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●──【12】作り話の根拠

 旧館と新館をつなぐ渡り通路には、点々と血の跡がのこっていた。エスティの血だ。右腕を負傷したあとレイチェルさんの寝室にいくまで、どうしても血がとまらず、床にぽたぽたと垂れ流してしまった血の跡だった。

 エスティの身体を支えながら、あたしはその血の跡をたどるように、渡り通路を旧館にむかってゆっくり進んでいった。昨夜夕食が終わったあとは、いもしない幽霊に怯えながら旧館にもどったものだったけれど、今回は、緊張こそしていたものの、恐怖はさほど感じていなかった。

 凶暴な怪物が館のどこかに潜んでいるという現実は──ふだんふつうに暮らしている家のなかでそんな危険に遭遇するなんて通常はまずありえないし、予想もできないわけだから──ある意味、いもしない幽霊よりもずっと非現実的すぎる。エスティが大怪我を負ったという現実をまのあたりにしてもなお、どこか他人事のような感覚が支配して、いまひとつ危機意識がもちきれない。

 状況的にはたしかに『恐く』はあったけれど、いま現在あたしが感じているそれは、理性でじゅうぶんコントロールできるていどの感覚だった。むしろこのときあたしの胸中に渦まいていたのは、怒りにも似た感情だった。

 まったくもって不条理だとしかいいようがない。いまいましい。どうしてあたしやエスティが、こんな不愉快千万な目に遭わなきゃならないの?

 いまごろ師匠はロスフェル研究所に泊まりこみ、なにも知らずにのうのうとしている(寝ている?)かもしれない。そう思うと、ますます腹がたってくる。無事朝を迎えることができたら、そして師匠が帰ってきたら、今度という今度ばかりは二、三発殴ってでも猛省させてみせる。ううん、そのていどじゃ気がすまないわ。怒り心頭に達したミリアム・マッキントッシュがどれほど恐い存在か、目にもの見せてやる──そんな決意を誓ってみると、すこしは発奮してくるというもの。がぜん、怪物退治にやる気がでてくる。ほかに鬱憤の晴らし口がないだけともいえるけど。

 通路を渡りきり、旧館端の階段の前までくると、エスティはあたしに立ち止まるううながしてきた。

「どうしたの、エスティ?」

「着替えはあとにする。そのまえに厨房にいって、腹ごしらえをしたい」

 エスティはまだ、失った血をとりもどすことに執着していた。あたしやエスティの部屋は旧館二階に、厨房は一階にある。いまあたしたちがいる場所は一階だから、さきに厨房にいこうという提案は、何度も階段をのぼりおりしないですむだけ合理的ではあった。

「ホントに、なにか食べるつもりなの? 食欲あるの?」

「食欲? ないよ。でも食べる。でないと身体が保たない」

 エスティの、その気力というか根性はたいしたものだと思う。

 あたしたちは、怪物とでくわさないよう周囲に意識を張り巡らせながら、一階の廊下を進んでいった。

 戦いの支度をひととおり整え終えるまで、怪物を探してなにかしようという気はない。闇雲に合成獣を探しだして挑むのは、ただの無謀。怪物退治の用意を準備万端を整えてからでないと、まず勝ち目はない。

 厨房へは一階の廊下側から直接はいることはできなくて、いったん食堂へまわらなければならない。

 その食堂の扉の前にきたとき、エスティがぎくっと身体をこわばらせた。

「ぼくらが小広間に夜食を運んだとき、ここの扉、ちゃんとしめたっけ?」

 いわれてみれば、食堂へつづく扉が大きくあいている。

 あたしは記憶をたぐった。小広間の扉ほどではないにせよ、やはりこの扉もたてつけが悪かった。だもんで、無意識のうちにしめ忘れることがたまにある。

「おぼえてないわ。だってあのときあたし、両手にお皿をもってたし」

「ぼくがさきに食堂をでて、そのあとをきみがつづいたんだったっけ?」

「そうよ」

「こいつは、足でつついて簡単にとじるほど軽い扉ではないし」

「じゃあ、しめ忘れたかもしれない」

「マズイな」

「なにが?」

「あいつが、腹をすかしている可能性があるって、前にいったよね?」

「あ──!」

 あたしは青くなった。

 厨房のさらに奥にある食糧庫には厳重な扉がついているので問題はないけど、食堂と厨房のあいだはしきりがあるだけで、扉のたぐいはいっさいついていない。厨房には、食べ物がいくつかおきっぱなしにしてある。

