●──【13】対決!
扉のすきまから首をつっこんで、あたしは息を殺した。
とたん、視線があいつに釘づけになった。
想像以上の怪物だった。
怪物は暖炉のそばにうずくまって、心地よさそうに眼をとじている。
眠っているらしい。
サンドイッチを物色したあと逃げるように部屋を飛びだし、厨房でコールドビーフをついばんで満腹して、またもどってきた……んだと思う。暖かい場所のほうが、やっぱり居心地がいいみたい。いまは我が物顔で小広間を占領している。
図体は、そう、まさしく大きめの鶏。
顔と胴体の形だけを見れば、伝説に登場する竜に似ている。この世に破壊と災いをもたらす悪神の使いとしての竜の姿にそっくり。目の前にいる合成獣は、まさに挿絵画家が度々描く悪竜の縮小版といった感じだった。
エスティの言葉どおり、首のところにサラブレッドのようなたてがみが生えていて、眼のうしろ側には牛の角のような突起がついている。全身が、見るからに硬そうな黄褐色の鱗皮に覆われていて──なんとも凶悪げ。不快感がこみあげてくる。
なによりあたしを心底震えあがらせたのは、そいつがカラスのような黒い翼と、蛇のような長い尻尾をもっていたこと。
カラスの黒翼は死に神の象徴。
そしてそれにもまして、とぐろをまいた尻尾がおどろおどろしい。なぜならその部分だけ、鱗皮でなく、てかてかと下品な赤と緑と黒の三色のまだら模様で彩られていたから。
まぎれもなく、自然界に存在してはならない化け物だった。
生理的嫌悪と不快感が、嘔気をともなって胸にこみあげてくる。ものには限度というものがある。あんな不気味悪い生物をわざわざ創りだした連中の神経を疑いたくなってくる。それもまた、戦争の狂気というやつなのかしら。
「ど、どうするの、エスティ?」
「見つけた以上、ほっておくわけにはいかないよ」
エスティの返答はあっさりしていた。いくぶんリラックスしているような口調さえあった。してみると彼の杞憂の大半は、怪物がすでに館の外に逃げてしまったかもしれないことにあったのかもしれない。だから、まだ館内にいたことがわかって、ほっとしたんだろう。
エスティは、レイチェルさんから借りた短刀を、左手でしっかり握りしめた。
「まさか、こんなあっさり発見できるとは思わなかったよ。ぐずぐずして逃すわけにはいかない──やつが眠っているのは好都合だ」
「そんな武器で、あれをやっつけられるの?」
「もちろん、まともにむかっていっても無理さ。こんな刃、あいつの外皮につきたてたところで、どうにもなりやしない」
「だったら──」
「けど一カ所だけ、あいつにも弱点がある」
ひそひそ声ながら、エスティの口調は確信に満ちていた。
「どこ?」
「腹の下だよ。やつの基本体はあくまで小竜だ。ふだん地面と密着している腹部まで硬い鱗に覆われてるってことは、まずない。でないと、俊敏性がたもてない。だから、そこだけは柔らかい。刃だってとおるはずだ。師匠の部屋で戦ったやつはそうだった。腹だけは柔らかかった。くそっ、あのとき武器さえもってたら、すんなり倒せてたのに!」
口惜しげなエスティの物言いには、どこかひっかかるところがあった。
なんだか妙ないいまわしがあったような……ううん、いまはそんなことを訝しんでいるときじゃないわね。目の前の怪物をなんとかして倒すのが、最優先。
「それで、あたしはどうすればいい?」
「やつの動きを、すこしでも鈍らせるような呪文はあるかい?」
「爆裂系や火炎系じゃ……どう応用したって無理よね。冷気系か光系かしら」
「ミリアムが得意なのは?」
「爆裂と火炎」
エスティは苦笑した。
「性格そのまんまだね」
「どういう意味?」
「べつに。結界は張れる?」
「無理」
「となると冷気であいつの動きを鈍らせるしかないだろうな。だけどあれだけ暖炉のそばだと……」
「どのみちあたしの能力じゃ、あいつの全身を一気に凍らせるなんて不可能よ」
「やつを体内からじわじわと凍らせていくのは?」
「それなら、できると思う」
「完全に凍らせる必要はないんだ。体温がさがれば、それだけやつの動きも鈍るはずだから」
「要するに、シャーベットを凍らせるのとおなじ要領ね。わかった。やってみる」
あたしは意識を怪物の体内に集中させ、エスティの注文どおりにやってみた。あるていど時間をかけて唱えればいい呪文なら、制御にそんなに苦労することもない。
ちなみに、呪文はかならずしも口にだして唱える必要はない。精神を集中し、脳裏で反復すればいいだけだ。チャンドラ師匠のような高位の魔導士になると、呪文を紋様イメージとして想起し、一瞬のうちに呪文の効果を外部に発揮させることもできるけど、あたしはまだその域までは達していない。
怪物は、体内におこりはじめた異常に気づいたのか、目を覚まし、怪訝に首をあげた。さすがに体内がしだいに凍りついていく感触に、無反応ではいられないよう。
怪物は、ゆっくりと顔をこちらにむけはじめ──おもむろに、あたしと目があってしまった!
