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●──【14】嵐の終わりと決着と

 ……ありえない話じゃなかった。

 そう、師匠があずけていったあの鉄檻のなかに、合成獣キメラが一匹しかはいっていなかったと断定する理由はどこにもない。二匹はいっていたとしても、おかしくはない。あの檻には、大きめの鶏なら二匹くらいはなんとかはいるくらいの余地はあった。さすがに、三匹目はいないだろうけど……

 師匠の部屋は、割れた窓から風雨が吹きこんだだけではこうはならないと思えるほど、荒れていた。あの惨状も、怪物が二匹いたんだとすれば、多少合理的な説明がつく。たとえば、二匹が喧嘩して、それかじゃれあって暴れた結果だとすれば……

 厨房も同様。どうしてあんなに散らかっていたのかも、二匹が食べ物を奪いあった結果だとしたら、一応説明はつく。壁についていた血痕も、どちらかが負傷したときについたものだったとしたら?

 状況は、絶望的だった。

 疲弊しきったハーフウルフに、もう合成獣と格闘する余力なんかのこってるわけもない。それどころか、二匹目を探して館内を歩きまわることすらできやしない。

「ミリアム、雨はまだ降ってる?」

 ソファに横になったまま、エスティがきいてくる。

 エスティは無残な姿だった。身体のいたるところに、合成獣キメラの血糊を付着させている。膚の色は青く、流麗だった金色の髪はぼさぼさに乱れている。

 あたしは窓によった。ちらっと、カーテンをめくる。

 雨は──やんでいた。

 これで、二匹目の合成獣が外にでていく可能性も増してしまった……

「どう、ミリアム?」

「まだ降ってるわ」

 自然と、あたしの口から嘘がでた。もしやんでいると知れば、責任感の強いエスティは意地でも二匹目を探しにいこうとするだろう。あたしは、これ以上エスティに無茶をしてもらいたくなかった。

 カーテンをしめ直し、あたしはエスティのそばにもどった。

「もうすぐ夜が明ける。東の遠くのほうが、すこし明るくなってる。だから、夜行性だとしたら、もうそんなに心配することはないんじゃないかしら?」

「やつが、どこまで小竜レントの習性をひきずってるかにもよるよ。馬や牛の習性もまざっているかもしれない」

「でも、どんな化け物だっていつかは眠るわ」

「一匹目はそこで寝ていたろ? 夜明け前だったのに」

「だから、夜行性とはかぎらないと?」

「そうだ。夜が明けると同時に、もっと活発になるかもしれない。そして雨がやんだら、より広い活動場所をもとめて外にでていく」

「かならずしも外にでていくとはかぎらないんじゃない? 館のなかのほうが居心地がいいと思うかもしれないもの」

「飼い慣らされたペットならね。だけど窓ごしに自然風景を目にした野生動物ならどうかな?」

合成獣キメラは野生動物ではないと思う」

「そうとも。もっと性が悪い存在だよ。そしてペットでもない」

 あたしはため息をついた。

「エスティは心配性すぎるのよ。これ以上、あたしたちになにができるというの? それに、いいかげんレイチェルさんがもどってきてもいいころよ。レスターさんといっしょに」

