●──【9】小竜の強襲
嵐はいくらか勢いを失い、いまは雷音は聴こえず、雨垂れの激しい音だけが館内をつつんでいた。
あたしはときどき、安っぽい恋愛小説を読むことがある。それなりにわくわくするけれど、物語の内容を日常生活にあてはめて夢想するにはちょっと無理があるかな、と思えるようなたぐいの小説。
そういう三文小説だと、恋人たちが夜、ふたりきりになって愛の言葉をかわす場面がよく登場する。健全な乙女にはちょっとばかり刺激が強い一幕なんかも演じられたりして、けっこうドキドキしながら読み耽ったりする。
エスティとふたりきりのこの夜は、あたしにとってはたしかに刺激的な夜だった。
おまけに、長い夜だった。
なにしろちいさな猛獣が屋敷のどこかに隠れ潜んでいるという、とんでもない身の危険にさらされていたわけだから。
これほど刺激的なことはほかにない。
おまけにそうした状況は、人間の時間感覚を無限にひきのばしてくれるもののよう。
とにもかくにも、あたしたちは必死だった。
レイチェルさんがいる新館は、旧館にくらべて戸締まりはしっかりしている。
だからといって、ちいさな化物が忍びこまないという保証はない。
レイチェルさんがなにも気づかず朝まで眠っていてくれるなら心配することはないだろうと、エスティはいう。でも、物音かなにかで目を覚ましたレイチェルさんが、不審に思って一歩でも寝室の外にでてしまったら……どうなるかわからない。小竜はとにかく獰猛で、動くものならなんにでも、本能的に襲いかかる習性があるそうな。
一度しめてしまった重い扉をエスティが苦労してあけると、あたしたちは手提げランプを片手に、様子をうかがいながら廊下にでた。
廊下は、ところどころが濡れていた。小竜の足跡。だからその跡をたどっていけば、もしかしたら竜モドキを発見できたかもしれない。
だけどあたしもエスティも、そんな愚かなマネをしたいとは思わなかった。
それより、レイチェルさんに警告するのが先決だった。女侯爵の身が心配で、気が急いてたまらなかった。
とはいえ、怪物がどこから飛びだしてくるかわからない危険は無視できなくて、あたしたちは慎重な足どりで歩いていくしかなかった。なるべく物音をたてないよう、細心の注意をはらいながら。もちろん、たがいにひとことも口はきかない。
おまけにさらなる用心のため、真っ暗な廊下の左右の壁に設置された照明具のひとつひとつに火をいれてまわったので、歩調はさらに遅くなった。
周囲に気を気張りながら、ゆっくりゆっくり歩を進める。
自分の部屋の前をとおりすぎ、師匠の部屋の前にさしかかる。
そのとき、あたしはある異変に気づいて思わず立ちどまった。
「どうした、ミリアム?」
「師匠の部屋の扉がなくなってるんだけど……なんで?」
正確にいえば、扉はなくなっているのではなかった。蝶番が乱暴に破壊され、扉が部屋の内側にむかって倒れてこんでいた。そして、部屋前の廊下がひどく水浸しになっていた。不可解な現象だった。だれかが、もしくはなにかが、はじめから扉を壊す目的でおこなった所業のようにしか、あたしには思えなかった。
「気にしなくていいよ」
気まずそうに、エスティがいう。
「はずみで壊れただけだから」
「はずみで?」
「つまり……ミリアムがぼくを見て気絶したときのことだよ。部屋のなかからもの凄い音がしてたから、なかにはいってみようとしたら、いきなりバキッてね。いったろう、すこし力をこめなきゃ、ひらかなかったって」
「なんだ、そういうこと」
「小竜のしわざだとでも思った?」
「だって小竜って、ずいぶん力が強いんでしょう?」
「まあね。だけど身体のサイズからして扉をこんなふうに壊すような芸はできないさ。それより、レイチェルさんのところに急がないと、ミリアム」
エスティがあたしをうながす。
けれどあたしは、なにかとてつもなく重要なことを忘れている気がして、ためらった。