 すなわち、怪物が厨房に忍びこんでいる可能性がある……

「どうする? あきらめてさきに着替えにいく?」

 エスティはしばし思案してから、

「いや、とりあえず厨房をのぞいてみよう。慎重に行動すれば大丈夫だろう」

 なんだか自信なさげな口調。

 息を殺して、あたしたちは食堂にはいり、さらに厨房へと進んでいった。

 厨房は静寂につつまれていた。物音ひとつしない。ひんやりとしていて、肌寒かった。エスティの弱った身体にはいささか酷な冷えこみようだ。はやいとこ着替えもすまさなきゃ……と、そんなことを考えながら、あたしは真っ暗な部屋にランプをかざして──

「あっ!」

 思わず、声をあげた。

 かたわらで、エスティが息を呑む。

 怪物の姿はなかった。

 そのかわり、室内は無残に荒らされていた。

 戸棚においてあった調味料の缶がいくつも床に落ち、テーブルに積まれていたお皿の山が崩れ、生ゴミが捨てられていた屑籠がひっくりかえっている。サンドイッチをつくったあと朝食にまた食べるつもりでそのまま調理台の上においておいたコールドビーフのつつみが破かれ、中身がきれいさっぱり消失している。

「ということは、すくなくともあいつは、一度はここにきたわけだ」

「そうみたい。それで、目的の食べ物をむさぼり食って、またでていったんだわ。でも、なんだか妙な感じがするのは、あたしの気のせい?」

「いや、ぼくもそう思う。コールドビーフはこの部屋にはいってきてすぐ見つかる場所においてあったはずだし、それに肉の臭いだってかなりしたはずだ。なのにどうしてあいつ、こんなに部屋を散らかす必要があったんだろう? 牛肉にまっすぐむかっていってもよかったのに」

「それだけじゃ足りなくて、ほかにも食べ物を漁ったんじゃないかしら?」

「うん。それなら、屑籠が倒れている理由は納得できる。だけど、テーブル上の皿はなにかの拍子に崩れたとしても──あんな部屋のはじっこにあった調味料の缶まで床に落ちてるのはどういうわけだろう? この部屋の惨状はまるで、あいつが意味もなく暴れまわったような感じがする」

「師匠の部屋の惨状と、どこか似てるわ。合成獣キメラにまともな動物の行動習性を期待しても無駄ってことじゃないかしら? 意味もなく無性に暴れるのが好きな合成獣かもしれないもの」

「だとしたら、なおさら危……ん? あれは?」

 エスティはあたしより、はるかに観察眼に優れている。彼はあたしから離れ、調味料のおいてあった戸棚のそばにいった。そして、床にしゃがみこみ、なにやら調べだした。

「どしたの?」

 エスティに近づき、あたしも床を見た。

 血痕があった。床だけじゃなく、その付近の壁や棚にも、同じような血痕がところどころについていた。といってもエスティがぽたぽた垂れ流したような、あんなおびただしいものではなかった。指をちょっと切ったときに流れた血をなすりつけたような感じの血の跡だった。不気味ではあったけれど、そんな陰惨なものではなかった。

「なんの血?」

 あたしがきいても、エスティは沈黙したまま。

 今夜のエスティは、なにか新しい発見をするたび深刻な表情をしてばかりいる。だからあたしはいいかげん、彼につきあって不安がる気力はわかなかった。今夜はいろいろありすぎて、精神的に不感症になりかかっているみたい。いまさらなにを見ても驚く気にはなれなくて、出所不明の血痕なんかどうでもいいような気さえしてくる。

 それに、それがなんの血か、なんとなく見当もついた。きっと、怪物が鼠でもとらえて喰い殺したなごりかなにか。だからそこらを探せば、鼠の死骸も発見できるにちがいない……

 しばしの時間経過のあと、エスティは無言のまま立ちあがると、壁に背をもたれさせて、ふうっと息をついた。あきらかに疲れている。いつもは美麗でたくましいハーフウルフも、今夜ばかりはしおれ、本当に、弱々しい。

「大丈夫、エスティ? つらくない? それとも、傷が痛むの? 寒い?」

「いや、そうじゃない。ちょっとうちのめされただけだよ」

「うちのめされた?」

「ま、あね。けど……ま、いいさ」

 エスティはおかしなことをいう。この瞬間にも、回転のはやい彼の頭のなかでは、あたしには思いつかないようないろんな思索が渦巻いているにちがいない。ただこのときの彼の態度には、なにかを隠そうとしているような印象が、どことなくうかがえた。エスティは元来、秘密主義者ではない。だからそういう態度は、ある意味とっても不審すぎるんだけど……?

