●──【4】女侯爵との晩餐
エスティが旧館の補強作業を終えたときには、午後の五時をいくらかまわっていた。
ソフィールズ館のこの旧館は、二四〇年ほど前に建てられたという石造りの屋敷で、時代がかった荘厳な雰囲気がある反面、いたるところが老朽化している。嵐で簡単に倒壊するほど脆くはなっていないものの、壁のどこかが崩れるくらいの危険はじゅうぶんあった。それで、いろいろ補強しておく必要があったというわけ。
この季節、ふだんなら午後の五時といえばまだそれなりに明るいはずなのに、この日はすでに外は真っ暗だった。
風はますます勢いを増していて、館の敷地内に植わまった草木がざわめき、とりわけいくつもの枝葉をはやした喬木は弓なりにいびつにゆがみ、悲鳴をあげていた。
エスティが馬屋のそばにある物置に大工道具と桶をかたづけて旧館の裏口に駆けはいってきた直前には、雨は本格的に降りだしていた。
あたしは午後のあいだずっと、なんとか我慢して魔導書を読んでいた。
けれど、雷鳴が遠くのほうできらめきだした時分には、完全に集中力を失ってしまっていて──エスティが仕事を終えたのを見とどけるや、乾いたタオルをもって裏口に走った。
エスティはずぶ濡れだった。
「ありがと」
タオルを受けとり、美青年が濡れた髪をふく。
「まいったよ。くそっ、いよいよ嵐本番ってわけだ」
「ごくろうさま。でもそのままじゃ、風邪をひくわ。まるで真冬みたいに冷えこんできたもの。はやく着替えなきゃ。小広間の暖炉に、火、いれようか?」
「いや、そろそろ新館のほうにいってもいいんじゃないかな。今日はグレービー夫妻もいないから、レイチェルさんがひとりで夕食の支度をしてるんだろ? なにかぼくたちで手伝えることがあるかもしれないしさ」
「それもそうね」
「じゃ、着替えてくるよ」
エスティは自分の部屋へもどっていって、五分もたたないうちに部屋からでてきた。こと外見をつくろうということに関して、エスティはきわめて無頓着すぎる。もともと新大陸で冒険者をしていたから、着の身着のままな習性が身に染みついてしまっている。そんなわけで着替え終わったエスティの外見は、濡れ汚れていないという点をのぞけば、着替え前とほとんど変わっていなかった。
毎日顔をあわせているあたしや女侯爵の前でいまさらきどったところで意味がないのはたしかだけれど、だからといって、港の船乗りあたりがふだんなにげに身につけてるような野暮ったい服を好んで着るのはやめてほしいと、本気で思う。なまじ美形なために、ぜんぜん似合わない。
エスティの着替えがすむと、あたしたちは新館に渡った。
レイチェルさんが暮らしている新館は、旧館同様石造りの屋敷だけれど、建てられてまだ三〇年ほどしか経っていない。時代がかった旧館と異なり、白壁が映える優美な、芸術的といってもいい建物だ。
この嵐の日に、敬愛すべき女侯爵が新館にひとりでいることは、あたしもエスティもよく知っていた。もともとレイチェルさんは使用人をふたりしか雇っていないわけだけど、その使用人夫婦も今日は事情があって、館を離れていたからだ。
ソフィールズ館唯一の使用人であるグレービー夫妻は、レイチェルさんの父親の代からスタンフォード家に仕えてきた忠君で、レイチェルさんの身のまわりの世話をするのを誇りに思っているような人物だった。屋敷や庭、馬屋の管理が旦那のジム・グレービーの仕事で、奥さんのモーリーは掃除や洗濯を受けもっている。
この日ふたりがいなかったのは、サーリア市在住のとある船長に嫁いだひとり娘が急に産気づいたせいだった。娘の世話をしたいというので、おとといの夜にまずモーリーが館を離れていった。ジムは今日の朝方までは館にいたんだけれど、初孫の誕生に気もそぞろで仕事が手につかなくて、結局、レイチェルさんが笑いながら館から追いだした。そのかわりレイチェルさんは、自分が赤ん坊の名づけ親になることを、夫妻に約束させていた。