「レイチェルさんがでていって、まだ一時間と経っていな──」

 いいかけて、エスティはいきなり不意をつかれたようにはっとなり、いぶかしむような目であたしを睨みつけてきた。あたしの態度に、なにか不審なものを感じたみたい。

「──ミリアム、なにか隠してないか?」

「え?」

 あたしはあわてて首をふった。

「う、ううん、なんにも」

「なら、どうして顔をそらす?」

「そらしてなんかいないわ」

「ごまかさないでくれ。もしかして、外の雨は───」

 エスティは身をおこした。渾身の力をこめて、立ちあがろうとする。

「やめて、エスティ。それ以上、無理はしないで!」

 あたしは必死に、エスティをソファに圧えつけようとした。

 けれど、エスティは乱暴にあたしの手をふりほどいた。それくらいの余力は、まだのこっていたみたい。

 あたしは、彼の行動を制止するのをあきらめるしかなかった。彼の気迫に負けたといってもいい。

 と同時に、あるものを目撃し、あたしは立ちすくんだ。いつになったら悪夢が覚めてくれるのかと、内心悲鳴をあげた。

 エスティはよろよろと窓に近よると、左腕でひき千切るようにカーテンをひらいた。

「やっぱり──雨はとっくにやんでるじゃないか! くそっ、こうしちゃいられない。もう一匹をはやく探しださないと!」

「その必要はないと思う、エスティ」

 あたしの視線は、もはやエスティを見ていない。

「え?」

「だって、ほら……」

 あたしは無感動に、扉を指さした。


 二匹目の合成獣が、扉のすきまからのっそりと姿を現した。


 そいつは、さっきエスティが倒した合成獣よりいくらか大きめだったけれど、ずっとおとなしい姿をしていた。

 硬そうな灰褐色の外鱗に覆われた、いくらかずんぐりしたトカゲといった印象。

 おそらくはそれが、合成獣の基本体である小竜レントそのものの姿なんだろう。

 そいつは部屋にはいってくると立ちどまり、猫のように背筋をぴんとのばして悠然とあくびをした。赤い眼は、眠たそうに半びらきになっている。あたしたちの存在には、まだ気づいてない様子だった。

 してみると、暖かい寝床をもとめてやってきたのかもしれない。冷えきった旧館内で唯一暖炉がともるこの小広間は、もっとも居心地のいい部屋だから。一匹目がそうだったように、館内を徘徊して空腹も満たしたそいつが、最終的にこの部屋のぬくぬくした空気にひきよせられてきたとしても、不思議なことではない。

 とはいえあたしたちは、あまりに唐突なそいつの出現に、狼狽を隠しきれなかった。毒気をぬかれたといってもいい。そのため、怪物が油断しているいましか勝ち目はなかったかもしれないというのに、あたしもエスティも、ただ呆然となっただけで、なにも反応できなかった。

 水を打ったような静けさが室内を支配する。

 あたしたちは、ぽかんと大口をあけて立ちつくすだけ。

 そうこうしているうちに合成獣キメラは、鰐にも似た細長いごつごつ顔の先端についたちいさな鼻孔をつきだし、くんくんと、犬のように鳴らしはじめた。

 それからしだいに、半びらきの眼がひらきだす。

 眠たげな怪物の顔が、しだいに凄まじい凶相へと変化していく。

 と同時に、外見までが急激に変容しはじめた。

 そいつの外鱗がぼこぼこと隆起しだし、さらに頑健な鎧のようになっていく。頭部からぬうっと角が、首まわりからは馬の毛がばさばさと生えはじめる。尻尾が蛇状に伸びだし、赤と黒と黄色のどぎついまだら模様がうかびあがってくる。

 そうしてそいつはあっというまに、すでに死んでしまった一匹目とよく似た姿へと変わってしまった。

 怪物のそうした変貌がなにを意味するかは、一目瞭然だった。

 合成獣キメラが鮫や吸血蝙蝠とおなじなら血の臭いで凶暴化するといったエスティの言葉を、あたしはおぼえていた。

 頭のなかで、わんわんと警鐘が鳴りだす。

 この部屋には、あいつの死んだ同族の血の生々しい臭いが充満している。

 その臭いに、殺戮本能が活性化された──んだとしたら?

 活性化され、興奮し、外見変化をおこした。

 そういえば一匹目は、異形の姿のまま暖炉そばでくつろいでいたけど……そいつは、もしかしたらあんまり外見変化をしないタイプだったからなのかも。

 いま、あたしたちの目の前にいる怪物が、長い舌をべろりとだし、口まわりを舐めた。

 口腔は焼けただれたように赤黒く、鋸状の歯がびっしりならんでいる。

 かつてエスティの右腕を深くえぐった凶悪な爪が、絨毯敷きの床を、ばりばりとひっかいていく。

 合成獣は本来この世に存在してはならないアンバランスな生物で──その姿格好がアンバランスであればあるほど、視覚的な部分で感じる脅威もましていく。

 いまあたしの目の前で変貌を遂げたそいつは、死骸となって床に横たわっているやつより、はるかに獰猛そうでおぞましかった。一匹目とちがってそいつには翼がなく、そのためかえってちぐはぐな印象がして、不気味さも増していた。

