●──【8】小竜との邂逅
「エスティって、つくづく朴念仁だと思うわ」
あのおぞましい事件がおこるには、まだすこし猶予があった。
だから、エスティとふたりだけですごす時間もまだあった。
とはいえ、男女間の健全な友情関係からもうちょっとは進んだ間柄になるには絶好の機会だと思われたものの、結局のところ、あたしとエスティのあいだには、なにもなかった。
手をのばせばとどく距離にたがいの身体があったのに、内心期待していたような色っぽい話も、心奮える秘事もいっさいナシ。
あたしは自分が、女として魅力のない娘だとは思っていない。二、三年後が楽しみだという表現がたぶん適確といえるくらいの器量はあると思ってる。うぬぼれでもなんでもなくって、ふつう一六才ともなると、自分が男性にどんな印象をあたえるかくらいの推測はつくようになる。くわえてプロポーションには、それなりに自信があった。
なのにエスティといったら、ひいきめに見てもそこそこ魅力的な女の子が、こんなムードたっぷりの真夜中に無防備でまちかまえているというのに、手だしのひとつもしようとしない!
よほど自制心を働かせているのならともかく、ありていにいって、朴念仁相手に受け身でいても、期待したようなことはなにもおこらない。
ならあたしのほうから色仕掛けで迫ってみようかとも考えたものの、具体的にどうすればよいやらさっぱりわからず、断念した。もとよりそういうのはあたしらしくないし、へたにやっても誘惑どころか、道化芝居にしかなりそうもない。
で、結局あたしたちは、コーヒーをすすったり、果物を切りわけたり、お菓子をつまんだりしながら、とりとめなくお喋りに華を咲かせていただけだった。
大港湾都市サーリアでは毎日いろいろな事件がおきているので話題にはことかかなかったし、あたしやエスティの身のまわりのことだけでも、話のネタはいくらでもあった。
だからそれはそれでじゅうぶん楽しかったし、時間はどんどんすぎていった。
そうして、ふたりしてぺちゃくちゃやっているうちに、あたしはなにげなく冒頭の科白をのたまっていたわけだった。
「エスティって、つくづく朴念仁だわ」──いっかな手をだしてこない彼の、いかにも騎士的な態度をあてこするような口調で。
エスティはきょとんとなった。
「どういう意味? そんなに無口で愛想ないかな、ぼくって?」
「外面にかんしちゃ、とっても愛想はいいわよ、もちろん」
いくらか皮肉をこめて、あたしはこたえる。
「自分がすごい美形だってこと、エスティ、知ってる?」
「それは主観的な問題だよ。人間やエルフの基準から見ればそうかもしれないけど、人狼族の基準じゃ、ただ女々しいだけさ」
エスティらしいとぼけかた。彼はコーヒーをひとくちすすり、カップをテーブルにおいた。
「でもエスティがいま暮らしてるのは、人間の街よ」
「そりゃ、そうだけど。で、ぼくのなにが朴念仁だって?」
「内面がってこと。エスティってさ、この館におちつくまではさ、レスターさんといっしょに新大陸を冒険しまわってたんでしょ?」
「え? あ、うん、まあね」
彼は、あたしの質問の意図をつかみかねてる様子だった。
「七つのときレスターさんに拾ってもらって、それからずっとね。といっても、せいぜい新大陸の端っこの、そのまた端っこていどだけどね、まわったのは。新大陸はとにかく広すぎる」
「死に目に遭ったのも、一度や二度じゃないんでしょ?」
「平穏なことのほうがすくなかったよ。どこいくあてもないぶらり旅だったし、新大陸には物騒な地方も多かったしね。もとより観光目的じゃなかったし、父さんは好んで危険な地域に赴く癖があったから。ぼく自身の武者修行も兼ねてたし。傭兵のマネゴトをさせられたこともあれば、罠だらけの古代遺跡に潜ったり、深い森を何ヵ月もさまよったこともある。乗ってた船が時化に遭って、あわや遭難といった体験も、三度ほど」