「ちょっとまって、エスティ。あたし、なにか忘れてる気がするの。ええと、なんだったかしら……昼間のことだったような気がするんだけど……」
「昼間?」
エスティもいっしょになって思いだそうとしてくれた。
「ああ、そうそう。すっかり忘れてたよ。ほら、チャンドラ師匠が昼間おいていった荷物」
「そう、それ!」
あたしは、ぽんと手を打った。師匠が大学の研究所からあずかってきたというあの大きな荷物。雷や幽霊のおかげで、いまのいままで完全に失念していた。
「あの荷物、丁重にあつかえって師匠はいってたんだけど、大丈夫かしら?」
「さあ」
エスティは肩をすくめて、
「さっき師匠の部屋の様子をのぞいたときは、とくに気にもとめなかったから。たしかめてみる?」
「ううん、そんな必要ないわ」
あたしは首をふった。師匠の荷物がどうなろうが知ったことではなかった。それより、レイチェルさんの身のほうがずっと心配だった。
「さ、いきましょ、エスティ」
といって、あたしがうながすと、
「ちょっとまって、ミリアム」
今度はエスティのほうがあたしをとめた。
「いま、ふと思ったんだけど」
「なに?」
「小竜がどこからはいりこんだかってこと」
以心伝心。
エスティがなにをいいたいのか、あたしにもすぐ理解できた。
あたしたちは師匠の部屋に飛びこんだ。
部屋の惨状をひとめ見たとたん、あたしは師匠の悲鳴をきいた。
もちろん、師匠が部屋のなかにいたわけじゃない。師匠はあたしの頭のなかにいた。ロスフェル研究所から帰ってきたら、きっと師匠は呆然自失になるだろう。しわがれたあごをかっくんと大びらきして立ちすくむ老人の姿が、目にうかぶ。あるいは師匠はそのまま、昏倒するかもしれない。
それほどまで、ひどいありさまだった。
当然、窓は大きく割れていた。ガラス片が、ほかのさまざまな小物や紙切れ、書物といっしょに床に散乱していた。もちろん、床といわず壁といわず天井といわず、室内は水浸し。そのなかに、おそらく窓を割った張本人と思われる太い木の枝が一本、落ちている。
窓にかかっていた四枚のカーテンは、二枚がレールからはずれ、うち一枚は室内の真ん中に、もう一枚は窓の反対側、扉のすぐそばに落ちていた。雨に濡れてくしゃくしゃになったそれは、まるで溺死体のように見える。ほかの二枚のカーテンも、かろうじてレールにひっかかっているといった案配だった。
扉側にあった本棚は倒れてはいなかったけれど、そこに整理されていた本の半分は床に落ち、のこりの半分も雨をかぶってだいなしになっている。
師匠が命より大切にしている蔵書の数々が……
左の壁には、鍵戸のついた棚がふたつ双子よろしく鎮座していたけれど、そのうちのひとつがみごとに倒れていた。その棚のなかには、師匠が人生の大半をかけて集めまくった魔導具のコレクションが多数陳列されていたんだけど──それらの半分以上が見るも無惨な状態になっていた。ほとんが歴史的価値の高い貴重なコレクションだった。修復可能ていどの損傷ですんだものがどれだけのこっているか考えると、さすがのあたしでもつくづく師匠が気の毒になってくる。金額的にも、ひどい損害になるはず。保険はかけてあったかしら?
もちろんこうした悲劇には、あたしにもエスティにもなにひとつ責任はない。糾弾すべきは例年にない規模で襲ってきた嵐。だいいち師匠は王国屈指の魔導士なんだから、対物結界なりなんなりを部屋に張って、防災措置をほどこしてからでかけることもできたはず。それを怠った師匠が不幸にして不用意だっただけ。
とはいえ、生涯一学徒をつづける老い先短い(?)老人に、このしうちはたしかにむごいかも……
それはともかく。
部屋の惨状は、あたしがざっと見渡したかぎりでは、なんとなく不自然なようにも思われた。窓から折れた木の枝が飛びこんで、強風が吹きこんだくらいで、ここまでひどい状態になるものなのか、あたしにはわからない。本棚にぴっちり押しこまれていた本が、はたしてそのくらいのことで床に落ちたりするものなのかしら? ましてや、重い棚が倒れるなんて……?