「それより、なにか血となり肉となるような食べ物がほしいな」

 そういってかぶりをふったエスティの左手に、奇妙な鳥の羽が一枚握られているのがちらっと見えた。それは真っ黒で、大きさからしてもカラスの羽のように見えた。

 どうしてカラスの羽がこの厨房に?

 その疑問を口にしようとしたときには、エスティは羽をズボンのポケットにしまいこんでいた。

 だからあたしは、その疑問を胸の内にしまいこむしかなかった。


 ふつうの家庭なら、カマドに火をおこすのはわりとたいへんな労働になる。

 まずはマッチなり火打ち石なりを使って紙かなんかに火をつけてから薪に移して、それからその火を少しずつ大きくしていく。火加減の調整も、なかなかむずかしい。

 けれどさいわい、ここには見習いとはいえ魔導士がいる。しかも攻撃系呪文を専門にしている。火をおこすのは、攻撃系呪文のなかでも基本中の基本術。

 だから呪文をぱぱっと唱えれば、それですむ。多大な火量が要求されるわけはでないので、火加減その他の制御もそんなにむずかしくない。

 あたしは厨房のカマドに火をおこすと、そのそばに椅子を一脚運び、エスティに座って休んでいるよう頼んだ。

 現在のところこの厨房に脅威がないことは判明していたので、エスティはおとなしくあたしの頼みにしたがってくれた。

 あたしは奥の食糧庫から食べ物をもちだした。ミルクに卵にベーコン、ハム、パン──いつもの朝食の材料。カマドの火で肉類と卵をささっと炒め、ミルクは呪文を使ってあたしの手のなかで直接温める。五分とかからず調理完了。

 あたしのつくったありあわせ料理を、エスティは無理やり胃袋におしこんでいった。とはいえ彼は冷静で、味わっている様子はなかったものの咀嚼には時間をかけていた。あたしも、食欲はなかったけれど、すこしだけ食べることにした。

 まだ雨はふっている。

 だからエスティの推論をあてにするなら、怪物はまだ館内にいる可能性が強い──楽観はできないけれど。

 とりあえずあたしたちは、敵がまだこの館にいると仮定して、これからの行動を決めなければならない。

 とはいうものの、このときあたしは、それとはまるで異なることに関心をだいていた。物を食べながら、深刻な話はしたくなかった。

「それはそうと、ねえ、エスティ? ずっと考えてたんだけど──どうでもいいことなんだけど、レイチェルさんのいってたあの幽霊話、あれが作り話だっていう確証って、結局なんなの? 矛盾があるっていってたけど、どうしてもわからなくって」

「ああ、あれ? なんだ、まだ悩んでたんだ」

「悩んでたわけじゃないけど、なんとなく気になって。だって、ほら、幽霊嫌いな人間としては、この館に幽霊が絶対にでないっていう保証がやっぱりほしいもの」

「単純なことさ」

 エスティは、ガチガチのパンをホットミルクにひたしながら、

「この旧館が何年前に建てられたか知ってるかい、ミリアム?」

「ええ……と、たしか二四〇年くらい前だって、以前レイチェルさんにきいたことがあるわ」

「それさえ知ってたら、矛盾もすぐわかるだろ? あの幽霊話が何年くらい前の話だとレイチェルさんがいってたか、それさえ思いだせればね」

 といわれても、しぶしぶレイチェルさんの話に耳をかたむけていたあたしが、そんな些細なことまでおぼえているはずがなかった。

「初代ソフィールズ侯アレクセイ・スタンフォードは、二八〇年前にソフィールズ地方の領主になった。これはたぶん本当のことだと思う。なのにソフィアの悲劇はその約十年後におこったと、レイチェルさんはいってた。そこが矛盾してる」

