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●──【6】眠れないの、そばにいて

 食事が終わると、あたしとエスティは汚れた食器類をもって炊事場にむかった。

 あとかたづけのような仕事は、本来ならモーリーの仕事なのだけど、彼女がいない以上、まさかいつもお世話になってるレイチェルさんに食器洗いなんてさせるわけにもいかないからには、当然、あたしたちの仕事になる。

 ぬくぬくした食堂とちがって、炊事場は寒かった。

 どこからか吹きぬけてくるすきま風に、低い天井からぶらさがったランプがぶらりぶらりとゆれ動いて、なんとなく不気味。おまけに芯が燃えつきかけているのか、ランプの灯は大きさも色合いもたよりなく、周辺をほのかに照らしているだけだった。

 外では、あいかわらず凶悪な風雨が暴れ、雷がひっきりなしに、どこか──思うに、館からそんな遠くない場所──に、落ちまくっていた。炊事場の高窓から白く鋭い閃光が度々飛びこんでくるたび、あたしの胸中はひどくかき乱された。

 エスティが汲み置きの井戸水を大鍋にそそぐと、あたしは呪文を使って熱湯にした。ふたりしてそのなかに、汚れた食器を順次放りこんでいく。そしてしばらくぐつぐつ煮沸してから、呪文をつかって温度調整し、ぬるま湯にした。

 あたしがした仕事は、ほとんどそれだけだった。食器を洗剤で洗ったり、タオルでふいたり、水切り用のバスケットに整然としまうといった仕事はすべて、エスティがやってくれた。

 もとより、嵐や幽霊のことが気になってなにも手につかない状態にある人間に、いったいなにができるものやら。

 そんな状態で食器を洗おうとしても、雷鳴が轟くたび、落っことして割ってしまうのが関の山。そう、あたしがなにもしないほうが、食器のためだった。それだけは、自信をもって断言できる。あたしの顔色は、きっと見るも無残なほど青ざめていたにちがいない。たぶん、幽霊以上に……

 嵐の夜、薄暗い密室──といっても、しょせんムードもへったくれもない炊事場だけど──で、好きな男の子といっしょにいるというのは、小説やなんかではとってもロマンチックな雰囲気かもしれない。けれどあたしはとうてい、はしゃいだり心ときめかしたり胸を熱くする心境にはなれなかった。

 近年にない大嵐は、いまいましいことに、幽霊に対するあたしの恐怖を確実に煽ってくれる。これまでなにげなく暮らしていた館がじつは幽霊屋敷だったと教えられ、平然としていられるほどあたしの神経はず太くなかった。

 もっともたとえあたしに、ロマンティックな雰囲気を期待するだけの余裕があったとしても、容姿はともかく性格的にロマンとかムードといった言葉と無縁のエスティが相手では、見こみ薄だったろう。

 そのエスティといえば、あたしのかたわらで楽しそうに食器を磨いているだけ。それどころか朴念仁は、いまにも鼻歌を歌いだしそうな様子だった。あたしには信じられないことだけど、レイチェルさんの話がよほどおもしろかったらしい。

 食器洗いをしているあいだ──正確にいえばエスティが洗って、あたしはそれを馬鹿みたいに眺めているあいだ──エスティはときおり機嫌よくあたしに話しかけてきてくれた。けれどなにを話したか、ほとんどおぼえていない。たぶん、世間のうわさ話だとか、そんなくだらないことをつらつら喋くっていただけなんだろう。

 おぼえていることといえば、話しかけられるたび、「ええ」とか「そうね」とか「あはは」とか「うん」とか、そんな実のない相槌をかえしていたことと、それと、エスティがなにかひとことつぶやいたあと、急に手を休めてじっとあたしを見つめてきたことだけだった。

 そう、それだけははっきりおぼえてる……

 そのときあたしを見つめるハーフウルフの海色の瞳は、毅然としていて、それでいて優しく輝いていたから。いつものあたしだったら、もしそんな瞳で見つめられたら、かえって頭がぼうっとなっていたにちがいない。でもこのときばかりは不思議なことに、その爽快なまなざしのおかげで、あたしは我にかえることができた。

