八十.アラクネさん家の事情10
思ったより長くなってしまいました。
十で終わる予定でしたが、後一話続きます。
昔、誰かが言っていた。
『罠は仕掛けた時、事は既に終わっている』
これは、何かが起こってから仕掛けているのでは遅い、最初の時点であらゆる場面を想定した上で策に策を重ねてこその罠である、と言う意味だったと記憶している。
斯くも罠の世界は広く、奥深い。
そんなわけで俺達は時間の許す限り罠を作り続けた。
どれくらい作ったのだろう。数は、覚えていない。
わかるのは目の前に広がる罠地帯に足を踏み入れたら最後、抜け出すのは至難を極めると言う事実だけ。
これより先は危険地域である事を示す髑髏の絵を刻んだ二本の木を前に、俺は腕を組んで立っていた。
「教官――来ますっ!」
隣に立っていたアラクネさんがそう言った。
俺の耳は未だ森の静寂しか聞き取れなかったが、彼女達の言葉を疑ったりはしなかった。
知覚出来ないだけで、来たのだ。奴が――キマイラが。
片手を上げ、予定通りに指示を出す。
「総員、配置に移動」
「「「はいっ」」」
元気の良い返事と共に、アラクネさん達は音もなく姿を消した。
耳を済まし、気配を探るがアラクネさん達はどこにいるのかさっぱりわからない。
木の上には居るのだろうが、彼女達は森と同化したかのようだった。
「兄さん」
「こらこら、持ち場を離れちゃダメだろ」
「でも不安で……」
皆が移動する中、ただ一人動くことなくその場に佇んでいた俺に、木の上からするりと糸を伝って降りてきたアネモネが声を掛けてきた。
俺の役目は囮。
相手が頭上を確保するのに長けた相手なら、自在に森を駆け巡るアラクネさん達に翻弄してもらった方が良い。
聞いた話ではキマイラと言うのは『凶暴凶悪な大型の猫』のような魔物で陸上行動を主体としているらしい。ならば、同じく地上で行動する生物である俺が囮になるのは、極々当然の流れだった。
その事にアネモネは不満を漏らす事こそなかったが、それでも心配で声を掛けて来たのだろう。
不安げな表情を浮かべるアネモネの頭を軽く撫でてやると、くすぐったそうに目を細めた。
「これが終わったら、しばらくはゆっくり過ごそうな」
「~っ! はい!」
「それじゃあその為にも――」
『ゴルアアァァッ!』
「やってやるか!」
急いで木に昇っていく背を見届けると、俺は再び森の奥へと視線を戻した。
▽
森の静寂を切り裂いて、ビリビリと空気を震わす咆哮が轟く。
あの大鬼にも引けは取らない威圧感を放つそいつは、木々を軽々とへし折りながら猛進して来た。
『グルガアアァァッ! オルルアアァァ!』
聞いていた話と、まったく違うんですけど?
どこが大型の猫なんだ?
鳴き声からもう違うじゃないか。
そう思わずにはいられなかった。
俺が想像していたのは純血の秋田犬並の体だったのだが、現れたのは軽トラ並の巨躯。 背中からにょきりと生えている山羊の頭も意識を持っているのか、目がキョロキョロと周囲を探るように動いている。
四肢はヒグマの成体の三倍以上はあろう極太の猫手で、どうみても普通のライオンを二倍にも三倍にもした姿。ふっくらとしていながらも筋肉がみっちりと詰まっているのがわかる手から覗く鋭い爪は、なんの冗談かと思うほど太く、鋭く鈍い光を放っている。あんなもので猫パンチを喰らえば即死は免れないと嫌でもわかる。
思わず足が竦むような咆哮を上げる獅子の頭からは涎が迸り、目は血走っていた。
明らかに、イッちゃっている。
「えぇ……? キレすぎじゃなぁい?」
一体ここに来るまでに何があったのだろう。マタタビでも嗅がせたのだろうか?
畑ではジャガイモ以外に色々栽培していたし、俺以外、この戦闘に参加している全員体に臭い消しの薬草でボディペイントしている。
唯一俺の他に臭いを消していないのは誘導係の子だが……彼女はチラチラと背後を振り返りながら誘導ポイントまで走っているが、何か怒らせる事を出来るほど余裕があるとも思えない。
となると、こうして逃げられて居ることが気に触ったと言うことか?