狂相をみなぎらせた真っ赤な眼だった。体内の異常の原因があたしであることに、気づいたのかもしれない。背筋が凍るほどの戦慄を、あたしはおぼえた。それでも、必死に呪文を脳裏で唱えつづけた。
すると怪物はおきあがり、まるで水を浴びた猫のように、身体をぶるぶると震わせはじめた。こちらにむかって、まだら模様の細長い尻尾をずるずるひきずりながら、歩きだす。
あたしは、呪文を唱えるのをあきらめた。
「あたしの力じゃ、動く対象物まで内から凍らせることはできないわ、エスティ」
「じゅうぶんだ。よくやった、ミリアム。すでにやつの動きは鈍っている。かなり効果はあったよ。あとは、ぼくの出番だ」
「身体、大丈夫?」
「心配は無用。短時間で決着をつける。ミリアムはここで待機していてくれ」
蒼白だったエスティの顔に、ほんのりと赤みがさしていた。生気が蘇りつつあるというより、戦いを前にして興奮を抑えきれないというのが正解か。
彼は、香水を肩のあたりにふりかけると、短刀を口にくわえ、足どりもたしかにすうっと、扉のすきまから小広間へと身体をすべりこませていった。
エスティは、ゆっくりと怪物に近づいていった。
自然界に存在する猛獣であれ、魔導科学が生みだした歪んだ生物であれ、その生存本能は人間よりもはるかに鋭い。
合成獣は、エスティの殺気を察知してか、警戒態勢をとった。前傾姿勢になり、サラブレッドのたてがみを逆立て、蛇の尾をS字に曲げのばし、ウーウーと低いうなり声を発しだす。
ウゥールゥールー
そのうなり声は、以前どこかで耳にしたギィギィという鳴き声からはおよそかけ離れた声だった。けれどあたしは、その事実がなにを意味するのか、まだ気づいていなかった。エスティの妙な物言いといい、いいかげん気づいてもよさそうなものだったのに。
怪物は、いまにもエスティに飛びかからんばかりの剣幕だった。けれど、身体が重いのか、ためらいがあった。先刻しかけたあたしの術が……それなり効いてくれている?
エスティと怪物の距離が、しだいに縮まっていって──いまや傍観者にすぎないあたしの両手の平に、じっとりと汗がにじんだ。
と、エスティが立ちどまった瞬間、怪物が跳びはた。
エスティに襲いかかっていく。
かっぴらいた口から黒ばんだ鋭い牙が露出する。
鋭利な爪の生えた脚が、エスティの身体をとらえる──!