「そんな波瀾万丈な人生をおくってきたのなら、女心を理解するなんて無理な注文よね」
「は?」
あたしは首をふり、さりげなく、
「あたしのことどう思う、エスティ?」
「どうって?」
「あたしのこと、好き?」
内心、どんなこたえがかえってくるかドキドキした。
「好きだよ」
一縷の躊躇もなく、エスティはいった。
「ホント?」
「だって、きらう理由がないじゃないか」
肩すかし。彼の返答は、『友達として好き』といっているのと同義語だ。表情にはださなかったけど、あたしが思いきり落胆したのは、いうまでもない。
「そんな理由で?」
「それじゃ、だめなのかい?」
「だめってことはないけど……」
「で、女心がどうだって?」
エスティは首をかしげる。本気でわからないらしい。
「なんでもない。いかにもエスティらしいこたえをありがと……ふぁ……」
いきなりあくびがでそうになって、あたしはあわてて口をおさえようとした。
けれど、
「あふぅ……」
手遅れだった。馬鹿みたいに大口をあけたところを、エスティに見られてしまった。恥ずかしい。どうやらコーヒーの効果より、夜食でおなかがふくれた効果のほうが大きかったらしい。
「眠いの、ミリアム?」
「すこし……」
「部屋にもどる? それとも、毛布でももってこようか?」
「ううん、このままでいい」
甘えるような声でいい、あたしはエスティの肩にもたれかかった。さりげなく、それなりにふくよかな──と、自分では思っている──胸をエスティの腕に密着させる。ちょっと大胆な気もしたけれど、本当に眠かった。
それに、たとえエスティがあたしを友人としか見ていなくても、あたしは、あたしなりの意志表示をすればいい。そうした努力が、いつか彼にあたしの気持ちがつうじることもあると信じて。さすがに、いまはまだあたしのほうから彼に告白する勇気はない。
朴念仁は、とくに気にする様子もなく、あたしの身体を受けとめてくれた。そのさい、すこしはにかむような顔をしたのは、あたしの目の錯覚?
外ではあいかわらず雷がとち狂っていたけれど、いまはもう、あまり気にならなかった。
「う……ん……」
しばらくして、あたしは深い眠りに落ちていった。
エスティの肩に抱かれ、彼の心臓の鼓動を感じながら。
目が覚めればきっと、さわやかな朝がまっていることだろう……
ガタッ!
ガタタッ!
ガッシャン!
甘かった。
心地よい眠りにいざなわれたと思ったやさきにかぎって、今夜はかならず邪魔がはいる。
ただし今度は、やるせない感情はこみあげてこなかった。
あたしが寝ぼけて、それかエスティがなにかのはずみで、テーブルの上にあったお皿やらなにやらを蹴ってしまっただけだと、なんとなく思った。
じつはその音こそが、あのおぞましい出来事の真のはじまりだったのだけれど、そんなこと、寝ぼけまなこのあたしにわかるはずもない。
それより焦ったのは、どれくらい眠っていたのかはわからないけれど、あたしがエスティにひざ枕してもらっていたことだった。
……ふつう、立場、逆でない?
窓の外は、どうやら嵐が小ぶりになったみたいで、かなり静かになっていた。
うれしいことに、雷はもう鳴ってない。
エスティのひざはごつごつしていたけれど、そこからおきあがろうという気力はわいてこなかった。かなうことなら永遠にこのままでいたいとさえ思ってしまう。あたしは眠い目をこすり、わずかに首を傾けてエスティの顔を見あげた。
エスティは両腕を組み、なにやらむずかしい顔をして、ある一点を凝視していた。
「いまの、なんの音?」
「しっ! 静かに……」
緊張をにじませ、エスティがいう。
「え?」
なにやら黒い影が、あたしの視野のかたすみを横切った。
同時に、エスティが右腕をふり、その影を叩き落とした。
ギャン!