「え、なに? なにかいった、エスティ?」

 意味もなくうろたえながらあたしがきくと、エスティは穏やかにかぶりをふって、

「いいや。ただ、きみがそんなに嵐がきらいだったとは、知らなかったものだから」

 蕩けるように、にこっと笑う。

 あたしはなんとなく恥ずかしくなって、うつむいてしまった。それから、上目遣いにちらっとエスティの顔色をうかがい、か細い声できいた。

「……軽蔑する? それとも、あきれる?」

「どうして?」

「だって……」

「女の子が嵐を怖がるのは、べつにおかしなことじゃないよ。そりゃ、いつもの気が強いミリアムとくらべてみれば、ちょっとは意外な気はするけどね」

「気の強い女の子はきらい?」

 エスティは肩をすくめ、返答をはぐらかす。こういうとぼけ方が、いつもあたしをやきもきさせる。でもそのかわり、彼はこういってくれた。

「ミリアムの新しい一面を発見したみたいで、なんだか新鮮な感じがするよ。しおらしいというか、かわいいというか」

「ホント?」

 恐怖に占領されていたあたしの心に、ひとすじの快い風が吹きぬけていく。単純な女だ、あたしは。

 エスティは小気味よく愉悦して、

「本当だよ。今日のミリアムはかわいい」

「あ、ありがと。うれしい……」

 あたしは頬を赤らめた。長い赤毛に細面の大人びた顔立ち──あたしは自分の容姿に自信がないわけではなかったけれど、こうしてエスティに面とむかってかわいいといってもらったのははじめてのことで、それだけで天にも昇る気持ちになれた──と、つぎの瞬間、あることに気づき、わざとらしくすねたそぶりを装った。

「あら、でもそのいいかただと、まるでふだんのあたしはかわいくないみたい」

「え?」

 エスティは一瞬たじろいで、

「そ、そんなことはないよ」

 なぜどもる?

「うん、きみはいつだってかわいいとも、ミリアム。そうとも、ちょっと皮肉屋なところなんか、ぼくはけっこう気にいってるよ」

「皮肉屋?」

「そう。もしかして、自覚してない?」

 エスティは愛嬌たっぷりに片目をつむり、あたしを見つめてくる。

「う…それは……」  

 あたしは反論できなかった。だって……うん、まあ、皮肉屋だってこと、あたしもそれなりに自認しているから。それでときどき自己嫌悪に陥ることもあったりするほどで……あたしは話題をごまかすべく、大鍋から食器を一枚とりあげた。

「そ、それよりはやくかたづけちゃいましょうよ、エスティ。レイチェルさんが首を長くしてまってるわ」

「そうだね」

 笑いながら、エスティもお皿を一枚とりあげた。


 食器のあとかたづけが終わって、新館の居間のほうへいくと、レイチェルさんがカードやチェスを用意してあたしたちをまちかまえていた。

 ソフィールズ館の居候はときおり、だれかが女侯爵のちょっとした娯楽につきあう義務がある。チェスの負けがこんでいるエスティは当然のこと、幽霊屋敷にもどる勇気のなかったあたしも、喜んでレイチェルさんにつきあった。

 ポーカー、ブリッジ、絵合わせ、ゴールドスター……と、ひととおりのゲームをしたけれど、どれもあたしのひとり負けだった。あたしは勝負運は強いほうだから、いつもならたいてい勝つし、負けるときだって大負けだけは絶対しない。だけど今夜は、とにかくゲームに集中することができずに負けてしまった。

 あたしに大勝ちできたレイチェルさんは、快哉といわんばかりのご満悦顔。エスティはそこそこの勝ちをおさめただけ。なにかを賭けていたわけではないから、負けたからどうだというわけではなかったんだけれど、それでも……ちょっと悔しい。

 チェスのほうは、あたしは辞退した。もともと複雑な思考力を要する作業が苦手なあたしは、ふだんでもカモになっている。それがいまのような精神状態で勝負したところで、勝負になるはずもなかった。あたしはエスティとレイチェルさんの知略を駆使した攻防戦を、ただ黙って眺めていただけだった。