なんだか妙だ。
けれどもエスティは部屋の惨状には目もくれず、窓ぎわの物書き机にまっすぐむかっていった。
例のあずかり物は、机と、机の前で横倒れになっていた肘かけ椅子とのあいだに転がっていた。
椅子を足で蹴飛ばし横にどけ、エスティは荷物のそばにかがみこむ。
とたん、
「ミリアム、あたりだ」
と、彼はいった。
あたしはエスティに近づき、荷物を上からのぞきこんだ。
荷物をつつんでいた敷布はひき裂かれ、荷物の側面についている蓋は、内側から乱暴に破壊されている。
「檻ね」
「檻だ」
檻だった。
どこからどう見ても。
かなり頑丈そうな鉄製のケース。鶏くらいのものなら楽々おさまるくらいの大きさだった。錆だらけ。おまけに、開閉蓋についてる留め金は完全に壊れている。強い力で無理やりねじ曲げたような壊され方だった。
エスティは、檻の底側をランプの明かりで照らした。そこには、小広間のテーブルにあったのとおなじ爪跡が、くっきりのこっていた。
あたしは、乱暴にあつかってはいけないといった師匠の忠告の意味が、ようやく理解できた。
「つまるところ怪物は、このなかにはいってたってこと?」
「だね。ぼくがチャンドラ師匠からこいつをあずかったとき、やつは麻酔か呪文で眠らされてたんだと思う。あるいは夜行性だから、昼間は眠っていただけか。それで、目がさめたとたん、逃げだした。この檻、かなり年季がはいってる。錆だらけだし、おまけに溶接部がかなり腐蝕してる。それに肝心の蓋の金具がこんなにチャチじゃ、小竜をとじこめておくのはどだい無理だよ。だけど、そうなると……」
エスティがやおら顔をしかめたので、あたしは背筋がぞくっとなった。
「そうなると?」
「そうなると、そいつは手負いの可能性があるってこと。それに、腹もすかしてるにちがいない。あのコールドビーフていどじゃ、とうてい満腹できる量ではなかったはずだから。手負いでおまけに空腹となると、もともと獰猛なのが、輪をかけて獰猛になってる可能性が高い」
「──ったく、どこまで人に迷惑をかければ気がすむのかしら、あのご老体は!」
あたしは、もうすこしで癇癪をおこすところだった。一瞬でも師匠に同情した自分が腹だたしい。
あたしの怒りをよそに、エスティは黙って考えこんでいる。いつもは理知的で力強い彼の瞳が、えらく弱々しく見えた。
「腕……本当に大丈夫?」
つい心配になってあたしがたずねると、
「え? あ、うん。大丈夫」
エスティはどこかうわのそら。
「だけど、どうも腑に落ちない」
「なにが?」
「昼間のチャンドラ師匠の行動」
「そんなの、いまさらだと思うけど? 小竜なんて危険なものをあたしたちにあずけてったんだから、挙動不審であたりまえ」
「そうじゃなくてさ。荷物をあずけていったとき、師匠は中身をたしかめてはいけないといいのこしたんだろ? だけどそれって、おかしな話だよ。中身が危険物なら、ひとこと忠告していくのがふつうなのに。それに、亜種とはいえ分類学的には魔属の生物をこんな安易な檻にいれておくなんて、いくらなんでも非常識すぎるよ」
「師匠の非常識は半世紀も前からよ。それに、中身が魔属だったから、だれにもいえなかったとも考えられるわ。あと檻は安物でも、師匠なら封印結界をかけて頑丈な形質に変容させることもできるから」
「結界が仕掛けられていた痕跡とか、ある?」
「んー、なんとなく魔力の残滓みたいなのを感じる気はするけど……わたし、結界学はまだ坐学で習ってないし」
「なるほど……にしても、やっぱり敷布でケースをつつんだりまでして、わざわざ中身がわからないようにしてあったというのは、どうもね。だいたいそんな危険なものを大学からあずかってくる理由って、いったい……?」
「だから、師匠に一般的な常識をあてはめても無駄だってば。それにそんなこと、あたしにはどうでもいいことだし。そりゃあ、師匠には腹がたつけど、おかげで、安心材料ができたから」
「安心材料?」
「そ。やっぱり幽霊なんかいないって証拠がね。だって、啼き声の正体がはっきりしたんだもの」
「啼き声?」
「ええ。この部屋の窓が割れたときよ。あのときあたし、師匠の部屋から響いてくる物音をてっきり幽霊のしわざだと思いこんで、震えてたの。で、そのとき、物がぶつかりあう音にまざって、ギャアギャアギィギィっていう不気味な啼き声をきいたの。猛り狂った幽霊の笑い声みたいで、生きた心地もしなかったんだけど、あれって、小竜の啼き声だったんだ」