けれど冷えて鈍った身体では、スピードも跳躍力もしれていた。
エスティはなんなく攻撃をかわして身をひるがえし、怪物が着地するや、すかさず背後から怪物に覆いかぶさり、抑えつけた。
あれだけ消耗していたエスティのどこに、それだけの動きができるほど体力がのこっていたのかと、あたしは驚かないではいられない。ハーフウルフならではの常人離れした体質と、男としての意地がなせる業としか思えない。それから、いざというときの卓越した集中力。
むろん、エスティの右腕は動かない。
彼は、左腕を怪物の首にまわし、万力のようにがっちりと絞めつけた。
うずくまるように身体を曲げ、全体重を怪物の胴体にのせて床に圧しつけていく。
さらに、のたうつ蛇に右足をからめ、尻尾が鞭のような凶器として使用されるのをふせいだ。
とはいえ、鶏大の体躯をした獲物ではかえって的がちいさすぎて、怪物を完全に押さえこむのは難しい様子だった。
エスティの身体の下で、怪物は必死に暴れまわった。
あたしは、ハラハラのしっぱなしだった。二者がからみあってる状態では、あたしにできることはなにもない。へたに術を放とうものなら、エスティまで巻き添えにしかねない。けれどこのままでは──勝負が長びけば長びくだけ、エスティの体力は限界に近づいていく。他方、怪物は体温をとりもどし、いずれ動きが活発になっていくだろう。
さいわいにして、エスティに首をねじあげられていくうちに、怪物の抵抗はすこしずつ弱々しくなっていった。
暴れまわっていた怪物の動きが、一瞬とまる。
そのすきを、エスティは逃さなかった。
彼は、自分の身体ごと、勢いよく怪物を裏返した。
そして、口にくわえていた短刀を左手にすべらせ、硬い鱗に覆われた怪物の身体の、唯一の柔らかい部分──真っ白な腹部───に突きたてた。
軋るような怪物の悲鳴が、室内に充満する。
蛇の尻尾が何度も痙攣し、床を激しく打ち鳴らした。
エスティが短刀をひき抜くと、怪物の腹から真っ赤な血流が、さながら噴水のように噴きだしはじめる。
エスティはさらに、何度も刃を突きたてていった。
断末魔の甲高い悲鳴がしだいにか細くなっていって、怪物は、とうとう息絶えた。
この小広間には、二枚の油絵がかかっている。
一枚はサーリア港の景色を描いた風景画で、もう一枚は、戦いの女神ライハートと悪魔の争いを描いた宗教画だった。
ライハートと悪魔の争いは神話や叙事詩に度々登場することもあって、あらゆる宗教画家がもっともよく題材にするモチーフだった。たいていは、悪魔の屍の上にたたずむ女神の姿が描かれる。
小広間にある絵もそうだった。悪魔の返り血を全身に浴びた女神ライハートは、凄絶な美をたたえている。瞳にはなんの感情も宿っておらず、虚ろで、ただ慄然とした気高さと虚脱感があるだけ。勝利の喜びは微塵も描かれていない。
合成獣の屍から這いだしてきたエスティは、まるでそんなライハートのようだった。怪物の返り血を全身に浴び、疲れはて、虚脱し、瞳は虚ろ。もはや立っているのもやっとという状態。
「エスティ!」
あたしは駆けだし、彼の身体を支え、抱きしめた。
「しっかりして! 大丈夫?」
「ああ、大丈夫……さすがにキツかったけど……それより、ぼくから離れたほうがいい、ミリアム。せっかく着替えた服に、血がついてしまうよ」
エスティの表情や声には、なんの笑みも安堵もなかった。それほどに、体力も精神も使いはたしてしまったみたい。それでも、あたしの魔導衣が合成獣の血で汚れることを心配するなんて、いかにも彼らしい。
「どうでもいいわよ、そんなこと」
「血の臭いは危険なんだ」
「合成獣はもう死んだわ。ぴくりとも動かない」
「そうじゃない……」
エスティは、もしかしたらすこし混乱しているのかもしれなかった。目の前に怪物の死体があるというのに、いまさらなにを心配するというのかしら?
あたしは彼に、長ソファに横になるよううながした。
「これで、やっと休めるわね」
せいっぱいの笑顔でもって、あたしはいった。合成獣の脅威から解放された喜びで、あたしの胸はいっぱいだった。
ところがエスティは、左腕であたしの肩をがっしりつかんで、
「いや、まだだ!」
と、うなった。
そのあとにつづく彼の言葉は、あたしを絶望の淵に追いやるのにじゅうぶんだった。
「まだなんだ、ミリアム。まだ、終わっていないんだ!」
「え?」
「師匠の部屋で襲ってきたやつは、あんなカラスみたいな翼は──いや、翼自体、もっていなかった。それに図体も、いまのやつよりひとまわり大きかった。ミリアム、よくきいてくれ。合成獣は、もう一匹いる!」