 嵐はいっこうにおさまる気配もなく、雨が居間の窓を激しく打ちつけていた。

 雷も、あいかわらず閃き、轟いている。

 勝負はけっこうはやいペースで進み、エスティがもう一歩のところで勝ちを逃したときには、まもなく日づけが変わろうとしていた。そのころには、あたしはひどく眠たくなっていた。なのに、

「驚いたな、もうこんな時間だ。それじゃ、そろそろおいとまします、レイチェルさん。ミリアム、きみはどうする?」

 といって、エスティがあくびをしながら立ちあがったとたん、あたしはかえってぱあっと目が冴えてしまった。

 もちろん、いつまでも新館にお邪魔しているわけにいかないことくらい、覚悟はしていた。けれど、いざその時間がきてみると、やっぱり勇気がでてこない。

 幽霊がでるかもしれない旧館にもどるなんて、考えただけでもいやすぎる!

 ……でも、やむをえない。

 あたしはなるべく平静を装ってエスティにむかってうなずき、レイチェルさんに会釈した。

 なのにレイチェルさんは、

「今夜は旧館はあなたたちふたりしかいないわけだけど、だからといって、いい、エスティ? ミリアムにおかしなことをしちゃだめよ」

 冗談声で、そんなことをいうしまつ。

 するとエスティは苦笑して、

「しませんよ、そんなこと。命が惜しいですから」

 むぅ、たとえ冗談でも、失礼ないい草。あたしも、なにかひとこといいかえすべきだったのかもしれない。本音をいえば、エスティがおかしなことをしてくれたら、それこそ望むところなんだけど──でも、そんなことを考える余裕すら、そのときのあたしにはなかった。

 おそらくエスティは、自分の軽口にあたしがつっこんでくれるのを期待したんだと思う。けれどそれがなかったので、彼はバツが悪そうに、あたしをうながすしかなかった。

「じゃ、いこう、ミリアム」

 あたしはエスティにくっついてとぼとぼと居間を退室した。

 新館と旧館をつなぐ渡り通路をとおるときなど、足が鉛のように重かった。

 石造りの威圧的な通路は真っ暗で、エスティが片手にもってる手提げランプが、かろうじてあたしたちのまわりを照らしているだけ。嵐の騒音とあいまって、なんだかおどろおどろしい。たしかに亡霊がでてもけっしておかしくはない雰囲気がある。

 それでも、これ以上意気地のない女だとエスティに思われたくなかったあたしは、必死に気力をふりしぼって歩きつづけた。

 エスティの部屋は旧館二階の廊下の一番端にあったので、渡り通路の終わりから階段をのぼって進んでいくと、あたしの部屋のほうにさきに着く。

 あたしの部屋の前までくると、エスティはいったん立ちどまり、

「おやすみ、ミリアム」

 といってあたしの肩をポンと叩き、自分の部屋にむかってふたたび歩きだした。

 その瞬間、あたしの気力は微塵に消失してしまった。

「まって!」

 つかのまためらってから、あたしはエスティの左腕に思いきりしがみついた。

 たとえはしたない女と思われようが、それでも、あたしはひたすら怖かった。

 独りになるのが、恐ろしく──恐ろしかった。

「まって、お願い、エスティ……あたし、あたしね、あたし……今夜、ひとりじゃ眠れそうにないの……だから、ずっといっしょにいて、お願い!」


「……えーと、あの、その、あ、あはは……やっぱ、それはマズイって、ミリアム……」

 さすがのエスティも、こればっかりは本気でうろたえた。

 いや、もちろん、あたしが言い方をまちがっただけで、そんな気があったわけじゃない。

 でもエスティは完全に誤解した。

 そして、気が完全に動転していたあたしは、彼が誤解したことには気づかず、ただ瞳をうるうるさせて彼を見つめつづけただけだった。

「え……っと、あの、その、ミリアム」

 エスティはひたすら口ごもって、

「さ、さっきの言葉を気にしてるんなら、あれはただの冗談だからさ」

「さっきの言葉?」

「あ、いや、ほら、だからさ、レイチェルさんがいっただろ? つまり、その……」

「ちがうの、エスティ」

 訴えるように、あたしは瞳をさらに潤ませる。

「あたし、怖いの。だから、だれかがそばにいてほしいだけなの!」 

「こ、怖いって……ただの嵐だよ、ミリアム。毛布を頭からかぶって目をつぶってしまえば、すぐ朝になってるよ」

「そうじゃないの! 嵐だけなら、あたしだってこんなに怖くはないわ。そりゃ、雷は恐ろしいけど、我慢できないほどじゃない! 本当に怖いのは幽霊なの。ソフィアさんの幽霊なの!」

