●──【7】幽霊の、正体みたり……
旧館二階の、だいたいあたしの部屋とエスティの部屋の中間あたりに、居候たちがふだん談話室兼遊戯室として使用している小広間がある。部屋のまんなかには撞球台がおいてあって、右奥の壁にはダーツの的がかけられている。
どれくらい気を失っていたんだろう……?
光をとりもどしたとき、あたしの目には最初、その小広間のすすけた灰色の天井が映った。あたしは、部屋の右壁に寄せて据えられた三人がけの長ソファに横たえられていた。
「う、ん……?」
師匠の部屋の前で幽霊を見て気絶したはずの自分がどうしてこんなところにいるのかわからなくて、あたしは不安になった。おびえるように半身をおきあがらせ、周囲を見まわす。
暖炉に火が灯り、赤々と燃えている。その暖炉の炎がゆらゆらと、やけに威勢よくゆらめいているのは、廊下につうじる扉がわずかにひらいているせい。廊下とこの部屋の温度差のせいで、微妙に風の流れができているんだろう。
老朽化が甚だしいこの旧館には、たてつけが悪くて半びらきのままにされた扉がいくつもある。しめられないことはないんだけれど、そうすると今度はあけるときにいらぬ苦労を強いられる、そんな扉が。
テーブルをはさんだ正面のソファにエスティが座って、心配そうにあたしを見ていた。
「よかった、気がついた。いきなり目の前で倒れられたときは驚いたよ。いったい、なにがあったんだい?」
エスティの姿を見て、彼の声をきいて、あたしはようやくすこしだけほっとできた。あたしをじっと見つめてくる彼の海色の瞳が、なんとも暖かく、心地いい。幽霊を目撃した直後なだけに、彼の存在がとてつもなく頼もしく思えた。
「なにが…って……幽霊を見たの」
「幽霊を? まさか」
エスティは困ったように顔をしかめる。
「本当よ! 青白い女の顔だったわ……」
訴えるような目で、あたしはエスティを見つめかえす。全身に寒気が這いまわっていて、恐怖でいてもたってもいられず、頭のなかはまだどこかけだるく痺れていた。
「いきなり、師匠の部屋から大きな騒音がしたの」
「うん、それで?」
「それで、なにがおきてるのかたしかめようとして部屋の前までいったの……そしたら、廊下のむこうからぼうっと、白い女の顔がうかびあがって、あたしに近づいてきて……」
「ちょっとまって、ミリアム」
エスティはあたしの言葉をさえぎり、バツの悪そうな表情をした。
「もしかしてその幽霊、ぼくの部屋のほうからやってこなかった?」
「え?」
あたしは戸惑う。
「ええと……そういえば、エスティの部屋の方向からだったと思う……」
「あ、やっぱり」
いきなり、エスティは両手の平をあわせ、あたしにむかって平伏してきた。
「ごめん! たぶん、その幽霊はぼくだ」
「え?」
最初は意味がわからなかった。
それから唐突に、わかってしまった。
じゅうぶんありうることだった。
そう、そこいらにいる女より、エスティはずっとずっと美人さんだから。
暗がりで、女性と見まちがえることだって……
「ぼくも物音をきいたんだ」
いいわけするように、エスティはいう。
「てっきりミリアムの部屋からだと思って、それであわてて駆けつけたら、師匠の部屋の前にきみがいた。で、声をかけようとしたとたん、いきなり倒れてしまったもんだから、ずいぶん焦ったよ」
「じゃ、あたし、あなたの顔見て気絶したの?」
「のようだね」
「そんな……」
ぼっと、あたしの顔から火が吹きだした。恥ずかしいやら気まずいやら……穴があったらはいりたいというのは、たぶんこういう心境をいうのかも。
「ホントにごめん。驚かすつもりなんかなかったんだけど……」
エスティはなおも、神妙な声で謝ってくれる。
それがかえって、あたしにはもうしわけなかった。
「いいの。あたしが臆病だっただけだから……。あ、でも、それじゃ、師匠の部屋のあの物音はいったいなんだったの?」
「ああ、あれ? あれはただ、部屋の窓が割れて、風と雨が勢いよくなかに吹きこんでいただけさ」
「窓が割れて?」
「うん。折れた木の枝かなにかが、飛びこんだみたいだった。やれやれ、せっかく窓枠を補強したってのに、窓ガラスが割られることまでは責任もてないよ」
「でも、でも、あたしが扉をあけようとしても、ぜんぜんあかなかったわ」
「風がすごい勢いで吹きこんでいたからね。それが扉を圧えつけていたんだ。おまけにその風が、部屋のなかにあったガラクタを扉ほうへ押し流して、おかしな具合に突っかかっていたみたいだったし。ぼくでさえすこし力をこめなきゃ、ひらかなかったくらいだから。とても室内にはいれるような状態じゃなかったよ」
あたしは拍子抜けした。きいてみれば、なんということもない。そんなことを、あたしは亡霊の仕業だと勘ちがいして、おののいていたなんて。
「そんなにひどい状態だったの?」
「まあね。ちらっと室内をのぞいただけだけど、風がぐるぐる渦をまいててさ、部屋にあった細々したものが、あっちこっち飛びまわってた。師匠が帰ってきたらどんな顔をするか、想像してごらん」