影が悲鳴をあげた。
ゴム鞠のようにバウンドし、逃げるように、廊下側の、半びらきになった扉のむこうに消えていく。
ごく一瞬、あたしの瞳に映ったその影は、鳥のようにもトカゲのようにも見えた。奇妙な生き物だった。
「な、なに、いまの……?」
あたしはエスティのひざから半身をおこし、怪訝に彼の顔をうかがった。
彼の視線は、すぐ正面のテーブルの上にそそがれていた。
そこでは、なんともいえない奇妙なことがおこっていた。
テーブルの上にあったコーヒーカップが床に落ち、果物籠がひっくりかえり、果物類が一面に散乱していた。果物のいくつかは、テーブルの上でなく、絨毯敷きの床にまで散らばっていた。まるで、だれかが意図的に散らかしたような感じだった。
そのうえ、そうした果物のまわりに水がたまって、びしょびしょになっている。
「なに、これ? いったい、なにがあったの?」
「小竜がいた」
エスティは眉間にしわをよせた。そういう表情は、せっかくの美麗な顔を醜くするので、あたしは好きじゃない。よく見ると、彼の顔にいくつもの汗がうかんでいる。
「小竜?」
「魔属亜種に分類される、小型竜族の総称だよ。ドラゴン亜種エルギルプス科レント属」
声に緊張をにじませ、エスティはいう。
「成体でもせいぜい、鶏ていどの大きさにしかならない亜竜で、俗称は竜モドキ。ぼくが見たこともないタイプだったけど、まちがいなく、小竜の一種だった」
エスティは立ちあがり、テーブルにころがっているリンゴをひとつ、とりあげた。じっとリンゴを見つめて、押し黙る。かなり動揺している様子だった。
「魔属ってことは……凶暴なの?」
「洒落にならないくらい」
エスティは首をふり、リンゴをあたしに手渡してきた。
それを見たとたん、あたしはなんとも形容しがたい嫌な気分になった。
リンゴの一部が、不気味に喰い千切られていた。無造作に咬み斬られているというべきか。鋭くとがった歯型がつき、薄透明の気色の悪い粘液がべっとりと付着していた。
「新大陸で何度か襲われたことがあるから、よく知ってるんだ。硬い鱗に、鋭い牙と爪のもちぬしで、おまけにはしっこい。幽霊なんかよりよっぽど性が悪い」
「いつから……いたの?」
「ミリアムが眠りはじめてすぐだよ。廊下側の扉からはいってきた。食べ物の匂いにつられてきたんだと思う。動くものに容赦なく襲いかかる習性をもってるから、ぼくもうかつには動けなくて……だから寝たふりをしながらずっと挙動を見てたんだけど、あいつ、さんざんテーブルの上を荒らしまわってやがった……」
そのときになってあたしはようやく、彼が腕に怪我を負っていることに気づいた。
右上腕部、上着の右そでがひき破られていて、血がにじんでいる。
「エスティ、その怪我……?」
「ん? ああ、たいしたことないよ。さっき叩き落としたとき、あいつの爪がちょっとばかしひっかかっただけだから」
そのわりには、傷口はずいぶん深くえぐられている。
「大丈夫なの?」
「この手の怪我には慣れてるよ」
「慣れてるって……」
そういう問題?