「ちょっとまってくれ、ミリアム。本当に、そんな啼き声をきいたの?」
「ええ、はじめは幻聴だとも思ったんだけど、そうじゃなくて、やっぱりその声ははっきりきこえたわ」
「だけど」
エスティは、疑うようなまなざしをあたしにむけた。
「だけど、そんなことは、ありえない」
「信じてくれないの? あれはたしかに現実だったわ。あのときはそりゃあ、あたし、すごく怯えていたわよ? でも、幻聴か、そうでないかくらいの区別はついたわ」
「だけどそれじゃあ、ますますわけがわからなくなるんだ」
「どういうこと?」
「じゃあきくけど、きみはトカゲの啼き声をきいたことがあるかい?」
「ないわ。だって、トカゲはふつう、啼いたりしな……」
あたしは口をつぐんだ。エスティのいわんとしていることが理解できたから。
「でも、そんな……?」
エスティは厳かにうなずいた。
「じつは、さっきからずっと頭のかたすみにひっかかっていたことがあるんだ。小広間であいつを叩き落としたとき……あいつはたしかに啼いたんだ。小竜はトカゲではないけれど、類似してる部分も多いんだ。だから、もしかしたらぼくのききまちがいかとも思っていたんだけど……」
「小竜って、啼かないの?」
「啼かない」
きっぱり、エスティはいった。
どうにもよくわからない。
小竜が啼かない生物なのなら、あたしが自分の部屋できいたあの不気味な啼き声はいったいなんだったんだろう?
やっぱり幽霊のものだった……なんてことは、考えたくない。
恐怖にはふたつの種類がある。
精神の部分で作用する恐怖と、身体の危機に起因する恐怖のふたつ。
あたしは前者──すなわち幽霊のような、非現実でえたいのしれないものには恐怖をおぼえないではいられない。あるいは雷のように、感覚に訴えてくるだけで実体をともなわないものにも、どうしても非理性的な恐ろしさを感じてしまう。
けれど、実体をともなう現実的なものには──それがどれだけ身体に危険をもたらす存在であっても──さほど恐ろしさは感じない。すくなくとも、やみくもにとり乱すような恐怖はおぼえない。
だから、あたしは小竜なんていう怪物が館を徘徊していると知っても、ヒステリックになることもなく、まだしもいくらか冷静でいられた。感じたのは恐怖ではなく、ただの危機感だったから。
なのにいま、実体をもっていたはずの怪物は、得体の知れない存在へと変貌してしまった!
あたしは、膝ががくがくしてくるのをおさえることができなかった。ソフィアの亡霊や騒々しい幽霊にとり憑かれていたときの恐怖が、まざまざと脳裏によみがえってくる。
もとよりこんな状況にあって平常な精神状態をたもっていられるのは、冒険者として過去にいろんな危険を経験し克服してきたエスティのような人間だけだろう。
意識が肉体から遊離して、現実が非現実のなかに埋もれていって、視界に映るものが、まるで磨ガラスをとおして見ているような感覚に陥って……
そのため、エスティが突然血相を変え、あたしにむかってなにごとか叫びだしたときも、あたしはなにも反応できなかった。
虚脱状態に陥っていたあたしは、エスティがなんていってるのかさっぱりききとれなかったし、それどころか、エスティがなぜ急にあわててだしたのか、その理由を考えてみようとさえ思わなかった。
「ミリアム、避けろ!」
エスティが手提げランプを投げ捨て、あたしにむかって突進してきたときになってようやく、我にかえることができた。
あたしは壁に押しつけられ、背中をいやというほど打ちのめされた。
刹那、黒い影がエスティの横をよぎり、同時に、うめき声がきこえた。
つぎの瞬間、床に落ちたランプの火が消え、部屋は真っ暗になった。
闇のなかに、赤く不気味に輝く眼がふたつ。
それは、壁を背にして立ちすくむあたしを、鋭く睨みつけてくる。
つづいて、ギャアギャアギィギィという甲高い啼き声が、響いてきた。
恐怖が二種類あるように、人間も二種類存在する。
すなわち突発的な身の危険にさらされたとき、沈着冷静でいられる者とそうでない者。それは、恐怖だとか臆病だとかいった感情とはまるで異なる次元の心理作用といえるかもしれない。
エスティはあきらかに前者で、あたしはあきらかに後者だった。
あたしの場合、感情が理性を凌駕した。だから赤く不気味に光る眼を前にして、立ちすくむ以外、なにもできなかった。