「──? どこが?」

 あたしのものわかりの悪さに、エスティは愉悦する。

「当時はまだ、この旧館は存在してなかったってことだよ」

「あ……」

 納得。

 あたしはなんだか拍子抜けしてしまった。

 仮にソフィアの悲劇が本当にあったことだとしても、それはこの館でおきた出来事ではありえない。

「そもそも初代ソフィールズ侯には息子がひとりしかいなくて、たしか名前も、エリックでもエドワードでもなくて、アルバートといったはずだし」

「そんなこと、よく知ってるわね、エスティ」

 ちょっと、びっくり。

「前にジャックさんに、スタンフォード一族の家系図を見せてもらったことがあるんだ。彼、一族と血縁なことを証明するため、いつも持ち歩いてるだろ」

「あ、うん。それなら、わたしも見せてもらったことある──」

 ジャックさんというのはもちろん、ソフィールズ館の居候のひとりでレイチェルさんの遠縁にあたる青年実業家ジャック・フォービル氏のこと。そういや商取引に必要な信頼と信用を得るのに、スタンフォードの名は大いに役にたつ。なので取引の現場で血縁関係があることを示すのに家系図は必携なんだと、以前、得意気に語っていたっけ。

「──って、じゃ、もしかしてエスティって、スタンフォード一族の代々の当主の名前とか、ぜんぶ覚えてるの?」

「まさか。さすがに十八代すべては無理だよ。初代から3代目くらいまで、たまたまなんとなく覚えてたってだけ」

 と、すこしばかり照れ臭そうにエスティはいい、

「ともかくソフィアの悲劇自体、十中八九、レイチェルさんの作り話だってこと。というわけで──」

 血肉の補給が終わると、立ちあがった。もう彼の目に笑いはなく、そのかわり、毅然とした決意と闘志が燃えている。

「それじゃ、そろそろいこうか、ミリアム」

 あたしはカマドの火を消し、エスティにふたたび肩を貸して、厨房をあとにした。


 あたしたちは旧館の中央階段をのぼって二階の廊下にでた。

 エスティは平静な顔をして階段をのぼったけれど、身体が密着していたあたしには、一段のぼるだけでも彼がなみならぬ努力をしていることが、手にとるようにわかった。

 表情こそ平気そうでも、動悸までは隠せない。彼の心臓のドクドクという激しい鼓動が、密着した部位をとおしてあたしの身体に伝わってきたのだった。体温も、あいかわらず冷たかった。食べたものが、そんなすぐ血となり肉となるわけじゃない。それどころか彼の体調を考えれば、なにかを口にしただけでも奇跡といえる。表面になるべくださないようにしているだけで、体力的にかなり苦しいのは明白だった。

 怪物との格闘で右の上腕部から肩にかけて骨までとどくかという傷を負い、出血多量。おまけに麻酔なしで、縫合手術に耐えぬいた。常人なら出血量を見ただけで弱音を吐いているところだろうし、手術後こんなすぐにおきあがって歩きまわれるはずもない。ハーフウルフとしての強靱な肉体に助けられているとはいえ、それでもかなり無理をしているという事実はかわらない。

 にもかかわらず。

 階段をのぼっていくにつれ疲労の色が濃くなっていく反面、エスティの全身からかもしだされる雰囲気は、峻厳で緊張感のにじんだものになっていく。

 憔悴していくだけよけい、内に秘められた人狼の血がエルフの血を凌駕し、表層に現れだしているかのようだった。獣人としての生存本能が、さし迫った危機を予感して、神経をぴんと張りつませる──そんな感じ。

 中央階段をあがって廊下を左にほんのちょっといったところに、あたしの部屋はある。

「まってて、エスティ。すぐ着替えてくるから」

 あたしは自室にはいり、扉をしめた。しわしわになった寝間着から、冬用の厚手の魔導衣に着替える。

 魔導衣は、魔導士の制服のようなもの。絹製のけっこう値のはるローブだけれど、魔導協会に登録された魔導士は(見習いもふくめて)協会から毎年夏と冬の二回、贈呈されるようになっているのでいっさい無料。衣の色は、治癒士は白、結界士は薄赤、守護士は薄青、攻撃士は黒というふうに決まっている。さらに見習いは襟もとに装飾模様がわずかに縫いこめられているだけだけど、正規魔導士になると、ランクが上になればなるほど全体にカラフルな装飾がはいって、よりきらびやかなものになる。

 魔導衣を着こむと、それだけでなんだか自分が一人前の魔導士になったような気分になってくる。呪文を使うのは精神労働だ。そういう点では、魔導衣のおかげで精神的に高揚し、心理的に自信がもてるというのは、頼もしいことだった。あるいはそういう精神高揚の効果を計算して、協会は魔導衣を無償支給してくれているのかもしれない。