「でも、止血くらいはしたほうがよさそうだ」
エスティは無惨に破けた右そでをびりびりとひきちぎった。
「ミリアム、頼めるかな?」
あたしはリンゴをエスティにかえし、かわりに右そでの切れ端を受けとった。彼の右腕のつけ根にぐるっとまわし、ぎゅっと結ぶ。
「ね、エスティ。ひとつ、きいていい?」
「なに?」
「小竜って、肉食? 草食?」
「雑食。だけど、もっぱら肉類を好む」
エスティは左手でリンゴを握り潰した。
「おまけに、夜行性」
この小広間には、出入り可能な扉がふたつある。
ひとつはとなりの書庫につうじていて、もうひとつは廊下につうじている。
後者の扉は、たてつけのせいで半びらき状態だった。小竜はそこからこの部屋に忍びこんできて、おなじ扉からでていった。
あたしはあらためて、そのちいさな怪物が部屋にのこしていった痕跡を見渡した。
散乱していたオレンジのひとつにも、リンゴと同じ歯型が生々しくついていた。食べのこしたままだったサンドイッチにはさまれていたはずのコールドビーフが跡形もなくなっていて、気味の悪い粘液を付着させたパンかすが、テーブルや床に散らばっていた。
なにより不気味だったのは、ひっ掻いたような爪跡がいくつもテーブルにのこっていることだった。オーク材でできたテーブルの表面が薄く鋭くえぐられ、ぎこちなく歪んだ三本の線が描かれていた。
堅いテーブルを易々傷つけ、ちょっとばかしかすっただけでエスティの腕を切り裂く、さながら刃のような爪。そんな爪をそなえた怪物が、いま現在もこの館のどこかを徘徊している……
その事実は、あたしの胸中に不穏な感情を喚起するにじゅうぶんすぎた。ただしそれは、レイチェルさんから幽霊話をきかされたときにおぼえた、感情に訴えるような、あの衝動的な恐怖とはちがっていた。
もっと理性的な恐怖だった。
幽霊のような非現実的なものでなく、不可避な現実に起因した恐怖。恐怖というより、危機感というべきかもしれない。それだけにあたしは冷静でいられたけれど、そのぶん、冷たい戦慄がじわじわ全身に這いまわってくるのを抑えるのはむずかしかった。
それにしても、いったいなんて夜なんだろう!
雷が去って、ソフィアの幽霊も気にならなくなって安心したと思ったら、今度は幽霊よりも恐ろしい怪物が現れるなんて。
今夜はきっと、呪われているにちがいない。
「さて」
むずかしい顔をして、エスティがつぶやいた。
「これからどうしたもんかな」
「あそこの扉さえきちっとしめておけば、とりあえず安全じゃないの?」
あたしは廊下側の扉を指さした。
「小竜はこの部屋の外に逃げてったんだから」
「え?」
エスティは、不意をつかれたような反応をした。
「ああ、そうだね。思いつかなかった。ちょっと、べつのことを考えてたものだから」
「べつのこと?」
「小竜がどこからこの館にはいりこんだかってこと」
そういいながら、エスティはあたしが指さした扉に歩みより、怪我をしてないほうの腕でぐっと力をこめて扉を押した。たてつけの悪い扉は、甲高い不協和音を奏でて重々しくとじる。
「どこからって……館の外からじゃないの?」
「うん。テーブルが濡れているのはそのせいだと思う。一応補強はしたといっても、小動物がはいりこんでくるすきまくらい、この旧館にはいくらでもありそうだからね。でもそいつは、どこからやってきたんだろう?」
「いってる意味、よくわかんないんだけど?」
「小竜は、この聖フェンウィック王国には棲息してないよ」
「それが?」
「つまりだれかが大陸からもちこんだりしないかぎり、存在するはずがないんだ」
「でもサーリアじゃ、大陸産のめずらしい動物なんかもけっこう取引されてるわよ。それがたまたま逃げだしたとか」
「魔属亜種は取引できないよ。虎や熊を飼い慣らすのとは、わけがちがうから。そんなことしたら、法的にも重罪行為だし……」
そこまでいって、エスティは突然言葉をつまらせた。はっとなって顔をあげ、恐怖に憑かれたようにかっと目を見ひらいた。
「しまった! それどころじゃない! ミリアム、大事なことを忘れてた!」
「大事なこと?」
あたしは目をぱちくりさせた。
「あいつは、ここから逃げていったんだ!」
「うん、それが?」
「だから、ここにいればぼくたちは安全だ。だけど……」
「だけど?」
「レイチェルさんはそうじゃない!」