンテだよぉ」
「ダンテ・アルジェンドと言います。覚えとけよ!」
「アンタかフィラロちゃんに変な言葉教えたの」
ライアンが戸棚からカップを取り出すとケイトリンがすかさず受け取って紅茶を注ぎダンテの前に置く。フィラロが自分の皿に残っていたもう一枚をダンテに譲ると、たちまちもう一人分の朝食が揃った。ダンテは優雅な手つきでカップに手を掛ける。
フィラロは見て満足そうに微笑んだ。
「ダンテはね、腕のいい銀細工師なの。小さい頃から、それこそ私が赤ちゃんの頃から、間近で製作するところを見てきたんだぁ」
「だからフィーも銀細工師になりたかったのね」
「そぉ!人の手がこんなに美しいものを生み出せるんだって感動したものよ。・・・私が幻獣使いの修行に出てる間、ずっとそっちを優先して付き添ってくれてたから、修行が終わった今、ダンテにちゃんとした工房を持たせてあげたくて!」
「そういうことなら」
ケイトリンはぽんと手を叩いた。
「この後、不動産屋さんへ行って、借りられる工房があるか相談してみない?」
「いいのっ!?」
「ダンテさんの新しい一歩になるんだから、とびきりステキな工房を探しましょう」
店番をライアンにお願いして、ケイトリンとフィラロとダンテは連れ立って出かけることにした。
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不動産屋は噴水広場から少し歩いた商店街の一角にある。
看板がわりの大きなキリンのオブジェが店先に置かれているが、子どもたちにいたずらされるのか『のぼらないでください』と注意書きがされている。
少し重いドアを両手で開けると、中から人の声がした。先客がいるようだ。
「そこをなんとかっ!なんとかなりませんかねー・・・?」
青年が頭を下げて頼み込むと、勿忘草の色をした髪がサラリと揺れた。
「そうは言われましてもなぁ・・・あぁ、いらっしゃいませ」
店主は困ったように顎に手をやったまま、ケイトリン達を招き入れた。
青年もつられるようにこちらを振り返る。セピア色の透き通る目が印象的な好青年だった。