だとしたら短気過ぎる……。
「教官!」
走っていた子が声を上げた。
キマイラのあまりに凶悪な容貌に面食らっている間に、誘導ポイントまで来ていたようだ。
俺は素早く指示を出す。
「上がれ! くれぐれも地面に降りないように!」
「はい!」
彼女は走る速度を落とすことなく素早く糸を枝に巻きつけると、釣り竿のリールを巻き取るようにして木の上に昇っていく。
『グルアアァァッ!』
咆哮と共に振り上げられた前足が、今までアラクネさんが走っていた前方を掠めていった。
バットを振ったときのような、ブォン! と鋭い風切り音が鳴り、振り切って手が当たった木の幹がミチリと不吉な音を鳴らして中程から折れて吹き飛んだ。
間一髪。
アレが当たっていたらヤバかっただろう。
アラクネさんが怪我をしなかった事にほっと胸を撫で下ろしたの束の間。
届くと思っていた獲物がするりと手から逃げ去って行ったのが許せないとキマイラは一層、苛立たしげに凶悪な咆哮を上げた。
『メア゛アアァァ!』
まったくなっていない。
女のケツばかり追いかける情けないキマイラには、オーク君達にしたように教育的指導が必要だ。
教えてやろう。俺が書物から学んできた、モテ男になるための振る舞いと言うものを――!
「おい、こっちだ!」
『ルアアアァァ!』
赤く血走った双眸が、ギロリと俺を貫く。
ベチャリと湿った音が聞こえるほど大量の涎を地面に落とし、歯茎が剥き出しにされた口からは覗く長い牙。
……怖すぎ。
熊ですら及ばない凶暴さに、少しだけビビってしまった。
だが逃げ出すことはない。
デキる男レッスン、その一だ。
男はいつ如何なる時も余裕の態度を崩さない。
罠は十分。
後は俺とキマイラのチキンレース。
下手に後退してルートを外れられたら、それこそ堪ったものじゃない。
俺は両腕を組み、仁王立ちしたまま挑発的な笑みを浮かべて顎をしゃくる。
「来いよ、化物。お前が誰を相手にしてるのか、その立派な身体に教えてやるぜ――!」
▽
言葉を理解しているのか、それとも単に挑発的な態度が癇に障ったのか、次なる獲物を俺だと定めたキマイラは行く手を遮る木々をその太い手で払うようにしてへし折り、ぶつかってへし折り突進してくる。
――ドドドドド。
まるでハーレーダビッドソンのエンジン音の如き足音は、生き物のそれとは思えない重厚感がある。
そんな足音らしくない足音を鳴らして向かってくるキマイラの歩幅を、俺は冷静に観察していた。
――後、五歩。
油断は出来ない。
獣と言うのは人間には理解の及ばない不可視のセンサーを兼ね備え、時に予想もしない行動に出るからだ。
このまま仁王立ちしてままで、キマイラはやってくるのだろうか?
もしかしたら、罠がバレるのではないか?
疑えば疑うほど、不安に駆られる。
「へっ」
だから、挑発するように口の片側を持ち上げて笑ってみた。
『ドゥルアアァァ!』
本当に獣かと疑いたくなる咆哮だ。
人間の表情なんて気にしないと思ったが、効果はあったらしい。
――後、一歩。
踏み込め!
そう願ったが、
『グルル……』
先程までの気勢はどこへやら。
キマイラは警戒するようにして唸ると突如、ピタリと歩みを止めた。
「なにぃ?!」
予想外の行動に、三下っぽい声を出してしまった。
土を被せ、葉で隠した罠の偽装は完璧だ。
何がいけなかった?
どうしてキマイラは脚を止めた?
