1.プロローグ
――アリステニアの港。
凪いだ波が穏やかに押し寄せる水面は、ラベンダー色からピンクのグラデーションに染まった朝焼けの空を映している。
アリステニアの恋愛調香師、ケイトリン・ベネットは一人たたずんでいた。
この時間の空の色が、一日で一番好きだ。
「ケイティ。」
呼ばれて、振り返る。
自分をこう呼ぶのはたった一人、彼だけだ。
どこにいてもすぐに気づきそうなほど派手な格好をした赤髪の伊達男が、片手を上げニッと笑った。
ケイトリンの笑顔が弾ける。
「ダニー!」
ケイトリンは居てもたってもいられず駆け寄り、矢継ぎ早に質問を浴びせた。
「あなた、どうしたの?こんな時間にどうしてここにいるの?その格好はもうしないんじゃなかったっけ?それに、わたしのことケイティって、」
まだまだ質問が止まらないケイトリンの唇に、そっと人差し指を当てて制止すると、ダニーはすっぽり覆うように抱きしめる。
ずっとこうしてほしかった。ケイトリンは目を細め、うっとりと身を任せた。
「会いたかった。」
「・・・わたしもだよ。」
「本当に?」
「うん・・・!」
腕の中で、何度も何度も頷く。ダニーはふっと笑うとケイトリンから少し身を離し、桜色の髪を撫でた。ダニーの金の瞳が覗き込んでくる。
「ケイティ、好きだ。」
全身の血が沸騰したんじゃないかと思うほど熱くなる。ダニーの口から初めて聴く言葉。今までなんとなく雰囲気で察していた想いを、言葉として伝えられるとやっぱりうれしい。なかなかタイミングがなく、自分でも今まで直接言葉にすることはなかったが、今なら素直に伝えられそうだった。
「わたしも。あなたが好き!」
大きな手は髪から頬を柔らかく伝い、顎を持ち上げた。
――きたっ・・・!
ケイトリンは次に起こることを瞬時に予測し、期待に胸を膨らませて目を閉じた。気合が入りすぎて、つい呼吸まで止めてしまう。ダニーの声が甘い響きを湛えて囁いた。
「ケイト、もう時間だよ。起きて。」
――時間?
ケイトリンは言われるままに、目を開け、
た。
「ひっ、ぃぃや、うわあああ!うわ!」
パチリと開けた目の先には、同じ紅色のぱっちりとした目。
ほぼキスの距離、目の前いっぱいに広がるのは、兄ライアンの顔だった。
「びっ・・・くりしたなぁもう、朝だぞケイト。今日は午前中からお友達と約束があるって言ってなかったっけ?」
目の前で大声を上げ跳ね起きたケイトリンに、ライアンは呆れ顔で話しかける。
「だだだだだってお兄ちゃん、顔近すぎ!ほんと!勘弁して!?」
「いや、ケイトってば声掛けても全然起きないから、もしかして死んでるのかなって心配になって。ちょっとの間息してなかったよ。」
「・・・う、ごめん。」
単純に無呼吸症候群を心配されていただけだとわかって、勘違いをした自分が恥ずかしくなる。
記憶を無くし失踪していた兄と無事再会し、二人での生活を始めたのはわずか一ヶ月前のこと。はじめのうちは、ケイトリンが妹であるということすら覚えていないライアンが気持ち悪く迫ってくることもあったので、今回もそういうやつなんじゃないかと、つい反射的に警戒してしまった。
「・・・あんな夢見たあとだから、どきっとしちゃったよ・・・ふー。」
「夢って?」
ケイトリンの寝室のカーテンを開けながら、聞き返すライアン。心地よい朝日が室内に差す。とてもじゃないが身内に話せるような内容の夢ではないので、ケイトリンは慌てて首を振った。
「なんでもない!」
「そう?朝ごはん用意してあるから、食って出かけるんだぞぅ。」
「はーい。」
部屋から出ていくライアンの背を見送ってから、ケイトリンはぼふっともう一度ベッドに倒れ込んだ。
甘くて幸せな夢を忘れたくなくて、もう一度思い出そうとしたが、冒頭部分はもうほとんど忘れてしまっている。
それでも、忘れられないシーンだけ反芻した。
「好き、かぁ。言えてないなぁ・・・」
好きは、好きなのだ。
ちゃんと自覚している。
だが実際本人を前にすると、ついケイトリンはなんでもない風を装ったり、茶化したりしてしまう。・・・だって気恥しいんだもん。
それにダニー、――と呼ぶことはやめる約束だったが――本人も、ケイトリンと心を通わせた偽りの姿·船乗りダニーとしてではなく、本当の姿であるアリステニアの領主·ヴィンセント·ダニエル·ランドルフとして、もう一度はじめからケイトリンと関係を構築すると決めてからは、以前のように強引に彼氏面をする様子もなく、友達としての適切な距離を保つようにしている。それはもう、紳士的過ぎるほどに。
