五十九.匠オークの家改造3
シャーネに穢された体を簡単に川で洗い流すと家に戻ってきた俺は風呂に入る準備をしていた。
水を汲みに外に出る度、口の端から涎を垂らし空を見上げて放心しているドスケベの姿が視界に映る。
幸いな事に俺は粗相をされて何かに目覚めるなんて特殊な才能は持っていなかったので、その姿を見るだけで気分が滅入っていくばかりだった。
やはり、あんな危険人物に気軽に接触するのではなかった。
後悔を振り払うべくせっせと桶に水を汲んでは浴槽に水を運び込んだ。
「ああ……アネモネから見たオーク君もこんな感じなんだろうな……」
尤も、オーク君の場合はもっと宜しくない液体だったのでアネモネの嫌悪感は尋常じゃなかったはず。
なのにあの時、オーク君に対して嫌悪感を隠す事こそしなかったがそれでも無視する程度でオーク君を鍛えていた俺に辛く当たる事せずにただただ耐えていたのだからアネモネはなんて出来た子なのだろうか。
自分が経験して初めて痛みを理解するとは……愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶとはよく言ったものだ。
「アネモネには日頃のお礼をすべきだな……」
とは言ったが改めて考えてみると俺はアネモネが好きなものを知らない。
アネモネは何が好きなのだろうか。
まだ一緒に暮らし始めて時間が経っていないので当然と言えば当然なのだが、これを期に聞いてみるのもいいだろう。
「また蜂でも探すかな。でも家を長い事空けるのもな……」
太陽の位置から見て時間は正午を過ぎたくらい。
アネモネがいつ頃帰ってくるか不明瞭な今の段階で家を無人にするのは憚られた。
となれば、いつまでも床で寝ているわけにもいかないのでまずは家を整えた方が先決だろう。
「考えてみるとやりたい事は色々あるな……」
あの時は手に入れられなかったが、また蜂を見つける事が出来ればアネモネにお礼の品を作る事が出来る。
蜂の巣があれば蜜蝋を作れるし、油性植物を手に入れる事が出来れば幅はもっと広がる。
「どうしたものかな」
捕らぬ狸の皮算用ではあるが、アネモネの喜ぶ顔を思い浮かべるだけで嫌な事を忘れて楽しくなってきてしまった俺は傍から見れば通報されてもおかしくないくらい一人でニヤニヤと顔を綻ばせていた。
シャーネの相手をするなんて恐ろしい事はもう絶対にしたくないのだ。
現実逃避も兼ねてアネモネのために時間を使いたい。
そんな気持ちが表面に出てしまうくらいあのマーキングは衝撃的だった。
「本当にどうしようか」
かくして今日の方針を決めかねている間に風呂の準備は出来上がっていた。
▽
湯船の縁に肘をかけて寛いでいると玄関口に何者かの気配を感じた。
「誰だ?」
「御前、失礼仕ります。我が神よ」
噂をすればなんとやら。
人である俺を神だなんて仰々しく呼ぶのは彼しかいない。
上と下は川で洗ってしまっており手頃な木に掛けて乾燥中なので着れるものがない。
仕方なく袴の下に履いていた褌一枚で外に出ると玄関の脇には跪いて侍るオーク君が居た。
「これは……驚いたな……」
オーク君は出会った当初の棍棒と腰蓑の蛮族スタイルから首から下の全てを目を見張るような豪奢な黒の甲冑に身を包んでいた。
肩や膝からは禍々しくうねった角まで生やし、体の横には刀身だけで五尺はあろう長大な両刃の大剣も地面に突き立てているので威圧感がある。
顔を伏せているため後頭部しか見えないが、見える部分の毛は綺麗に刈り込まれていて野球少年の五分刈りのようになっている。
しかし頭頂部から首筋までは古代ローマの隊長クラスが被っていたとされる兜みたくモヒカン状にされているのは何故だろうか。
モテると言って意気揚々と帰って行った彼にこの短期間で一体何があったんだ……。
そんな疑問を汲み取ったのかオーク君は顔を伏せたまま何かを喋りだした。
「神のおかげでオークジェネラルへと至る事が出来ました。これも全て神のお導きなれば……」
なんだろう……こう、目的が変わっている気がするのだが……。
まぁ本人は満足しているみたいなので良しとしておくのが吉なのだろうな。
「そうか、よかったな。それで今日はどうしたんだ?」
「ハッ! 先日、我等の住処の上空を一筋の光が――」
オーク君の話はとてつもなく詩的で所々何を言っているのか意味不明だった。
要約すると人質を取られた時にシャーネに向けて射った矢がオーク君達の住む村の上空を過ぎ去ったと思ったら俺達が住んでいる方角からドンドンと音が聞こえてきたので心配になって来た、と言う事らしい。
中々の忠義者だ。
オーク君は執拗に矢が光っていたと言っていたが矢は光らないので何かの見間違いだろう。