考えてみるが答えは出ない。
だが、問題はない。
獣がふいに動きを止めるだなんてその程度の事は想定していて当然。
動かないなら、動かしてやればいい。
俺は組んでいた腕を解くと片手を顔の横まで上げ、
「引け!」
叫ぶと同時に手を振り下ろした。
「「「はい、教官ッ!」」」
それが合図となり、どこからともなく声が響く。
その瞬間、今まで沈黙していた森がザワリと騒いだ。
キマイラの両側、そして背後の土が大きく盛り上がり、パラパラと土と葉を落としながら唇を削ぎ落とし、歯茎を剥き出しにした醜悪な悪魔の牙を想起させる乱杭の柵が、キマイラを三方から囲み込むようにして立ち上がった。
普通、対象がワイヤーに触れて起動するワイヤートラップと言うのは起動した時に被対象が罠の効果範囲内に入っている事を示す指標だ。
だが、魔力が通り、彼女達の思うがままに動くアラクネの糸。
それをふんだんに使った罠は、何も対象物が罠に触れなくても起動させる事が出来る。謂わば遠隔操作の罠だ。
そしてこの地域は地上に居る限り、どこもかしこも罠しかない。
足元に仕掛けた起動用の糸をキマイラが切らずとも、指示一つであらゆる罠がキマイラに牙を剥く。
楽しんでいけよ。
命を掛けた、アトラクションをなッ!
『――ッ!?』
先端の尖った木の柵が地面から現れた。
突然の事に一瞬、キマイラはビクリと身体を硬直させたが、すぐにでも移動しなければ無数の杭が身体を貫く事くらいは、いきり立った獣の知能でも理解できたらしい。
進むか、退くか。
猫と同じ逆関節のキマイラの脚は、その場で飛び跳ねる事は出来ても下がろうとするなら一度深く関節を曲げる必要がある。
虎挟みの要領で口を閉じて迫る乱杭の牙の速度は、その溜めを待つより早くキマイラへと届くだろう。
選択は一つしかない。
――未だ空白地帯である前方に、必然的に進むことを余儀なくされたキマイラの脚が、プツリと糸を断ち切った。
「ありがとう。期待通りだ」
今の俺はさぞ悪い顔をしているだろう。
俺とキマイラの間には十メートル程度の開きがある。
その俺の足元のから土が盛り上がり、キマイラの元までせり上がる。
重さ、そして速さは力である。
弾かれるようにして起動し、高さと言う重さをもってキマイラの正面から起動した逆茂木が、降り注ぐ弩砲の矢の如き勢いでキマイラへ殺到する。
こうも気持ちよく罠にかかってくれるとつい頬が緩んでしまう。
……アネモネには見せられないな。
「さてさて」
前後左右を鋭い先端を持った木杭に囲まれている姿は、有刺鉄線で作られた檻のように重なり合っている。
近づいて見てみると、何が起こったのかわからないと言った様子でキマイラは脚を折って身を低くし、憎々しげな唸り声を出してこちらを睨んでいた。
こうして見ると、中々可愛いじゃないか。
キマイラの突進を見ていた限り、本気で暴れたらこんな木杭の檻は簡単に壊されてしまうだろう。
だが、先端の尖った物が凄まじい勢いで自分に向かってくる恐怖が、それを躊躇わせているように思える。
当然、暴れて檻を抜けたとしてもまだまだ罠は尽きないが。
▽
知っている罠の名前を出せ、と言われたら、殆どの人が名を上げるのが虎挟みだろう。
しかし、虎挟みは現代では特殊な認可を受けなければ使用することが許されていない罠だと言うことを知っている人間は、あまり多くないと思う。
それは、虎挟みと言う罠が非常に危険であると共に『生きる糧の為に狩る』と言う狩人の基本的な心構えから凡そ乖離した、動物をやたらに傷つけるものであるため、忌避されていると言うのが理由の一つとして上げられる。
動物は体が傷つくとストレスが溜まる。そのストレスは肉の味をとんでもなく損なわせるのだ。だから、罠師は傷つける事を避け、捕まえた後は一撃で命を奪う事を是としている。
対して虎挟みは第一次世界大戦で使用されている。用法は落とし穴の中に大量に投入し、そこに落ちた兵士達の足の肉を喰い散らかし、骨を砕いてやたらに負傷者を出すことを目的として利用されたらしい。それはもう罠ではなく、兵器としての使い方だ。
故に、狩人が掛け違えてはいけないのは、狩りとは食べる事で、そうじゃない殺生はただの殺しであると分別をつけているのである。
だからキマイラを罠に掛けたのは狩りでもなく、殺しでもない。
野生の本能にここは危険な場所であると訴えかけ、認知させることで近寄らなくさせる為の作戦行動。
それが今回の目的だ。
だからキマイラは生かさず殺さず、閉じ込める形で動きを封じたのである。
唯一の誤算があるとすれば、それはここが異世界であり、目の前に居る生物が普通の動物ではなかったと言う事だ。
「兄さん、危ないっ!」
「は?」
アネモネの切羽詰まった声が聞こえたと思うと、次の瞬間、俺の体は抱きかかえられており、ふわりと浮遊感に包まれた。
直後、
『メ゛エェェェェ!』
キマイラの背中に付いている山羊が、耳障りな叫び声を上げると乱杭の檻が吹き飛んだ。
「嘘だろ?!」
「あれは風の魔法ですね」
「あ……」
困惑する俺に、アネモネが冷静に何が起こったのかを教えてくれた。
これぞ魔法!