 そいつは、あたしたちの存在に気づくや、警戒するように背中をゆるく曲げ、


 ギィギギィギィルル──


 敵意をこめたうなり声を発しだした。

 怪物の外見変化は、じっさいにはごく短時間のうちに完了したにちがいない。

 けれどあたしには、何時間とかかって変化していったように感じられた。以前に師匠の部屋でおぼえた、死に神と対面しているような感覚が、さらに強烈なものとなってあたしの全身を這いめぐる。死に神に大鎌をつきつけられ、貴様の寿命はもう終わりだと宣告されたときのような、絶望的な気分。時間感覚の喪失。

 思考が停止し、一秒が永遠となる。

 このときあたしは、自分がなにをすればいいのか判断する余裕もなかった。石像のごとく全身を凝固させ、怪物と対峙していた。

 否、正常な感情・感覚が麻痺して、恐怖すらおぼえる余裕がなく、石像そのものだったといってもいい。

 エスティも、あるいはあたしとおなじような心理状態だったかもしれない。もしそうでなかったら、怪物が変貌を遂げる前に、なんらかの示唆行動がとれていたはず。それができなかったということは、彼も、やはり正常な判断力を一時的に喪失してしまっていた……

 エスティは部屋の奥、窓のそばにいた。

 あたしは、扉からそんなに離れていない場所にいた。

 怪物との距離は、ほんの二、三歩しかなかった。

 怪物が攻撃してくるとしたら、まずあたしにむかってくるだろう。

 あたしの魔導衣にも、一匹目の合成獣の血やエスティの血がいくらかこびりついている。

 血で凶暴化する敵が、それを見逃すはずがない。

 怪物は、牙をむきだしにしてうなりながら、身を低くかがめはじめた。

 あたしに飛びかかるべく、力を溜めはじめる。

 あたしはその様子を、他人事のように眺めていた。これからなにがおころうとしているのか、本能の部分では理解していた。けれど、頭が認識するのを拒否していた。最後の最後になって意気地が砕けて、心が現実逃避にはしったらしい。

 そしてあたしの脳裏に死後の世界が漠然とよぎった瞬間、怪物が、とうとうあたしめがけて跳躍してきた!

 おぞましい口腔から突きだす鋭い牙が、あたしの喉もとめがけて襲ってくる。

 あたしが我にかえったのは、悲鳴にも似たエスティの怒号が響いた瞬間だった。

「ミリアム、しゃがんで!」

 たとえどれだけ呆けていたとしても、エスティはいざというときの判断力まで失ってはいなかった。

 叫ぶと同時に、彼はズボンのポケットから香水の瓶をとりだし、怪物にむかって投げつけた。

 あたしは反射的に身をかがめていた。

 怪物は、あたしの頭上すれすれを跳び越えていった。

 エスティの叫びが響いた瞬間、身体が勝手に反応したのは奇跡としかいいようがない。彼の声が一瞬でも遅れていれば、そしてあたしの反射神経がもうわずかでも愚鈍だったなら、あたしはかなりの確率であの世にいっていた。喉を噛み切られるか、顔面を爪でひき裂かれるかして───

 エスティが投げた香水瓶は、あたしの左横の壁にあたって割れた。

 四散した香水液の飛沫が、あたしを跳びこえ着地したばかりの怪物の身体にいくらかふりかかる。

 しかもそのうちの数滴は、偶然、怪物の鼻のあたりにかかった。

 それは、怪物をひるませるに想像以上の効果があった。

 怪物がどの程度の嗅覚をもっていたかは不明だけれど、血の臭いを鋭敏に嗅ぎわけられるほどなら、相当なもののはず。

 となればわずか数滴の香水液も、怪物にとってはかなりの苦痛だったにちがいない。

 錯乱した獣は──人間だっておなじだけれど──ときとして予想外の行動をとることがあるもの。


 ギイィィィィ───────!