もはやケイトリンの方から、好きだなんだと言い出せる空気ではなく、そのためにケイトリンはこのところ悶々としているのであった。
今日は休日。親友である占い師リリーと久しぶりにゆっくり会って、お互いの近況報告と一緒に、その辺の悩みも聞いてもらうことにしていた。
いつもの地味なドレスはやめて、控えめにレースがあしらわれたお気に入りのワンピースに着替えると、食卓へ向かう。ライアン手作りのホットビスケットと、ケイトリンの真似をして淹れたらしいビーカー紅茶がいい香りを立てていた。
「おっ、かわいいじゃないか!」
ケイトリンのお出かけ用の装いを見て、ライアンは顔をほころばせた。
ファッションをほめられることは普段ほぼないので、ケイトリンは得意げにその場でくるりと回ってみせた。
「ありがと、お兄ちゃん。」
「いいなぁ、俺もおめかししたケイトとお出かけしたいなぁ。」
「こ、今度ね。」
昔の兄はもうちょっとさっぱりした人だったはずだ。お互いにいい歳になってから、こうも猫可愛がりされると、流石に心配になってしまう。ライアンはもうすぐ30歳。奥さんがいたっておかしくない年頃だ。
――あれ?そういえば・・・。
ケイトリンはふと思いついて質問してみた。
「お兄ちゃんって、彼女いないの?」
「なんだ急に?今はいないぞ?」
シロップのついた指を舐めながら、ライアンはきょとんとした表情で答えた。
「え、じゃあ好きな人とか・・・。」
「ケイトのこと?」
「ちょっと本気でやめて。」
「冗談だよ。」
ぶすっとむくれるケイトリンを見て愉快そうに笑うと、ライアンは頬杖をついて少し考えた。
「ケイトのことはまだ妹だって実感ないし、正直俺はすごくかわいいと思ってるけど、親友の好きな子だもんなぁ。さすがにどうこうなろうとか思わないよ。」
――“好きな子”。
ケイトリンの心臓が跳ねた。
二人の間ではあくまで友達付き合いの段階ということになっているのに、あの人は兄に、わたしのことを「好き」だと言っているのだろうか。
なによ、直接言ってくれればいいのに。
「それに、香りがなんか違うんだよなぁ。」
ぽつんとこぼした言葉に、ケイトリンはハッとした。
「香り?」
「うん。時々、見た目どストライクだなーとは思うことはあっても、なんていうか、ケイトの香りにブレーキを掛けられてる気がするんだよな。あれは不思議。」
「お兄ちゃん、それはね!」
失踪前は調香師として働いていたライアンに、繊細な嗅覚が戻ってきているような気がして、ケイトリンは嬉嬉としてまくし立てた。
「血が近い生き物同士の繁殖を避けるために、本能的に、家族の香りを嫌うようにできてるからなの。お兄ちゃんがその香りを嗅ぎわけられたってことが、わたしとお兄ちゃんが家族であるってことのなによりの証明。わかる?」
「お、おう。落ち着いてくれ。」
「よかったね、お兄ちゃん!」
ライアンが再び職業的な勘を取り戻す日も近いかもしれない。
ケイトリンは満足そうに椅子に座ると、シロップのついていないホットビスケットを頬張った。
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待ち合わせの広場につくと、リリーはもうベンチに座って待っていた。
「リリーお待たせー!」
ケイトリンに気づくと、読んでいた本をしまい、手を振る。ヴェールを被り口元を布で覆ういつものスタイルでも、表情がにこにことしていることは、目元だけでよく分かった。
「久しぶりね、元気だった?」
「うん!リリーも、元気?」
「いつも通りよ。」
前にケイトリンが受け取った手紙のことを相談しにリリーを訪ねて以来なので、1ヶ月近く会っていなかったことになる。
売れっ子占い師のリリーは仕事が立て込んでいてなかなか館を空けられず、ケイトリンは手のかかる兄との暮らしが始まりバタバタしていたので、すっかりご無沙汰してしまった。
「その後、どう?お屋敷には行ったんでしょう?」
「行ってきた・・・っていうかうん・・・なんて言ったらいいか。」
もごもごと口ごもるケイトリンを、リリーはこくんと首を傾げて見つめる。
「かいつまんで言うとね、ダニーは、ランドルフ様だったの。」
「そうね。」
「知ってたの!?」
「ええ。」
「うそ!言ってよ!!」
「あの方が変装なんてしてるものだから、何か事情があると思って調子を合わせてたんだけど・・・」
