四十七話.アネモネの小さくて大きな冒険8
ナイトオウルの胸を借りて一頻り泣いた私の震えは止まっていた。
「本当にそれでいいのね?」
「はい」
「なんとまぁ頑固な娘じゃて」
エルダートレントが呆れ半分に言った物言いに、私はくすりと笑った。
「よく兄さんにも言われます。私は兄さんによく似ているそうですよ?」
「苦労しそうじゃのう」
「あら、これだから枯れかかった雄はダメなのよ。恋は困難があればあるほど燃えるのよっ!」
「なぁにを言っとるんじゃ、お主は」
なんだかんだ言いながらも仲の良い二人に笑っていると、オーガが狂ったように雄叫びを上げた。
「ウガァアアアアア!」
ビリビリと空気を震わせて耳を劈く咆哮に、体がビクリと反応した。
「あんまり時間もないみたいね」
「そうですね……」
「小さいアネモネちゃんともこれでお別れね」
「いつでもうちに遊びに来て下さいね?」
「うふっ。そのうち、ね? 私は気まぐれな女なの」
「ふふっ、知ってます」
ナイトオウルのふかふかな羽毛に抱きついてお別れを伝えると、ナイトオウルも羽でそっと抱き返してくれた。
私は湖の水で元の大きさに戻る。そうすれば、動物であるナイトオウルとこうして会話する事は出来なくなると、そうエルダートレントから聞かされた。
名残惜しいのは事実。ですが、魔物はどこまで行っても魔物で、自分本位なのです。
「頑張るのよ」
「はいっ!」
「あれじゃ。ワシがお主等のところに住めば話の仲介くらいはできるでの。今生の別れと言うわけでもあるまいて。じゃから、しっかりと逃げ切るんじゃぞ?」
「もちろんです!」
「恋の方からは逃げちゃダメよ?」
「逃げませんっ!」
「またね」
「はい、また!」
湖に浸かる根に留まったナイトオウル。
私の意を汲んで心配でも着いて来ないと暗に伝えるためか、湖に浸けた羽の先から私は湖に飛び込んだ。
▽
それは全身を擽られるような、シュワシュワとした不思議な感覚だった。
湖の中で目を開けると、僅かに木々の隙間から差し込んだ木漏れ日が湖面を反射してキラキラと輝いていた。
真っ暗だった卵の中に居るときとは違う。それでいてどこか似ている、何かに包まれている感覚。
これが魔力に包まれていると言う事なのでしょうか?
そんな事を考えながらゴボリと息を吐く。そこで私は大切なことを聞くのを忘れていたと思い出す。
(く、苦しいっ! どれだけ浸かっていればいいのか聞くのを忘れていました!)
静かにしなければいけない事も忘れ、必死になって体をバタつかせる。
バシャバシャと音を立てて水面に這い上がり、伸ばした手が畔にかかった。
湖の底は吸い込まれそうなほど暗く、何もなかったためわからなかったがどうやら体は元の大きさに戻ってようだった。
バシャッ! と一際大きな音を立てて水中から顔を出す。
「ぷはっ……! し、死んでしまうかと……」
上半身を畔に乗り出し、ぜぇぜぇと呼吸をする私の上に大きな影が落ちる。
エルダートレントやナイトオウルではない大きな影。この場に於いてそんな影を落とすのは一つしかない。
私は五月蝿いほど耳に響く、自分の鼓動を聞きながらゆっくりと顔を上げた。
――そこには、やはりと言うべきか、目を血走らせたオーガが立っていた。
腕は兄さんの体よりも太く、長い。拳は頭二つ程はあるでしょう。二つの目は白く濁り、口の端からは体液を垂らしてゴフゥゴフゥと荒い息を吐き、体中から浮き出た血管はドクンドクンと脈打っている。
大きな生きた壁。
そこに存在しているだけで重く圧し掛かる威圧感を放っているオーガ。
怖い! 怖い! 怖い!