あたしやエスティをはじめソフィールズ館の居候たちは、レイチェルさんといっしょに夕食をとるのがいつもの習慣だった。
その夕食はいつも、レイチェルさん自身が、モーリーに手伝わして自分で調理している。由緒ある名門家の女主人のする仕事じゃないけれど、本人が好きでやってることなのでだれにもとめられない。
そんなわけで、あたしとエスティが新館に渡ったとき、レイチェルさんは厨房にいて、ひとりで忙しく夕食の支度にかかっていた。
レイチェルさんがどんな女性か、ひとことで語るのはむずかしい。
ものすごい美人だというのは、だれもが認めるところ。流れるような、白銀色の長い髪が印象的だ。歳は今年で三二になるらしいけど、まだ二〇代なかばといっても通用しそうなほど若々しい。教養と気品にあふれ、性格はおっとりほがらか、ウィットとユーモアがあって、いつも笑みを絶やさない。内面の豊かさと優雅さが立ち居振る舞いにあらわれて、見る人をどこかほっとさせる雰囲気がある。
ときおり、ぼうっと物思いにふける癖があったりもする。そういうとき、以前なら琥珀色の瞳が深い悲しみに彩られたりもしたけれど、最近はそうでもない。
……レスターさんが居候するようになったころから、以前に比して明るく陽気になった印象がするのは、たぶん気のせいじゃない。
ちなみに、未婚。
女侯爵にはまた、子供じみた無邪気なところもあって、たまに悪意のないいたずらをしてみたりおかしな言動をしては、周囲を驚かせることもある。
「とうとう、本降りになってきたわね」
淡いグリーンのシンプルなワンピースドレスにエプロンといういでたちをしたレイチェルさんは、厨房にはいってきたあたしたちを見ると、うれしそうに声をかけてきた。火にかけたシチュー鍋の中身を、さじでゆっくりかきまわしながら。
あたしは軽く会釈した。
エスティがうなずいて、
「ええ、さっきから遠くで雷がごろごろいってますよ」
「そうみたいね」
「でも、まだまだ序の口でしょうね。嵐はこれからもっと激しくなってくるはずですよ」
女侯爵につられてか、エスティまでがどことなくうれしそう。
レイチェルさんは同意するように首を縦にふった。
一方、あたしはぶるっと体を震わせた。これ以上嵐が激しくなるだなんて、考えたくもなかった。
「ヤなこといわないでよ、エスティ!」
「だけど、今夜九時くらいがピークになるだろうって、港の予言者たちはいってるんだよ、ミリアム」
「予言がいつも的中するとはかぎらないわ」
つきはなすようにあたしがいうと、レイチェルさんが意外そうにあたしを見つめてきた。昼間のエスティと同じ反応。
「あら、ミリアムは嵐がきらいなの?」
「きらいじゃない人がいるんですか?」
「わたくしはけっこう好きだけど。嵐の夜って、ほら、なんとなく神秘的でわくわくしてくるでしょう?」
「は?」
……いるんだ、こういう人が。嵐だとか対岸の火事となると、意味もなく血が騒いでしかたがないという、あたしには絶対理解できない人種がたまに。
かたわらで、エスティが声をひそめて笑っている。あたしが嵐が苦手なのが、どうしてそんなにおかしいんだか。
あたしが返答につまっていると、
「それはそうと、あなたたちがここにきたってことは、もう夕食の時間? ごめんなさい、おなかすいたでしょ? でも、まだ半分も支度ができてないのよ」
「ご心配なく」
エスティがまじめくさった顔でいう。
「夕食の催促にきたわけではないですから。そりゃあ、おなかはすいてますけどね。レイチェルさんひとりじゃ大変でしょうから、それでなにか手伝えることはないかと思ってきたんです」
「ええ、そうなんです」
と、あたし。
「それにあたしは、まだそんなにおなかはすいてないですから……」
するとレイチェルさんが、あたしの腰のあたりに目をむけて、
「ダイエット中?」
「まさか!」
「でしょうね」
どういう意味かしら?