そいつが、はじめからこの部屋にいたのか、それともあたしたちがこの部屋にはいってきたあとで侵入してきたのかは、わからない。
はっきりしていたのは、そいつがいきなりあたし目がけて襲ってきたことと、それを間一髪、エスティがあたしを突き飛ばして救ってくれたということだけだった。
そいつは、なおもギィギィという金切り声を発していた。
部屋が真っ暗になってしまったためそいつの姿は見えず、ただ光る眼だけが、部屋のなかほどあたりで、警戒と殺意をみなぎらせながら、見あげるようにじいっとあたしを睨みつけてくる。
そいつからわずかでも視線をそらせば、たちまち襲ってきそうな気がして、あたしはまばたきひとつ、することができない。
どれくらい、そいつと眼を合わせていたのか……
一秒?
一分?
十分?
そいつは、あたしにもう一度襲いかかるべきかどうか、迷っている様子だった。
ううん、あたしがエサとして美味かどうか、迷っている風だった。
まるで、死に神と対峙しているような心境。
エスティはどこ?
あたしは立ちすくんだまま、懸命にエスティの気配を探った。
気配はあたしのすぐ前にあった。
エスティはひざまづいていた。というより、うずくまっているような感じだった。
そういやさっき、彼のうめき声をきいた気がする。もしかして、またどこか負傷して……と、不安にかられたやさき、エスティがゆっくりと腰をあげたのが、気配でわかった。
あたしをかばうように、エスティはあたしと怪物とのあいだに立ちはだかった。
そして、かすれるような声で、耳打ちしてきた。
「なんてこった、ミリアム。あいつ、ぼくの知ってるどんな小竜ともちがう」
「え?」
「ぼくは常人より夜目がきく。人狼の血をひいてるから。ぼくには、あいつの姿がはっきり見えているんだ。やつは……たしかに見た目は小竜だ。だけど、小竜そのものじゃない。なんなんだ、あいつは? いや、その話はあとだ。それより」
めずらしいことに、エスティはあからさまに動揺していた。
「くそっ! あいつ、いまにも襲いかかってきそうな剣幕をしてやがる。ミリアム、閃光の呪文は唱えられるかい?」
そうたずねられるまで、あたしは自分が魔導士であることすら忘れてた。
「呪文? え、あ、うん。もちろん。でも、閃光よりほかの攻撃呪文のほうが?」
「こんな部屋のなかで? 危険だよ」
エスティのいうとおりだった。
あたしはもっぱら、爆裂系や火炎系といった攻撃呪文を得意にしている。でもまだ見習いにすぎなくて、呪文の制御はそんなにうまくない。それがこんな逼迫した精神状態のなかで唱えれば、へたをしたら、火災をまねくか天井を壊すか床をぶちぬくかして、あたしたちの身まで危うくしてしまいかねない。
「冷気系なら、そんなに被害はでないわ」
「閃光でじゅうぶんだよ。やつがひるみさえすれば、あとはなんとかなる」
「武器はあるの?」
「素手でじゅうぶん。とりおさえて、首の骨を折ってやる。いいかい、ミリアム。ぼくが合図したら、呪文を放ってくれ」
「え、ええ……わかったわ」
こういうときの判断は、エスティにまかせるにかぎる。
あたしは懸命に心をおちつかせ、いつでも唱えられるよう、待機した。
エスティの身体がさえぎってあの不気味な眼は見えなくなっていたけれど、うなり声はまだ響いていた。
エスティは、静かに深呼吸をした。
あたしも息を殺し、合図を待つ。
暗闇のなか、エスティが静かに身を屈みこませ、いつでも敵に飛びかかっていける体勢をつくるのを、気配で感じとる。
緊張が、どんどん高まってくる。
なんどめかの深呼吸のあと、エスティは息を深く吸いこんだところで呼吸をとめた。
「いまだ、ミリアム!」
ぎゅっと目をとじ、あたしは両腕を前方に突きだし、閃光の呪文を唱えた。
閃光呪文は、光系の術の基本中の基本だ。
つかのま、あたしの両の手のひらから眩い光が発せられ──真っ白な残像が、目をとじていてさえ網膜に焼きつくほどの光が──部屋をつつみこんだ。
あたしは、頭がくらくらした。
呪文を唱えた本人が立ち眩みするなんて、やはりあたしはまだまだ未熟。ちょっとばかし制御に失敗して、必要以上に明るくさせすぎてしまったみたい。
エスティと怪物の戦いは、一瞬のうちに決着がついた。
荒々しく格闘する音が二度三度きこえ、さらに、
ギャイ!