ドンドンと聞こえた音は恐らく俺も聞いた赤鬼が暴れまわっていた音で間違いはないと思う。
その事を伝えるとオーク君はポタリと地面に雫を落とした。
「流石は我が神ッ! その赤鬼……とやらは恐らく相貌を聞くにオーガで御座いましょう。力だけで言えば他に類を見ない魔物に素手でお勝ちになられるとは! 我輩、感涙に堪えませぬッ! しかもエルダートレントまで……まさに、まさにここは聖域で御座いますッ!」
「あ、あぁ。そう……? よかったね……?」
感激する事でもないと思うが彼にとっては大事だったみたいだ。
魔物の世界は強さが基準だとアネモネからは聞いていたが、赤鬼……オーガは相当に強い魔物でそれを倒した俺はオーク君の中で更に株価が上昇し、今や天井知らずになっている。
むず痒いが悪い気はしない。
持ち上げられて気持ち良くなっている俺に、オーク君はそれとは別に矢の飛んで行った方角には厄介な奴らが住むからご注意をとありがたい忠告もしてくれた。
なんて出来た奴なのだろうか。
最初の出会いが最悪じゃなければきっとアネモネとも良い友人になれたと思う。
「もっと楽にしてくれよ」
「いえ、我輩は……」
「まぁまぁ、そう言わずに」
「は、はぁ。畏まりました……では、失礼して」
「そうそう。もっと楽にしてくれ」
ずっと跪かれていても俺の居心地が悪いので二人して家を背もたれにしてのほほんと空を眺めながら話しをする。
隣を向けば禍々しい鎧を着たモヒカンの猪頭が居るのだが、足を投げ出して切り株に背を預けながら世間話をしている姿はなんとも言えない穏やかさがある。
「何も持て成しが出来なくて悪いな」
「滅相も御座いません。突如押しかけてきたのに嫌な顔もせずこうしてお話を賜れるだけで我輩、感激で御座いますフゴッ!」
一人称が我から我輩になり、元から流暢であった言葉もやけに丁寧になったと思ったが興奮するとあの語尾だけは出てしまうようだ。
「ありがとう」
「ハハァーッ!」
世間話と言っても森の中で生活している俺には話の種がないのでオーク君が帰ってからどんな経緯で現在に至ったのかを聞くと、良くぞ聞いてくれたと言わんばかりに嬉しそうな声を出した。
「我輩、あれから住処に帰り多種族のレディに乱暴狼藉を働く者共を悉く打ちのめしたので御座います」
「ほうほう」
「しかし、やはり我輩共はオーク。レディを力で屈服させるのが雄としての矜持でして、気が付けば住処中の同胞全てを打ち倒しておりました」
「そいつは凄い」
「と言いましても、今の今まで乱暴に扱われていたレディ達からしたら我輩はそんな奴らを打ち倒した更に凶暴なオーク。レディ達は解放しましたが結局我輩はモテる事が出来ませんでした……」
「なんか、ごめんな?」
「いえッ! 神が悪いのでは御座いませぬ。全ては我輩共オーク族による所業の悪さ故」
「聞き分け良いんだな」
「モテはしませんでしたが多くのオークを倒したおかげで我輩こうして魔物としての格が上がり、進化出来ましたので。……ちなみに、今のところは笑うところですぞ? 多くのオーク……ハッハッハ、フゴッ」
「……」
ちょっと残念になってしまった部分もあるが、オーク君はジェントルの心を忘れていなかったようで一安心だ。
俺に何もなくて良かったと嬉しい事を言ってくれるオーク君とお殿様ごっこをしながら歓談し、今日はこれからどうするのかと聞かれたので蜂を探しに行くか家を整えるかで迷っていると伝えた。
「ふむ、なれば我等がオーク族の中に建築に覚えのある者が御座います故。如何でしょう、聖域の改装を我輩共にも携わらせて頂けぬでしょうか?」
「別にここは聖域じゃないけど……いいのか?」
「この辺りは我輩共の住む地域に生える木々とはかなり性質が違うみたいですが加工は魔法で行います故、何も問題はありませぬ」
魔法、と聞いたら何でもありなのは既にわかっている。
鎧を見るからに彼らの美的センスは疑わしいがちまちまと鉈で削り出しをしていてもどれくらい時間がかかるか……。
となればオーク君の申し出はありがたい。
問題はアネモネが嫌がる可能性だが
「オーク君に頼んであった例の件は?」
「恙無く」
ならば問題はないだろう。
むしろ問題は、
「ちょっと聞きたいんだが、今の俺って……どう?」
「凄く……魅力的です……」
オーク君はずっとそわそわとしていた。
だから非常に気になってはいたのだ……
「やっぱり……臭う?」
「それはもうプンプンと」
「聞くのが怖いんだけど、どんな感じ?」
「今すぐむしゃぶりつきたいくらい濃密なレディの芳しく芳醇な――」
「もう……やめてくれ……」
やっぱり石鹸を作るのも急務だ……。