「でも、手伝ってもらえるならありがたいわ」
レイチェルさんは嬉しそうに琥珀の瞳を輝かせる。
「というより、グッドタイミングよ、ミリアム。ハルメルのミート・パイを焼こうとしてたんだけど、オーブンの火がなかなかついてくれなくて困っていたの。お願いできる?」
「あ、はい」
ハルメルというのはイザーク湾でよく漁れる海蛇のことで、この地方ではどこの家庭でもよく食卓にのぼる。味は淡泊で、すこしもちっぽい食感が特徴。
あたしはオーブンの前に屈みこむと、奥のほうにくべられた薪にむかって手をかざした。同時に呪文を唱え薪に火を灯す。たとえ見習いであっても、このていどの術くらいは簡単にできる。魔導士がひとりいるだけで、日常生活はこれほど便利。
あたしとエスティは、和気あいあいとレイチェルさんを手伝った。
「……聖なる創造の神ジュラ・サラーヌ、土と豊饒の聖母神リ・リーン、今日の恵みに感謝を捧げ……」
贅沢ではないけれど質素というわけでもない、ごくふつうの夕食だった。
貴族のなかには毎日豪奢な料理をテーブル一面にならべて、それらをひとくちだけ食べてあとは捨ててしまうという、およそ世間をなめきったような生活をしている輩もいるらしい。
けれどレイチェルさんは美食家ではなかったし、ほどほどの贅沢で満足する人だったし、貴族にはめずらしく虚栄心がない人だった。だからまれに値段のはる珍味にあずかることもあるけれど、ふだんの食事はデザートをのぞけばきわめて質素なものになる。
パンとスープに肉料理が一品、つけあわせの野菜数種、それとミート・パイ。つくるのが好きだからといって、腕がいいとはかぎらない。レイチェルさんの料理の腕はごく人並みだ。だから味のほうも平凡。でも、まごころはこもっている。
外では嵐が轟々と暴れまわっていた。
雨風が外壁を強く打ち鳴らし、館全体がびりびり震え、軋み、嗚咽している。
翻弄される木々の枝葉のしなり音が、まるで中年女の嬌声のように館にまで響いてくる。
なのに──そうした神経にさわる騒音がいたるところに満ちているというのに──どういうわけかそれがかえって、この食堂に、いつもとちがう静寂と寂寥感をあたえてくるのが、あたしには不思議だった。騒々しい嵐ほど静かなものはないと、昔の詩人がいっている。その人はきっと、正しいことをいったんだろう。
とにもかくにも、この夜の食事はどうにも味気なかった。いつもとちがう重い雰囲気が、食堂に充満しているように、あたしには感じられた。
もちろんそれは、嵐の峻厳が人の心を惑わす効果をもっているせい。あるいはあたしが、嵐のせいで妙に感傷的になってるせい。
でもそれ以上に──いつもはそろってにぎやかな御仁が、この夜にかぎってことごとく欠けているせいだった。
この館の居候は、レスターさんとエスティをのぞけばみな、口達者だ。レイチェルさんは行儀作法には無頓着な女性でもあるから、そうした面々がそろうといつも、世間話やジョークやちょっと下品な話がテーブルごしに飛びかい、活気に満ちる。
けれど今夜はそれがない。それが、違和感をおぼえる一番の原因にちがいなかった。いつもいる人がいないというのが、こうも寂しいものなんだと、あたしははじめて知った。
レスターさんはセルティス川が氾濫しないよう監督しにいっているし、あたしの師匠は大学の研究所にいったまま、まだ帰ってこない(二度と帰ってこなくていい)。青年実業家のジャックは商用だとかで、五日ほど前から行方不明中(彼の行方不明はいつものことで、そのうちひょこり帰ってくるだろう)。ボネット少佐は元船長としての老婆心から、港の船乗りたちの手伝いにいった。いまごろは昔なじみの老船長らといっしょになって、港の船々を嵐から守ろうと躍起になってるはず(ギックリ腰が心配だけど)。
そんなわけで、あたしはエスティとレイチェルさんのたった三人で、新館のだだっ広い食堂でわびしく黙々と食事をとり──エスティもレイチェルさんもやはりなにやら違和感を感じているのか、ときどき口をひらいて場を明るくしようとするものの、どうしても言葉は途切れがちになっていた。
食堂の壁や食卓に灯された燭台の明るい炎が、どこからか流れこんでくるすきま風にゆらゆらとゆらめく。それはいつもの見慣れた光景であるはずなのに、なぜだか今夜にかぎって、説明しきれぬ不可解な現象のように感じてしまう。
夕方はまだ遠くにいた雷が、この時刻になると、館にかなり近い場所に落ちるようになっていた。
雷閃がきらめき室内が一瞬はじけたように明るくなったり、雷鳴がすぐそばでズドンと轟いてくるたび、あたしは身がすくむ思いだった。そのたびに悲鳴をあげそうになったけれど、エスティやレイチェルさんにみっともない姿をさらすのはいやだったので、せいいっぱいヤセ我慢した。もしエスティがとなりに座っていたなら、どさくさにまぎれてしがみつくのも厭わなかったけれど、残念ながらエスティはあたしの対面の席にいた。
腹立たしいことに、雷に対するエスティとレイチェルさんの反応は、あたしとはまるで正反対だった。ぴかっと光ってどどんと鳴り響くたび、レイチェルさんは楽しそうに身体をゆらして、目を少年のように輝かせる。エスティといえば、無頓着に料理を口に運んでいるだけ。ヒトより大きな耳をしているくせに、このやかましい雷鳴がちっとも気にならないらしい。
とにかく、あたしといえば、夕食を味わう余裕などかけらもなかった。どうしてこんなに雷が苦手なのか、自分でもよくわからない。理屈や理性では説明できない、なにかがあるんだと思う。
それでも、食事があらかたすんでデザートの番となったときは、いくらか余裕をとりもどすことができた。ごくふつうの女の子が、ブリーベリーのシャーベットを前にしてごきげんな気分になるのはあたりまえ。恐怖心だって、多少は薄れてくれる。
シャーベット!