 エスティはしばらく無言だった。手提げランプの明かりだけが灯る薄暗がりのなか、エスティは本当に、本当に、困りきった表情をしている。

 あたしは馬鹿だ、彼をこんなに困らせるなんて。でも……

 エスティは手に提げていたランプを床におくと、あたしの両肩を両手でぽんと叩いてくれた。

「あんな話を真に受けて怯えているのかい?」

 拍子ぬけしたような声で、彼はいう。

「いつもの気丈さはどこにいったんだい、ミリアム? しっかりしなよ、らしくない。見習いとはいえ、きみは魔導士じゃないか。魔導士が幽霊を恐れるなんて、おかしいよ」

 けれどその言葉は気休めていどの役にもたってくれなくて、あたしは我を忘れたように叫ぶしかなかった。

「関係ない! 魔導士が幽霊を怖がっちゃいけないの? 幽霊は神官や司祭の領分だもの、魔導の領分じゃないわ。神懸かりなものはまだいいけど、悪魔懸かりなものは、あたし、生理的にだめなの!」

「幽霊は、悪魔懸かりというのとは、ちょっとちがうよ」

「なによりあたし、非現実的でわけのわからないものが大きらいなの!」

 あたしの声はしだいにうわずっていって、最後には、自分でもなにをいっているのかわからなくなってくる。

 するとエスティは、いきなりあたしの身体を手もとにひき寄せた。あたしの背中に腕をまわし、きゅっとやさしく抱きしめてくれた。それから、彼は右手であたしの髪の毛を、慰めるようにくしゃくしゃと撫でてきた。

 金髪のハーフウルフは優しい表情をしていた。軽蔑でも憐憫でもなく、ただ、やさしげとしかいいようのない表情で、あたしを見つめてきてくれる……

 あたしは一瞬、時間がとまったような錯覚をおぼえた。

「おちついた?」

「……うん。ごめんなさい、エスティ」

「幽霊が怖いって気持ちはよくわかるよ、ミリアム。苦手な嵐の晩だからよけい、レイチェルさんのあの話が恐ろしげにきこえたとしても、無理はないと思う。でも大丈夫、あれはただの作り話だから。この館に幽霊なんかでやしないって」

「本当に? どうして作り話だってわかるの?」

 不安いっぱいにあたしが問うと、エスティは口もとを自信たっぷりほころばせ、

「だって、ぼくはまだいちども美しい女の幽霊なんか見たことがないからね。この館にきてもう半年近くが経つってのに」

 あたしはぽかんと口をあけ、エスティを凝視した。見たことがないから? そんなの、なんの根拠にもなってない。にもかかわらず、エスティに断言されると、まるでそれが絶対の真実のようにきこえてくるから不思議だった。エスティにはそんな、奇妙な安心や信頼を相手に抱かせるなにかがある。

「納得した?」

「……う、うん……」

「いい娘だ」

 エスティはあたしの手に、手提げランプを握らせた。そして、泣き叫ぶ子供をあやす大人のような口調で、

「だけど、どうしても怖かったら、このランプをずっと灯けっぱなしにしておいたらいい。でも、頭を空白にして、毛布をしっかりかぶって、ぎゅっと目をつむっていさえいれば、なにも怖いものなんかないんだ。いいね、ミリアム? じゃ、おやすみ」

 そういってエスティは、ひとりで自分の部屋にもどっていく。

 真っ暗な廊下の彼方にエスティが消えていくと、独りになってしまったあたしは、さながら夢遊病者のような足どりで自分の部屋にもどった。

 抱きしめられたときのエスティの腕の感触が、まだ背中にのこっていた。  


 けれども、エスティの言葉と抱擁がくれた勇気は、三分しか効力がなかった。

 頭を空白にし、毛布を思いきりかぶり、ぎゅっと目をつぶる。

 この三つの項目のうち、さいごのふたつは実行するのはわりと簡単。

 でも、はじめの項目は?