 合成獣は、腹の底からこみあげてくるような咆哮をあげた。

 猛り狂い、逃げるように部屋奥に駆け疾る。

 そして、部屋奥の壁にむかって体当たりをはじめた。

 いまわしい臭いをふりはらうかのように、何度も何度も乱暴に身体を壁にこすりつけていく。

 怪物は驚異的な怪力の持ち主だった。

 怪物が体当たりするたび、どすどすという音が室内に反響し、まるで館全体が震えているよう。

 いまにも壁をぶち破ってしまうのではと思えるほどだった。

「ミリアム!」

 エスティがあたしにむかって駆けよってくる。彼は、自分の体力がすでに限界にきていることさえ忘れていた。

 あたしは、全身が虚脱し、腰が砕け、へなへなと床に座りこんだままだった。とうてい、ショックからたち直れそうになかった。肉体的に怪我はない。けれど、精神的にあたしは重傷だった。

 いましがたあたしは、崖っ淵に半歩足を踏みだすところまでいった。一六年とちょっと生きてきて、これほど死を肌で実感したのははじめての経験だった。

「ミリアム、しっかりしろ、ミリアム!」

 エスティが、へたりこむあたしの肩を何度もゆすってきた。

「大丈夫かい?」

「あ、うん。あは、な、なんとか……」

「なら上々。ミリアム、呪文の用意をしてくれないか?」

「え?」

「予想以上にあいつが匂いに敏感で助かった。いましか、あいつを倒すチャンスがない」

 奥の壁で体当たりを繰りかえしている合成獣キメラにむかって、エスティはあごをしゃくる。

「爆裂系だ。できるね?」

「できる……と、思う……」

 あたしはエスティの顔を自信なげに見あげた。頭のなかがじんじん痺れていて、うまく思考がまわらない。エスティの言葉が、彼があたしになにを要求しているのか、理解できるようになるのに、ずいぶん時間がかかったような気がする。

 けれどこんな状況でいつまでもとり乱したままの人間は、滑稽な道化師でしかない。それくらいは、あたしもおぼろに理解していた。そう、あたしたちにはまだすべきことがある。

 あたしは、エスティの身体にしがみつくようにして、なんとか立ちあがろうとした。身体が震えた。足ががくがくした。力がはいらず、なかなか立ちあがれなかった。

「この館が多少壊れたってかまやしない。制御も加減もこのさい無視して、思いっきりやってくれ、ミリアム。あの化け物を木っ端微塵にしてやるんだ。いいね?」

 あたしは、こくりとうなずいた。

 するとエスティは、

「ミリアム、いいかい? あの絵だ」

 といって、左の壁にかかった油絵を指さした。女神ライハートの絵だった。

「あの絵にむかって、いつでも術を放てるよう待機していてほしいんだ」

 もういちど、あたしはうなずいた。

 彼がなにをする気かはわからなかったけれど、そんなことはどうでもよかった。エスティがやれというならやるしかない。いまあたしにできるのは、彼の信頼に応えることだけ。

「それとミリアム。香水の瓶、もう一本あったよね?」

 みたびうなずき、あたしは瓶を手渡した。

 あいかわらず怪物は、奥の壁にむかって狂ったように体当たりを繰りかえしている。

 壁にひびがはいりはじめている。

 崩壊するのも時間の問題……

 エスティは限界を越えた力を体内にみなぎらせ、怪物ににじり寄っていく。

 あたしは内心、あらゆる神様にむかって祈りつづけた。祈りにもいろんな種類があるけれど、このときなにを祈ったかおぼえていない。思いつくかぎりの祈り文句を、ただひたすら反復していただけだった。そして祈りながら、呪文を唱える瞬間をまちつづけていた。

「おい、化け物。そんなに苦しいか?」


 ギィルゥ──?