恐怖に頭を支配された私に、追い討ちをかけるようにオーガは腰を落として姿勢を低くすると、両手を広げて雄叫びを上げた。
「ガアアアアア!」
耳を劈く咆哮に、私は悲鳴を漏らした。
「きゃあああああ!」
オーガが大きな拳を振り上げる。
ただそれだけで、ぶぅん! と風を切る音が鳴り、兄さんが矢を放った後のような旋風が、吸い込むように私の体をオーガへと引き付けた。
そんな、恐怖で固まってしまった私の耳に背後から大きな声が響く。
「逃げるんじゃ! 道はワシがなんとかする!」
すると地面からズボッと音を立てて太い根が飛び出るとオーガの四肢を縛り上げた。
太いと言っても巨大な筋肉の塊であるオーガの体を縛り付けるには幾分か頼りなく見えるそれらは、それでもギチリと音を鳴らしてオーガを縛り、動きを止めた。
「な、長くは持たん! 早くするんじゃ!」
「ご、ごめんなさいっ! 必ず戻りますっ」
「待っておるぞ!」
優しげなエルダートレントの声で少しだけ持ち直した私が駆け出すと同時に、木の根による拘束を強引に引き千切ったオーガの一撃が、今居た場所を抉り飛ばした。
攻撃を避けられたからか、それとも邪魔をされた事に腹を立てたのか、オーガは翠蓋落ちる森の空に向かって再び咆哮を上げた。
「グゥウウウウ……ガァアアアアアア!」
エルダートレントの援護を受けて逃げ出した私はオーガの脇を抜けて森の口に辿り着く。
すると、生え並ぶ木々は弓のように中ほどから撓ると道を作り出した。
「え、これって……」
「ワシは木の魔物。これくらいは出来るし、これくらいしか出来ん。早く行くんじゃ。案内は任せい」
「ありがとうございます! エルダートレントさん! こっちです。オーガッ!」
未だ背後で暴れ回り、地面を掘り返すオーガを挑発すると、ゴフゥと息を吐いたオーガは雄叫びを上げながら私の後を追ってきた。
▽
どれくらい走ったのでしょう。
エルダートレントの助けもあり、どこに向かっているかわからないものの、森が口を開いてくれるおかげで態々生え並ぶアイアンウッドを避ける必要もなく、私は森を駆け抜けていました。
それなりに走って時間が経った事と私が通り過ぎると腰を曲げていた木が再び真っ直ぐになってオーガの邪魔をしてくれているため、私は背後を振り返ってはオーガとの距離を確認しながら走るくらいの余裕が出来ています。
「ほら、こっちですよっ! こっちこっち!」
「ウガァァアアアアッ!」
挑発が過ぎたのか、猛り狂った雄叫びを上げたオーガが目の前のアイアンウッドに体を丸めてタックルをすると、その破片が矢の如く飛来した。
「きゃっ!」
何故だか兄さんに強く言われて渋々巻いた胸を隠す糸。
それがあったおかげで背中に木片が刺さることはなかったが、細切れになった破片は糸が巻かれていない腕や脇腹を切り裂いた。
「あうっ!」
傷口から流れる血を見たオーガは口の端を歪めた。
「ガッガッガッ」
「ま、まずいです……」
オーガはいい事を思いついたと言わんばかりに笑い声を上げた。
その笑い声に、嫌な予感が走る。
一定の距離を取っているのに、まるで目の前に居るのと変わらない。そんなゾッとする悪寒に、手に汗が滲んだ。
「な、なんです……? この感じ。こ、怖い……!」
再び胸を締め付けるような恐怖に踵を返すと私は脇目も振らずに走り出した。
すると、頭の横をヒュン! と何か飛び越え、地面に大きな音を立てて突き刺さった。
もくもくと土煙を上げる中からその正体が見えたとき、私は悲鳴を上げた。
「きゃああああ!」
――その正体は、一本のアイアンウッドだった。
▽
「ガッガッガッ!」
オーガは楽しそうな笑い声を上げ、行く手を邪魔するアイアンウッドを引き抜いては投槍の如く投げ込んで来た。
――ズドン
――ズドン
投げ込まれるアイアンウッド。
それが上げる土煙に私は視界を奪われてしまっていた。
多分人間である兄さんに出来るなら腕力に特化したオーガが出来ない道理はない。
その事をすっかり失念していた私はオーガの投げる攻撃に当たり、足の一本を折られた。
とんでもない激痛。
走れないことはない。しかし思った以上にバランスが悪く、上手く走る事が出来なかった。
バランスの悪い体はカクンカクンと不恰好に揺れる。
「に、にげ……逃げないと……!」
それでも足を動かす度に折れた足に伝わる振動。頭を痺れさせる痛みが背筋を這い回り襲って来る。
それに加えて弄ぶように背後から迫り来るオーガの威圧感と、そこから来る恐怖。
精神的な疲労もあって私は浅い呼吸を繰り返すようになっていた。
「はっ……はっ……」
このままではやられてしまう……
もう二度と兄さんに会えない。頭を撫でてもらえない。
「やっ……そんなの、嫌……! なのに……」
折れた足だけじゃなく、無事な足まで恐怖に竦み動かなくなっていた。
木片とアイアンウッドが地面に刺さった衝撃で弾けさせた石の攻撃で皮膚が裂けた痛み。
体はガクガクと震え、自然と涙が零れ落ちた。
立ち込める土煙でオーガの姿は見えないと言う事はオーガからもこちらの様子はわからないと言う事。