 精神集中の修行は魔導士を志す者にとっては必須だから、頭を無にするのは得意のはずだった。ただしそれは、心が平常な状態にあればの話。

 不安定な感情は、いともたやすく精神をかき乱す。感情を精神から切り離すのは容易なことじゃない。それができないから、あたしはまだ見習いなのだ。

 なにも考えまいとすればするほど、なにかを考えてしまうあたりが、あたしの未熟さのあらわれだった。

 雷鳴への本能的な恐怖と、幽霊への生理的嫌悪。

 そのどちらかだけだったなら、あたしもここまで怯えやしなかったろう。けれどこの夜はそのふたつが相乗効果を発揮して、あたしのやくたいもない想像力をふだんの十倍にも二十倍にも増長させてくれる。

 昼間エスティが補強してくれた窓が、カタカタと鳴っている。まるで女の嗚咽のように。

 屋根や壁に打ちつける雨の音は、さながら女のつぶやき声。

 びゅうびゅうという風の音や翻弄される木々のざわめきは、女の悲鳴。

 たとえ頭から毛布をかぶって耳をおさえていても、そうした物音を遮断することはできず、それがあたしを苛んでくる。

 どれだけ目をぎゅっとつむっていても、あたしは、何者かの虚ろな目に見つめられているような気がしてたまらなかった。それは憎悪と呪いに満ちた瞳で、部屋の中央あたりに漂っていた。そして、恐怖に震えるみじめなあたしの姿をじっと眺めているのだ。

 じんじんじんと、鼓膜を痺れさすような調べが響く。

 ただの耳なりのはずなのに、それはさながら絹を裂くような音色にきこえる。あるいは金切り声。あるいは精神の蝕まれた女が救いをもとめてうめく声。あるいは、狂気に彩られた嘲笑。

 目の前で愛しい男性が殺されたとき、彼女はなにを感じただろう? 目の前に放置された恋人の遺体が腐っていくのを、どんな思いで見ていたのかしら? そして、恋人の仇でもある嫉妬に狂った異常者に肉体を弄ばれるときのみじめさは? だれからも見捨てられ、暗い牢に幽閉され、彼女はいったいなにを考え、なにを感じて生きつづけたのか……?

 はじめは絶望だったにちがいない。それが憎悪にかわり、憎悪は狂気へと昇華し、呪詛の言葉をつぶやくことが、彼女のすべてになった。呪いを遺してこの世から消えたとき、彼女はこの世のあらゆるもの恨んでいたにちがいない。

 分別を失った彼女の憎悪は、二半世紀の時間をこえて、このあたしすら呪いの対象にしたっておかしくはない。

 自分の身体を傷つけ、血で魔法陣を描く彼女の姿が、あたしの脳裏に鮮やかにうかびあがる。悪夢のような光景。口もとに狂気の笑みをうきあがらせながら、染みついた灰色の壁に血まみれの指をおしつけていく、かわいそうなソフィア……

 そして彼女は、彼女自身が呪詛そのものになり、この館に同化する……

 くだらない想像だわ。ただの妄想よ。そんなことが、本当にあったはずがない。エスティだって、あれは作り話だって確信をこめていってくれたじゃない──と、あたしは何度も自分自身にそう思いこませ、必死に眠りに落ちようとした。

 けれど、根源的な恐怖心はいっかな消えてくれやしない。

 寝苦しかった。

 息苦しかった。

 五分が十分に、十分が一時間に、一時間が永遠のように感じられた。

 外では、途絶えることなく雷鳴が轟いている。

 あたしは煩悶として、何度も寝返りをうった。

 それでも、ぎゅっと目をつむっている効果がしだいに現れてきてくれたのか、

 あたしの意識は


 …………しだいに深い


     …………眠りのなかに


         …………落ちこんで 


             …………いって、


 ガチャン!


 なにかが激しく壊れる音がした。

 あたしは飛びあがった。

 ようやく、恐怖から解放されかけたところだったのに!

 眠りをさまたげたものに対するやるせない感情の渦が、やり場のない怒りと悔しさが、胸中にこみあげてきた。

 いまも、いったいなんの音だったのかしら……?