想像してみた。師匠は、長年かけてコレクションした魔導書や魔導具にかなり執着している。滅多なことでは動揺することのない師匠が、部屋を見て唖然となる姿は、きっと見ものだろう。とたん、笑いがこみあげてきた。
「うふふ、そうね。愉快だわ」
「愉快だろ?」
あたしは長いこと、エスティといっしょに笑っていた。はじめはぎこちない笑いだったけれど、全身にゆったりとした安堵がひろがってくるにつれ、心の底からこみあげてきた。そうよ、幽霊なんていやしない。たとえいたとしても、エスティがそばにいてくれたら、怖くなんかない。そうした安心感が、あたしに心からの笑いをもたらしてくれた。
「あたし、馬鹿みたいだわ」
安堵の涙をぬぐいながら、あたしはいう。
「なにが?」
「だって、あなたの顔見て幽霊だと勘ちがいするし、師匠の部屋の騒音をきいたときなんか、てっきり騒々しい幽霊のしわざだと思って、生きた心地もしなかったのよ」
「世間によくある怪談話なんてのも、じっさいのところ客観的に判断してみれば、ほとんどが無害な笑い話でしかないんだけどね。怖いのは人間の想像力。なんでもないことを、とんでもなく恐ろしいことのように思いこませてしまう。あげく、いたいけな女の子を気絶させてしまう」
「あたしが、いたいけ?」
「べつに、きみのことだとはいってないけど?」
「あ、ひどい」
あたしは膨れた。
「でもそのいいかただと、まるでエスティは幽霊の存在を否定してるみたいね」
「そうはいってないよ。だけどすくなくとも、レイチェルさんのいっていたような幽霊がこの館に存在してないのはたしかだから。あれはまちがいなく、レイチェルさんがその場ででっちあげた話だもの」
「確証があるの?」
「確証ってほどじゃないけど、矛盾がひとつ」
「矛盾?」
「そう」
「教えて」
「レイチェルさんの話をよく思いだして、自分で考えてごらん、ミリアム」
「いじわる」
「いったろ、客観的に判断できるようになれば、怪談なんてちっとも怖くなくなるものだって。訓練だと思えばいいんだ」
「怪談に強くなる訓練なんて、したくない」
「あはは。それはそうと、これからどうする? 部屋にもどってもうひと眠りする?」
「ううん」
あたしは首をふった。
「眠気なんか、とっくになくなっちゃった。それにとなりの部屋がそんな状態じゃ、どのみちうるさくて眠れやしない」
「そうだね。じつはぼくもなんだ。嵐の音がうるさくて、結局、自分の部屋にもどってもぜんぜん寝つけなかったんだ。いまも目が冴えてしまって、ぜんぜん眠たくない」
「ふうん。嵐の音なんか、気にしてないとばかり思っていたけど。エスティったら、雷がいくら鳴ってもまるで動じる様子がなかったもの。夕食のときなんか、いまいましいくらいだったわ」
「夕食のときは無視してただけだよ。ひと一倍大きな耳をしてるおかげで、いざ眠ろうととすると、ちいさな音でもけっこう響くんだ」
「徹夜するなら、ひとりよりはふたりのほうがずっと楽しいわよね?」
「うん。じゃ、きまりだね。となると、夜食がほしいな」
「それに、あたたかい飲み物も」
そんなわけであたしたちはいったん、旧館一階にある厨房に移動した。夕食はレイチェルさんといっしょに新館で食べるのが慣習になっているけど、朝食や昼食はふだん自前なので、夜食になりそうな食べ物は厨房にいけばいくらでも用意できる。
あたしたちはコーヒーを沸かして水さしにそそいだ。ピクルスとコールドビーフでサンドイッチをつくった。それから、ビスケットやクッキーをお皿に盛りあわせた。だれが買いそろえてくれていたのか、リンゴやオレンジ、ナシ、白桃といった果物がバスケットにはいっているのを発見したときはうれしかった。魔導科学の発達のおかげで、最近は季節の果物が年中食べられるようになったのはありがたいことだと思う。
あたしたちは用意した夜食を小広間に運びこむと、部屋内の明かりという明かり──燭台やランプ──に火を灯しまわった。
長ソファの端に腰をおろしたエスティのとなりにあたしが座っても、彼はなにもいわなかった。
さっき一度緊張の糸を切ってしまったせいか、あたしはもう、嵐も幽霊も怖くなくなっていた。あたしは世間一般の倫理観を植えつけられて育った健全なる乙女だったから、夜更かしするという考えにはどこか罪悪感がつきまとう。けれどこんなひどい嵐の晩ならゆるされるという思いもあった。
なにより、エスティとふたりきりの夜をすごせるなんて夢みたい。
エスティもなんとなくそんな気分になってるみたいで、もしかしたらロマンチックな雰囲気が期待できるかもしれない。そう思うと、自然あたしの胸の鼓動は高鳴ってくる。こういう状況になってみると、いまいましい嵐に対してさえも思わず感謝したくなってくる……とはいえ結論からいうと、あたしたちは夜更かしなどせず、部屋にもどってさっさと寝てしまうべきだった。
そうすればあたしもエスティも、ある意味で幽霊よりも恐ろしい、あのおぞましい出来事を体験することもなく、さわやかな朝を迎えられたかもしれない。