という怪物の悲鳴がしたけれど、あたしがおそるおそる目をあけたときにはもう、静かになっていた。
あたしはエスティの姿を探した。だけどあたりは真っ暗なうえ、まだ目がちかちかしていたので、なかなか見つけることができなかった。
「エス……ティ? どこ?」
「大丈夫。ここにいる」
闇のなかからおちついた声がかえってきたので、あたしは胸をなでおろした。
「よかった。やっつけたのね?」
「いや」
苦りきった声。
「逃がした」
「え?」
「逃げられた」
悔しそうな声。
「やつは廊下に逃げていったよ。くそっ、もうすこしで首根っこをおさえられたところだったのに……あの敏捷さは、ちょっと異常すぎる。やっぱり、ただの小竜じゃない!」
それからいくらか気を鎮めた調子で、
「まあ、逃がしたのはしょうがない。ミリアム、きみの足もと、すこし右のところにランプがころがってる。火がつくか試してくれないか?」
あたしは手探りでランプを拾いあげ、ランプの下部についている、単純な機械じかけの発火装置をカチカチ鳴らした。何度か鳴らしているうちに、ランプの芯に火が灯った。
「よかった、壊れてないわ」
みるみる、室内が明るくなる。
部屋の中央にたたずむエスティを見たとたん、あたしは蒼然となった。
彼の右腕が、痛々しくだらりと垂れさがっていたのだ。
腕のつけ根あたりから上腕部のなかほどにかけて、ざっくりと斜めに斬り裂かれている。さっき小広間で負った傷と、おなじ場所だった。
ぼたぼたと血が流れだしている。その血は手首、さらには指先から床へとつたい落ち、雨に濡れた床に立つエスティの足もとを、真っ赤に染めあげていた。
「エ……エスティ、それ……?」
「え? ああ、これ? たいしたことはないよ」
穏やかにエスティはいう。けれどその顔は蒼白だった。
「冗談じゃないわ! 血がいっぱいでてる」
「そう見えるだけだよ。このていどの傷、止血さえすれば大丈夫」
エスティは、左腕の上着のすそを口にくわえ、ひき裂いた。
「また止血、頼めるかな」
あたしは、いわれたまま上着の切れ端をエスティの右肩にまわしていった。
ざっくりえぐられ血まみれになった肉が、傷口から盛りあがっていて、あたしは嘔気と眩暈をおぼえないではいられなかった。傷は、まちがいなく骨まで達している。ひどい怪我。いくら彼が人狼の強靱な肉体をもっているからといって、これが軽傷のはずがない!
あたしが服の切れ端を結んでいるあいだ、エスティはひたいに汗をにじませ、痛みをこらえるようにぎゅっと唇を噛みしめていた。男としての意地が、苦痛を表情にだすのをゆるさなかったんだと思う。
「この傷、あたしをかばおうとしたときに?」
「え? いや、まあ……」
「ごめんなさい。あたしがぼうっとしてたから……」
「気にしないで。それよりミリアムに怪我がなくて、ほっとしたよ。閃光呪文のタイミングもばっちりだった」
「それで、あいつ、結局なんだったの? 小竜ではないとかなんとか、いってたけど?」
「あとで説明するよ。いまはレイチェルさんのところに急ぐのが最優先だ。あいつをこのまま野放しにしておくわけにはいかないし、なにか方策をたてたほうがいい」
そういって歩きだしたエスティの足は、ふらついていた。
出血が多すぎる。