と言った魔法らしき魔法を見たことがなかったからすっかり失念していたが、この世界には魔法が存在している。
アラクネさん達からはキマイラが魔法を使うなんて話は聞いていない。
もしかしたら、魔法が一般的なこの世界でキマイラが魔法を使うのは常識な話であり、言うまでもないと話だっただけかも知れない。
今後は相手が魔法を使ってくると思ってかかれば良い。
人は失敗から大いに学べるのである。
それに、過程はどうあれ檻が壊されたとしてもその後も当然考えてある。
「やってくれ!」
みょーん、とバンジージャンプさながらに、アネモネに引っ張り上げられつつ今も身を隠していたアラクネさん達に向かって叫んだ。
「「「はい、教官!」」」
今まで姿を隠していたアラクネさん達はガサリと葉を揺らして木の上から姿を現す。
その手には細く強靭な糸が握られており、糸は枝に掛かるようにして地面へと向かい、糸の先に作られた輪がキマイラの足元を縛った。
所謂、くくり罠というやつだ。
この地帯には、足の置き場が無いほどそのくくり罠が大量に仕掛けてある。
くくり罠と言うのはバネとワイヤーを使い、獲物が輪を作ったワイヤーの中を踏むことで仕掛けが押し込まれて作動するものであるが、しかし、アラクネの糸は仕掛け要らずである。
自然界の中に存在する繊維として最強だと言われる蜘蛛の糸は、人間大の蜘蛛が出した糸ともなれば飛行機すら止めるらしい。現代では研究が進められ、ある特殊軍には既に蜘蛛糸を使った防弾チョッキが作成されている、なんて話を聞いたこともある。
そんな最強繊維である彼女達の魔力が通った糸は彼女達からしたら手足と同様で、自在に操れる。
この魔手から逃れる術はない。
檻を壊されて逃げ出そうとした時の第二策だ。
『――?!』
枝を支点にした糸が、キマイラの両手両足首を縛り上げる。
彼女達が地面に落ちるようにして体重をかける事でキマイラの重そうな体は、まるで毛皮の敷物のように四肢を伸ばした状態で中空に固定されている。
「いやぁ、気持ちいいなぁ!」
「兄さん……悪い顔してます……」
「っと、いかんいかん。簀巻きにしてしまいなさい!」
「「「はーいっ!」」」
やぁっておしまいなさい!
どこか古めかしい指示を飛ばすと、元気の良い返事が戻ってきた。
彼女達は地面に降りないよう、木に掴まったままシュルシュルと糸を飛ばす。
「自分以外がアレをやられているのを見るのは、意外といいものだな」
「何を言ってるんです?」
アネモネに冷ややかな視線を浴びせられつつ、糸が絡みついていくのを眺める。
伸ばされた両手両足を束ねるようにして糸が巻かれ、次第に胴体へと糸が分厚く巻かれていく。
魔法を使ってくると思われる山羊の頭に糸が巻かれ始めた時、ふいに頭上から声がした。
『お、お待ち下さい! お許しを!』
その声はアネモネでも、ましてやアラクネさんでもない。
どこか渋みのある声だった。
動きを止め、揃って首を上げる。
そこでは、山羊の頭が糸から逃れようと頭をブンブン振りながら、俺達に向かって命乞いをしていた。
「お前……喋れたのか……」