 怪物は体当たりをやめ、エスティにむきなおる。

 警戒と狂気のないまざった、血走った眼をエスティにむけ、低いうなりを発した。


 ギイィィ───


 エスティは香水瓶の蓋をあけ、液を二、三滴、怪物の鼻先に垂らした。

 とたん、怪物は怯えるようにうしろずさった。よほど香水の臭いが嫌なよう。

 エスティはじりじりと、怪物を部屋の隅へ追いつめていく。

「なら、もっと苦しめ!」

 エスティは、左手にもった香水瓶を怪物めがけて投げつけた。

 怪物はエスティの攻撃を避けようと、横に跳躍する。

 けれどエスティのほうが一枚上手だった。彼は冷静だった。怪物の動きを完全に読んでいた。たとえ利き腕でなくとも、彼は狙いをはずさなかった。

 香水瓶は、狙いたがわず怪物の顔面に命中して、割れた。

 たかが数滴であれだけ苦しんでいた怪物が、瓶にたっぷりのこっていた香水液をまともに顔面に浴び──




 ──この世のものと思えぬ怪物の絶叫が、室内に響きわたった。

 怪物は、狂ったようにのたうち、床をころげまわった。

 蛇の尾をびたんびたんと打ち鳴らし、部屋隅にあった燭台テーブルをひっくりかえす。ついで部屋の中央にむかって転がるように跳びこんでいく。オーク材のテーブルと衝突すると、その勢いでテーブルはまっぷたつに割れた。

 まるで巨大な砲弾。

 さらに暴れ狂って長ソファの上にのっかると、怪物はそこでも全身が痙攣したみたいにのたうちまわり、爪でソファをめちゃめちゃにひっかきまわし、爪痕をあたりに刻み散らしていった。

 エスティはその様子を、醒めた瞳で眺めている。

 それから、怪物の狂乱にまきこまれないよう注意しながら接近し、怪物の尻尾のなかほどを、左手でがっしりとつかみあげた。さながら大魚を釣り糸で吊るすみたいに。

 エスティの腕の下で、怪物は激しく執拗にのたうった。

 けれど怪物がどれだけもがき暴れても、エスティはけっして尻尾を離さない。彼にとって、それは身体にのこされた最後の力だったにちがいない。

 そして彼は、力のかぎり怪物をふりまわし、女神の絵にむかって投げつけた。

「ミリアム、いまだ!」

 空間内に存在する物質をある一点に凝縮し、ついで外方向にむかって一気に爆発させる──それが爆裂系攻撃術の概念。

 ただしいくら概念を理解していても、術そのものがうまく制御できなければ、望む効果は得えられない。威力が足りなかったり、逆に足りすぎたり、よけいな場所まで破壊してしまったり……術者が未熟だと、往々にしてそういう失敗をしてしまう。

 けれどこのときあたしが唱えた呪文は、修行のときでもこうはうまく唱えられまいと思えるほど、最高の出来だった。

 精神が極限まで追いこまれ、雑念のはいる余地がなかったのがさいわいしたのかもしれない。

 怪物の体内一点に、あたしの術は作用した。

 威力の制御も、完璧だった。

 あたしの呪文は、ほかのものはいっさい破壊することなく、怪物だけに効いてくれた。

 ライハートの絵に叩きつけられた瞬間、怪物は、ぽんと弾けるように、内部・・から砕け散った。


 女神ライハートの絵は、飛び散った合成獣の血や臓物を浴び、赤く染めあがっていた。

 あまり気持ちのいいものではなかった。

 はじめ、あたしは怪物をやっつけたという事実が信じられなかった。

 自分の勝利が、にわかには現実味を帯びてこなかった。まわりのできごとすべてが非現実に思えて、まだ夢のなかをさまよっているような、ふわふわした感覚が体内にくすぶっていた。

 それからじわじわと、夢は夢でももう悪夢ではなくなったという実感がこみあげてきた。もう怪物にわずらわされることはなくなったんだという安堵が、ある種眩暈にも似た恍惚となって、頭のなかをぐるぐる渦まいた。

 歓喜が身体中を駆けめぐった。

「エスティ、やったわ!」

 反応はなかった。

 ふと見ると、エスティはソファに身体を埋めて、深々と息をついていた。姿格好はよれよれのくたくただったけれど、すっかりくつろいでいる。彼が噛みしめていた勝利の余韻と安堵は、あたしよりずっと大きかったにちがいない。

 あたしが近づくと、エスティは屈託のない笑みを満面にたたえ、

「うん、よくやった、ミリアム」

 けだるい声でいうと、それ以上口をひらく気力もないのか押し黙り、その数秒後にはもう、寝息をたてはじめた。

 あたしにも──まもなく睡魔が襲ってきた。

 疲れた!

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