 と、考えるまもなく、となりの部屋──すなわち師匠の部屋──から、なにやら異様な音が連続的に響いてきているのに気づいて、あたしは凍りついた。

 なにかがなにかとぶつかりあうような音だった。

 空中で、物と物とを勢いよく衝突させたような音。

 師匠の部屋には、足の踏み場もないほどに、いろいろな小物がおかれている。なんに使うのかわからないような魔導実験の道具や、書物、壷、皿、愛用のパイプ、フラスコ、ビーカー、アルコールランプ……

 そういったものが舞いあがっては、たがいに破壊しあっているような……

 それから、ギャアギャアギィギィという不気味な音もたしかにきこえた。

 凶暴な獣が興奮して啼きわめいているような音だった。甲高い音で、猛り狂った女の嘲笑のようにもきこえた。

 となりの部屋でなにがおこっているのか、想像するのも恐かった。

 騒々しい幽霊(ポルターガイスト)

 それにちがいない。

 この世に未練をのこす亡霊が、真夜中に繰りひろげる狂宴。

 それが、となりの部屋でおこっている?

 あたしがもっと冷静であったなら、もっとほかの解釈もできたろう。けれどソフィアの亡霊に憑かれていたあたしは、一も二もなくそう考えてしまった。

 生きた心地がしなかった。

 ベッドのなかで、あたしはひたすら毛布にしがみついて、震えていた。絶対神ジュラ・サラーヌと、戦いの女神ライハートに祈りながら。

 けれども、物音はいっこうにやんでくれず、あたしはとうとう我慢できなくなった。

 ベッドから這いでると、あたしは寝間着の上からガウンを羽織り、灯けっぱなしのまま机の上にのせておいた手提げランプを手にとった。

 そして陸にあがったウミガメよろしくよたよたと部屋をでて、師匠の部屋の扉の前に立った。

 そういう行動をとったからといって、あたしにかけらでも勇気がのこっていたわけじゃない。ただ人間、恐怖が限界に達すると、かえってどうにでもなれという気持ちになるらしい。呪文のひとつでも使って、師匠の部屋ごと亡霊を吹き飛ばしてやろうという、やけっぱちな衝動につき動かされただけだった。

 師匠の部屋に錠はかかってない。鍵をもたせても、師匠はすぐなくしてしまう。だからはじめから錠はかけない習慣になっていた。

 だから扉は、多少たてつけは悪くなってはいたけれど、それほど力を使わなくても、すんなりとひらいてくれるはずだった。

 なのに、ノブをまわしても、いっかな扉はひらいてくれなかった。

 いくら力をかけて押してみても、まるで内部から強い力で圧えつけられているみたいで、びくともしなかった。

 錠のかかっていない扉がひらかない?

 それこそ、亡霊のしわざだとしか思えない。

 頭のなかがパニックになった。やっぱり、馬鹿な行動はやめて、ここはおとなしくひきさがったほうが……ああ! こういうとき、エスティがいてくれたら心強いのに……そうよ、エスティを呼んでこよう!

 でも、エスティはもう寝ちゃってるにちがいない。それを無理やりおこすなんて、きらわれちゃうかも……それに、どんな理由があろうと、こんな夜中にうら若き少女が殿方の寝室を訪ねるのはほめられたことじゃないし……

 こういう非常事態のときでさえ、乙女の恥じらいやらためらいやらをおぼえてしまう自分が、いじらしいというか、情けない。

 決めた!

 エスティは呼ばない。

 そのかわり、呪文で扉をぶち破る!

 長い逡巡ののち、あたしはそう決断し、すうっと大きく息を吸いこんだ。

 そのとき。

 真っ暗な廊下のむこう端に、なにやら白い影がうごめくのが見えた。

 それは、女の顔だった。

 目の錯覚なんかじゃない。

 端正な女の顔が、宙を漂いながら、すうっとこちらに近づいてくる。

 成仏できないままこの館をさまよい歩く哀れな女の亡霊──それをまのあたりにしたとたん、あたしのなかで、極限まで張りつめていた緊張がぶつっと切れた。

 そして、ふわっと、気持ちがいいくらいあっけなく、あたしの意識は彼方へと消えていった。

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