それなのに私は居場所を教えるにも等しい泣き声を上げてしまった。
それを逃すほどオーガは優しい存在じゃないのはわかっていたはずなのに。
「ふ……ふぇぇ……」
泣き声を上げた矢先の事。
涙で滲む視界の先に、土煙の一部をブワッと吹き飛ばして姿を見せた一本の――木。
「え……あっ……」
その木が進む先は明白。
私はこのまま体を潰されて死ぬんだ……
諦観の果てに、世界は少しだけ私に猶予をくれた。
迫る大きな木がやけにゆっくりと映る。その間に私は兄さんと過ごした数十日と少しの幸せ過ぎる程幸せな日々を思い出していた。
――私に家族と言うものを一生懸命教えてくれようとしては、上手くいかないと言って笑う困ったような笑顔。
――ワームが通った後のような、何かを書いてはこれが文字だと言い張る笑顔。
――川を引きたいなんてとんでもない事を言って子供のように笑った笑顔。
――静かに私の頭を撫でてくれながらの笑顔。
どれもこれもが幸せで、温かかった。
「嫌だなぁ。もっと一緒に居たかったのに、私……大嫌いなんて言っちゃった……」
もう一度でいい。大好きな人の、大好きな顔を見たい。
でも、それは叶わない。
願うだけ辛い。
「もう、いいです……ありがとう」
せめて、痛くありませんように。
そう願い、フッと体から力を抜くと世界が再び速度を取り戻した。
轟! と風を引き連れ体を押し潰そうとする木が目前まで迫る。
その一瞬、木の横に土煙を破って黒い何かがぶつかった。
――パァン
何かが弾ける音が耳に届く。
突如起こった奇跡のような出来事に、私はしばらく呆然とその様子を眺める事しか出来なかった。
いえ、違います。そうではありません。
私は理解したくなかった。危険に巻き込んでしまうから。もしかしたら……そんな考えたくもない事を考えてしまうから。
だと言うのに、その人はそこに居た。
私と同じ黒い髪。聞き慣れないドーギとハカマと言うゆったりとした服。それらを靡かせ、すっかり見慣れた背中を晒している。
一日にも満たない短い時間。それなのに何十、何百年とも思える時の彼方で先程まで思いを馳せた相手。
切れた額から流れる血と涙で滲む視界。それでも私が見間違える事のない、その人は――
「にい、さん……?」
「すまない。迎えに来るのが、遅くなった……」
背中越しに少しだけ振り向いた兄さんは、今まで見た事のない、今にも泣き出しそうな悲しい笑顔でニィと無理矢理笑っていた――
そんな辛そうな笑顔を隠すように兄さんは直ぐに正面を向き直ってしまった。
私はその後姿に話しかける。
「にい……さん……」
「あぁ、俺だ。よく、頑張ったな」
正面を向く兄さんから何の音か、ギリッと音が聞こえた。
「もう少しだけ、我慢できるか?」
「はい……はいっ……」
「帰ったら、美味しいもの食べような」
「はい……」
「帰ったら、傷をしっかり治してまた一緒に風呂に入ろう。全身マッサージ付きだ。拒否はさせないぞ?」
「はいっ……楽しみ、です……」
それから、それから……
と辛そうに何かを言いかける兄さんに、私は
「兄さん」
「……ん?」
「大好き、です」
「……わかってる。俺も大好きだぞ? でも、今はあんまり俺を見ないでくれ。嫌われたくないんだ」
「嫌です。ずっと、ずっと見てます。それに私が兄さんを嫌いになるなんて、ありえませんから」
「そう、か……」
普通の人間。それも細身で、それほど大きいと言うわけでもない背中。
なのに、そこから立ち上る威圧感はオーガの放つ威圧を軽く凌駕していた。
オーガを壁と言うならば、その背中は山。
兄さんが首を軽く横に倒すと、ゴキンッ――と小気味良い音が響き、肩を回すとパキパキと鳴った。
「あの、兄さん?」
「ん?」
「武器は……」
「重いから置いて来た」
「大丈夫、ですか?」
「大丈夫だ。小さい頃、爺さんに北極に連れて行かれて寒さで死ぬのが嫌なら素手で熊を倒して暖を取れって滅茶苦茶鍛えられたからな。素手で何かを倒せないほど柔な鍛え方はしていない」
「は、はぁ……そう、ですか?」
ホッキョク。
聞いた事のない言葉が兄さんから飛び出ましたが兄さんが大丈夫だと言うのなら私はそれを信じるだけです。
「それじゃあ、ちょっと行って来る」
「いってらっしゃい、兄さん」
土煙の向こうに消えた私の愛しい人。
私は忘れない。
その数秒後に起こった事を。
相手より遥かに小さい兄さんが一瞬にしてオーガを肉塊に変えた今日と言うこの日を。
アネモネちゃんはそれでも普通の子供なんです……
誰もが窮地に陥れば超魔力や超筋力に目覚めるスーパーヒーローインになれるわけではないと言うことですね。痛い思いをさせてごめんよ……
でもそんな頑張ってるけど弱いお姫様チックヒロインなアネモネちゃんは本当に天使。
兄さんのブチ切れオーガ戦闘回は次話に持ち越しとなります。
アネモネちゃんが冒険している間、性の獣シャーネを締め上げた後にどのようにしてアネモネちゃんの窮地に兄さんが現れたか。それを追う話とその後。
それ程日を置かずに2~3日中に投稿したいと考えておりますので今後ともお付き合いの程、宜しくお願い申し上げます。