「おまたせ」

 三分で着替えて部屋をでる。

 エスティの姿がなかった。

「エスティ?」

 あたりを見まわすと、エスティはおとなりの師匠の部屋の前でうずくまっていた。

 階段のぼりで体力を使いはたしたんだと思い、あたしは青くなった。

「エスティ!」

 悲鳴をあげ、あわてて駆けよる。

 けれど、

「どうした、ミリアム? なにびっくりしたような顔をしてるんだい?」

 エスティはなにごともなかったように顔をあげた。

 ほっとしたと同時に、いらぬ心配をさせてくれたことにいまいましさおぼえ、あたしの頬はぎこちなくひきつった。

「な、なにをしてるの……?」

「血の跡を調べてた」

「え?」

「なんともいやな相手だよ、ぼくたちのお相手は。よっぽど飢えてたのかもしれない。血を舐めとった跡があるんだ」

「舐めとった跡?」

 エスティが見ていたのは、自分がつけた血の跡だった。渡り通路とおなじで、二階廊下にも、エスティの流した生乾きの血の跡がぽつぽつとのこっていた。

 あたしは、彼がしゃがんで見ていたあたりに目をむけた。彼のいうとおりだった。彼が調べていた血痕は、まるで雑巾で無造作にぬぐったようにかすれ、薄く広がっていた。

 怪物がぴちゃぴちゃと血を舐めている光景を想像すると、ぞっとなる。

「ただの小竜レントが紳士に思えてくるよ、ミリアム」

 エスティは立ちあがり、力なく笑う。

「小竜に血を舐める習慣はないからね。けど問題の合成獣に血を好む性癖があるとすれば……」

 と、彼はそこからさきの言葉をつづけるのを一瞬躊躇して、

「くそっ、本当に厄介だ。鮫や吸血蝙蝠とおなじだよ。血の臭いでますます凶暴になる!」

 エスティのこの言葉は、合成獣の不気味さをさらに強くしただけだった。彼がなにを恐れているかはわかる。彼の身体には、彼自身が流した血の臭いが、まだかなり強烈に染みついている。となれば、敵をいたずらに興奮させてしまうことにもなりかねない。

 ここにいたってエスティの表情のなかに、あいつを退治するという決意のほかに、はたしてそれができるかどうかという迷いが見え隠れするようになってきた。もとより利き腕を負傷して足もともおぼつかない元冒険者と、自分の能力にいまひとつ自信がない見習い魔導士という、そんな頼りないコンビで、どんな潜在能力を秘めているかわからない合成獣キメラをやっつけようというのだから、客観的に見れば無謀な話すぎる。

「それじゃ、どうするの?」

 おそるおそる、あたしはきいた。

「そうだな……なにか武器が必要だよ。レイチェルさんから借りた短剣だけでは、さすがに心もとないから」

「たとえば?」

「たとえば……香水パフュームとか」


 もし合成獣が臭いに敏感なら、香水だって立派な武器になるかもしれないと、エスティはいう。

 なら師匠の部屋の前でいつまでもぐずぐずしている必要はなかった。

 あたしは自分の部屋にもどると香水の瓶を二本ひっつかみ、一本をエスティに手渡し、一本は魔導衣のポケットにいれた。以前レイチェルさんからもらった高級品だったけれど、もったいないと惜しんでいる状況ではなかった。

 そうして、あたしたちはエスティの部屋にむかって歩きだした。エスティの着替えをすませ、そのあと具体的な方策をたててから怪物退治にのりだすのが今後の予定だった。

 けれども、物事は予定どおりに運ぶとはかぎらないみたい。

 前にもいったように、エスティの部屋とあたしの部屋の中間あたりに、小広間がある。そして小広間の扉は、たてつけが悪く、いつもあけっぱなしになっていることも、承知のとおり。

 その扉のすきまから、明かりが煌々とこぼれていた。それ自体はべつに不思議なことではなかった。レイチェルさんに事態を知らせようと急いで部屋をでたとき、あたしたちは室内の状態はそのままにして──つまり照明具も暖炉の火もつけっぱなしのまま──広間をでたから。

 問題は、小広間の前をとおりすぎようとしたとき、エスティが火の不始末を気にしてふと、広間のなかをのぞきこんだことだった。

 暖炉によって暖まった小広間内のぽかぽかした空気が、ほのかに廊下にまで漏れていた。エスティは扉のすきまから首だけをつっこみ、ゆっくりと室内を見まわした。

 そして、身を凍らせ、緊張をにじませこうつぶやいた。

「あいつがいる」


 急転直下という言葉がある。

 物事が急激に変転し、気がつけば解決しているという意味。

 このときあたしが直面したのは、まさに急転直下な出来事だった。

 たぶん。

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