十七.風呂を作りたい2
無心に帰り木を削ると言う作業は存外、心に来るものがある。
息を殺し、気配を消して獲物を待つ狩猟とは違ってやる事があるのに只管同じ行為を繰り返す。
俺はいつしか心を失い、木を削る魔物と化していた。
「俺は木を削る魔物だ……」
「兄……」
「俺の命は木を削るためにある……」
「兄さ……」
「俺は……」
「兄さん!」
両頬をバシッと押さえ込まれ、自分を取り戻した。ハッと我に返って見ればすぐ目の前には美しいオニキスの輝きを宿した瞳が覗きこみ、陶器のような滑らかな顔が迫っていた。
「あにゃもにぇひゃん。顔が近いでしゅ」
「っ~! も、もう! しっかりしてくださいっ」
自分でやった事なのに顔を真っ赤に染めたアネモネは手を離すのではなく、そのまま投げ飛ばして俺を地面へとめり込ませるとツンとそっぽを向いてしまった。
まったく、恥ずかしがっちゃって……
「痛い」
「に、兄さんが心配させるからっ」
「そうだな、悪かった。正気に戻してくれてありがとう」
「一体なんであんな風に?」
「小さなナイフで木を削る作業ってのは中々大変だったと言うわけだ」
「はぁ、そうなんですか?」
「一人だと辛いから、近くに居てくれるか?」
「本当に兄さんは寂しがり屋なんですから……し、仕方無いから一緒に居てあげますっ」
静かな森の中で体を大きく動かすわけでもなく黙々と作業するのが辛かったから変化が欲しくて言っただけだったのだが……
「あの、アネモネさん?」
「なんですか?」
「近くに、とは言ったけどさ。誰も抱き付いてくれとは言ってないぞ」
「ダメ……ですか?」
「っ~! 駄目なものか!」
いつもは腕にくっ付いたりするが、ナイフを使っているからか背中からスリスリと抱き付かれている。そんな状態で甘えた声を出されてノーと言える人間がいるか?いや、居ない!
そんなアネモネが背中越しに伝えてくる体温と心臓の鼓動を感じながら作業に戻った。
未だに高く上る太陽が温めた風に吹かれて体をさわさわと撫でる髪。それに乗って仄かに花の香りが鼻腔を擽る。
柑橘系と言えるほど爽やかでもなく、甘すぎない金木犀のような香りは精神をとても落ち着かせてくれる。
「アネモネって良い匂いがするな。何か……」
振り返って見れば、アネモネは俺の腰に手を回した状態でいつの間にか眠っていた。
おんぶでもされている気分なのか、口をたまに動かしながら気持ち良さそうに眠っている。
首が痛くならないように体を少しズラして眠り易い姿勢にしてやると薄っすらと笑った気がしたのだが……本当に寝ているのだろうか?
「起きてるのか……?」
ツンツンと頬を突いても反応はなく、スースーと静かな寝息が聞こえてくる。
指通りの良い髪を一撫ですると再び木材加工に戻る。
この可愛い娘の為にも一刻も早く浴槽を仕上げなければならないと言う自己暗示は功を成し、一人の時に比べて作業速度は何倍にも跳ね上がった。
▽
木材加工も順調に進み、日もそれなりに落ち始めた頃には大分形になっていた。
茜に染まった空から落ちる光は未だアネモネから伝わるものとは違う熱を伝えてくるが、そろそろ家に戻ったほうがいい。
そう思って起こすタイミングを計っていたが夢でも見ているのか、アネモネはたまに慈母のような微笑をしたかと思えば形の良い眉を寄せて唸り、何かと思えば今度は背中に顔を摺り寄せて来る。……何と幸せそうに眠るのだろうか。
「起こすのがこれほど難しいとは……」
アネモネも同じ気持ちで俺を起こしては……いないな。
天井に逆さ吊りにし、それでも起きなければド突き回す。少々手荒だと思わないでもないが多分それは一刻も早く朝の挨拶をしたいからだろう。可愛い奴め。
だが、右往左往していても仕方無い。ここが男の見せ所とでも言えばいいのか、心を鬼にして起こすしかない。
「アネモネ、起きろ。風邪引くぞ」
体を反転させ、向き合うような形で頭を撫でながら優しく語り掛けると、んふふーと怪しい笑いを零した。
世のチョロイ人達を騙せても俺の目は騙されない。
「起きてるな?」
「えへっ」
「まったく……いつからだ?」
「今さっきです。兄さんが髪を撫でてくれた辺りでしょうか」
「そうか。じゃあそろそろ家に戻ろう」
「あっ……」
「ん?」
「あの、もう少しだけ……」
「仕方無い奴だ」
恥ずかしがって顔を見られるのを嫌がると思い頭を胸に抱きかかえるようにして髪を撫でると案の定アネモネは顔を隠すように抱き付き直した。
グリグリと胸に押し付けられた顔は照れているのがわかるくらいに熱く、蜘蛛の足はキチキチと音を立てている。
最近わかった事なのだが、何かを警戒しているときなどは蜘蛛足をギチリと不快な音をさせるが、恥ずかしいときや感情が昂ぶったときなどは軽い音を鳴らしてしまうようだ。
今回はキチリと足の関節が鳴っているので、わかりやすく照れている。
そんな愛しく可愛いアネモネが満足したのは日がとっぷりと暮れ、月明かりが差し込んでしばらくしてからだった。




