三十四.女の事情と情事1
ちょっとシリアスです。
怒りに任せ弓を引き絞ったはいいがこのまま矢を放ってしまえば女強盗に関しては解決する。だが、間違いなく家は吹き飛び、ご立腹のアネモネに折檻を受ける事になるだろう。
間違いなく数日……いや、もしかしたら新しい家が出来るまで口を聞いてもらえない可能性もある。そんな気まずい空気の中で生活するのか? 耐えられん! どうする? 考えろ、俺。
思考の海に沈め!
「おい、何をしている!」
女強盗が何か叫んでいるが、目を閉じて思考の海原を行く俺の前に言葉は漣にかき消されてしまった。
自分の鼓動すら聞こえない。
俺は海岸の細かい砂の一部。世界の広さを感じるが如く、自分の小ささを感じさせてくれる。
世界と時間を拡張し、思考の幅を広げる事だけに一身を注ぐ。
静かに呼吸を繰り返す俺を見たアネモネは何かに気がついたように声を上げた。
「これは……!」
「なんだ、魔物。お前はアイツが何をしているのかわかるのか?」
「わからない方がどうかしています。兄さんは今、とても集中しています!」
「……見ればわかる」
「違います。兄さんはぼんやりと空を眺めて寛いでいるように集中する、真剣な顔を作って集中していますと表現する、眠ったように集中するの三つがあります」
「なかなか奥が深いな……じゃなくて、そんな事どうでもいい!」
「貴女……このままでは死にますよ。今すぐ私を解放して逃げる事をお勧めします」
「何?」
「貴女は兄さんを知らないからそんな悠長に出来るのでしょう。兄さんは容赦のない人です。貴女が兄さんに注意を向けながら私と会話しているもわかっていますが、あの弓の前では無意味です」
「弓? あれは弓だったのか?!」
「弓です。本人曰くは、ですが」
「攻城兵器か何かかと思っていたぞ……」
黙っていれば散々な言われようだ……
それにしても困った事に、考えても考えても良い案は出てこなかった。
そりゃそうだ。そんな簡単に解決案がでるなら世の中もっと上手く回っているし、俺も上手く立ち回れていたはずだ。ゼロにゼロをかけても結局ゼロと言うことだろう。
残念だが、家は諦めるしかない。
「ふぅ……アネモネ、すまない。家は頑張って造り直すからしばらく我慢してくれ」
「兄さん……大丈夫です。私は兄さんと一緒に居られたら……」
くっ……良い子に育ってくれて俺は嬉しいぞ!
「すまない……!」
「お、おい! 盛り上がっているところ悪いが、下手な真似はお勧めせんぞ?」
そう言って女強盗は首を挟む腿に力を入れたのか、アネモネは少し苦しそうにもがいた。
「……お前、死にたいのか?」
冷静を保とうとはして見たものの、アネモネの顔が苦悶に歪んだのを見た瞬間、ブチッと頭の中で何かが切れた。
普段だったらまだ多少は冷静で居られたかもしれない。だが、女の卑猥な独り言で元から精神をかなり削られていた俺には怒りを爆発させるのに十分だった。
下弭に取り付けられたロックを蹴り外すと硬いスプリングがアンカーを打ち出してボロ家の床を貫く。バキリと音を立てて突き刺さったアンカーからは傘のように開いた返しが床に食い込んでしっかりと弓を固定した。
「これは威嚇だ。二度目はない」
「何を――」
狙いを女強盗の頭から少し横にずらすと矢を放った。
自分の目でも見えない速度で弦から離れた矢は風切り音すら置き去りにすると数瞬遅れて引き込まれそうになる旋風を巻き起こす。
ボッ、と音が響くと中から爆発したように家を一瞬にして吹き飛ばし、俺はあまりの衝撃に弓にしがみ付いた。
「うおおおお!」
試し打ちは前に一度済ませている。その時は矢が何とか視認できる速度で飛び、何故か地面を抉った程度だった。だから矢を放って家が壊れるなんてアネモネの誇大表現だと思っていた。
だがどうだ? 一体何が起こっている?
「きゃああああ!」
凄まじい轟音に混じってアネモネの悲鳴も聞こえてくる。
威嚇して女強盗を萎縮させるだけの作戦とも呼べない作戦だったのだが、アネモネを危険に巻き込んでしまった。
アネモネは無事だろうか?
「アネモネェ! 大丈夫かぁ!」
「はぁぁい! なんとかぁ!」
轟々と悲鳴を上げる風の音が五月蝿くてどうにも声が聞き取り難いが、無事なようだ。
アネモネは声を頼りに糸玉の糸をシュルシュルと伸ばすとそれを手繰り寄せて弓の元まで来た。
普通の人間であれば吹き荒れる風の中を歩くことは困難であるが、アネモネの大きな蜘蛛の下半身が幸いした。硬い蜘蛛足を床に刺す事でアンカー代わりにこちらまで歩いてくる姿が見えた。
「やはり、兄さんの弓は危険ですね」
「俺もそう思う。前はかなり威力の高い弓なだけだったんだがなぁ……」
爆弾。
そう表現するのがしっくり来るほど矢の威力は凄まじかった。
元から矢など存在しなかったとすら思える速さで飛び去った矢だが、飛んだ軌跡にはその存在が残っている。
一直線に視界の先まで抉れた地面。その線上には幹以外を残して消え去ったアイアンウッドとそこを避ける様に斜め倒しになった木々。
直線距離しか進む事の出来ない巨大な獣が障害物を食い破り、邪魔な木々を押しのけたようにも見える。
どこか遠くでチュドン! と爆弾が爆発した音が聞こえたが、矢はトスンと言って刺さる。つまり俺の聞き間違いか、それともどこかの誰かが爆発物を使ったに違いあるまい。そう現実逃避をする事にした。
「だから兄さんにそれを打たせたくなかったんです……」
「なんかごめんな。それより怪我は大丈夫か?」
首に纏わりついていた女の姿はどこかへ行ってしまっていたが、それよりも俺はアネモネの怪我の方が心配だった。
「大丈夫ですよ。……コホッ」
「見せてみろ」
長い黒髪を手で掬うと、アネモネの首には薄っすらと赤い線が引かれていた。
「痛いよな。良く我慢したな……ごめんな。いい案が思いつかなくて……」
「兄さん……元はと言えば油断して捕まった私が悪いんです。兄さんは私を助けてくれました!」
「本当に、ごめん」
もしもの時、必要になると思って服の内側には常に切り傷や打ち身、止血用の薬草を仕込んである。
俺は打ち身と擦り傷用の薬草を手で軽く揉むとそれを首の赤くなっているところに貼り付けた。
「少しすれば痛みも消えるし後も残らないはずだ」
「ありがとうございます、兄さんっ」
痕が残らないと聞いてパッと顔を上げたアネモネはガバッと俺に抱きつくとそのまま頬ずりを始めた。
怖い思いをしたばかりだ。興奮や恐怖が拭えず対人恐怖症にでもなったどうしようかとそっちの心配もしたが、これなら大丈夫そうだな。
しかし、あの女強盗にはキツイお仕置きが必要だ。
アネモネの髪を撫でながら、矢が飛び去った先へと目を向けた。