これこそ、魔導士がいる家庭ならではの贅沢品だった。ふつうの家庭では、氷はつくるのも保存するのもむずかしい。けれどたいていの魔導士なら製氷くらいは簡単にやってのけるし、ある種の結界を張ることによって長く保存しておくことだってできる。
外気はかなり冷えこんでいたみたいだったけど、食堂内は暖炉のおかげでじゅうぶんすぎるほど暖かかった。
だからシャーベットはひんやりと冷たくさわやかで、絶妙の味がした。
「なんだか陰気で、いやな雰囲気だわ。なにかこう、ぱっと盛りあがるような話題がほしいわね」
そういって、レイチェルさんがいきなりソフィールズ館にまつわる幽霊話をはじめたのは、あたしがシャーベットを二口三口手をつけたばかりのときだった。
「そうそう、あなたたちの住んでる旧館だけど、あそこに美しい女の幽霊がでるって話はどうかしら?」
あたしは、シャーベットのなかにまざっていた石つぶてのような氷よりも、さらに固く身を凍らせた。
旧館に幽霊? 冗談ですよね?
あたしは嵐はきらいだけど、幽霊はもっときらい。
レイチェルさんに、あたしをいじめようという意図があったとは思えない。レイチェルさんの感性は、いささか常人とちがっている。女侯爵の価値基準では、怪談はじゅうぶん場が盛りあがる話題だっただけのこと……に、ちがいない。
おまけに……あろうことか、エスティまでがすっかりその気になってしまった。
「ええ、ぜひ!」
といって好奇心を顔にうかべ、わざわざレイチェルさんにむかってテーブルから身をのりだしたほど。新大陸育ちのこのハーフウルフも、その手の話はきらいじゃなかった。ていうか、好きなほうだった。
あたしは憎々しげにエスティを睨みつけたけれど、朴念仁はあたしの視線にはまるで気づいてくれなかった。
このあとあたしが体験することになるおぞましい出来事は、その根本原因こそ人騒がせな師匠にあったとはいえ、その前兆となったのはあたし自身の恐怖心だった。
そしてその恐怖心は、嵐に対するものというより、たぶんにレイチェルさんの悪意なき幽霊話によって植えつけられたものだった。
したがって、あたしはレイチェルさんが話をしているあいだ、両手でしっかり耳をふさいでおくべきだった。そうしておけば、想像上の恐怖にとり乱すこともなかったにちがいない。けれど、シャーベットが溶けていくのをじっと眺めているのは、あたしの貪欲な乙女心がゆるしてくれなかった。
「……これはね、スタンフォード一族でも、直系のごく一部しか知らされていない秘話なの。のちの初代ソフィールズ侯サー・アレクセイ・スタンフォードが当時の国王から爵位を授与され、ソフィールズ地方を領地として賜ったのは、そうね、いまからだいたい二八〇年前ほど前のこと。そしてこの事件がおきたのは、それから十年くらいあとのことかしら……」
目の前の燭台の火をふっと吹き消し雰囲気をつくると、レイチェルさんは息を殺したものものしい口調で語りはじめた。