まだ領主が表へ姿を見せなかった頃から、占いによるアドバイスを求めて屋敷へ招かれることもあったリリーは、町民でも数少ない、その姿を知る者だった。
口を尖らせるケイトリンの頭を撫でて宥めると、リリーは困ったように微笑んだ。
「余りにも自然に貴女の隣に溶け込もうとするから、一度文句を言ってしまったの。ケイトリンを騙すようなことは止めてって。」
「えっ」
「結果、彼は貴女の前から姿を消した。・・・軽率だったわ。二人のことに口を挟むべきではなかった。本当にごめんなさい。」
膝の上に手を揃え、頭を下げるリリーに、ケイトリンは慌てた。
「ちょっと、やめて!リリーのせいじゃないから・・・!」
「それで、再会してどうなったの?上手くいってるの?」
「うーん、まぁ。」
ケイトリンはリリーに、領主としての彼と、改めて友達付き合いを始めたことを話した。本当の自分としてケイトリンに向き合おうとしている姿勢を、リリーは好ましく受け止めた。
「安心したわ。・・・前にケイトリンの未来を少しだけ見たことがあったでしょう?あの時に、貴女は大きな力を持つ男性と縁があるっていう事だけ、見えたの。私は恋占いはからきしだから、特別なアドバイスは何も出来ないけれど、それでも一人の友達として、心から応援させてね。」
「うん。」
曖昧に微笑むケイトリンを、リリーは訝しげに覗き込んだ。
「何か心配事でもあるの?」
「・・・わたし、ランドルフ様のこと、ちゃんと好きだよ。たぶん彼も好きでいてくれてるとは思うんだけど、今まで一度だって、ちゃんと好きって言ってもらったことないの。・・・で、その、わたしも言えてないという・・・。」
顔を真っ赤にしてもじもじと俯くケイトリンを見て、リリーは思わず吹き出してしまった。
「だって、まだ友達付き合いなんでしょう?ランドルフ卿とは。」
「あっ。うん、それはそうなんだけど・・・!」
「だったら、焦ることないんじゃない?いつ言ってもらえるのかなぁくらいに、どっしりと構えていなさいな。」
「そ、そうだね・・・!うん、それもそうだ!」
「ふぅん、そうね・・・でもどうしても、彼から言葉を引き出したいなら・・・」
「なら・・・?」
目を爛々と開けて見つめてくるケイトリンに、リリーはにやりと笑いかけた。
「言ってほしいってお願いすれば?」
「う!!・・・それができれば、やってるよぅ・・・」
「あら?私に、恋は意地を張っちゃ駄目って教えてくれたのは誰だったかしら。」
「・・・そうでした。」
顔を見合わせ笑い合う二人に、突然強い風が吹きつける。広場にもうもうと砂埃が舞った。
「今日は風が強いわね。何処かお店に入ってお茶にしましょう。」
「うん。」
立ち上がろうとすると、近くでばたんと音がする。シートを敷き露店を開いていた女性の看板が倒れたようだ。女性は、シートが飛ばされないように焦った様子で押さえている。
ケイトリンとリリーは急いで駆け寄ると、倒れた看板を起こし、飛ばされた女性の持ち物を拾ってあげた。
「大丈夫ですか?」
「・・・ありがとうございます・・・!」
ケイトリンたちに声をかけられ、女性はか細い声で礼を言うと、弱々しく微笑んだ。
セピア色のつややかな髪を持つほっそりとしたその人は、放っておくと自身も風に飛ばされてしまいそうな印象だ。
ふと、立て直した看板に目をやる。
「・・・聞き耳屋?」
屋号と思われる“聞き耳屋”という大きな題字の下に、“お話、聞きます。”と書いてある。
「・・・はい。週に二度、ここでお話を聞く仕事をしています。うれしかったこと、悲しかったこと。愚痴でも自慢でもぼやきでも、なんでも受け止めますよ。」
世の中にはいろんな仕事があるようだ。へぇぇと唸るケイトリンに、リリーは笑いかけた。
「聞いてもらったら?さっきの話。スッキリするんじゃない?」
「え!リリーはもう聞いてくれないの!?」
「どうしてもって言うなら聞いてあげるわよ。」
「どうしても!!」
他愛のないやり取りを見て、聞き耳屋の女性はくすくすと笑った。
「近しい人に聞いてもらえるなら、それが一番ですよ。・・・そうでない方のために、私はいるんです。」
「あ・・・もし、誰にも話せないことができたら、頼ってもいいですか?」
「もちろん。」
そう言って、女性は天使のように優しく微笑む。なるほど、心が弱っている時には、この笑顔に縋り付きたくなるのかもしれない、とケイトリンは思った。