●──【11】リベンジのための下準備
一、戦争用に創られた合成獣が館のどこかをうろついている。
一、そいつが舘の外に逃げていってしまうまえに退治しないと、とんでもない惨事に発展しかねない。
あたしたちが現在陥っている状況は、言葉にすればたった二行ですんでしまう。
にもかかわらずそれはとても厄介な非常事態で、そういう事態において自分がどういう行動をとればいいのか──ということにかんして、ふだん波風たたない平和な生活をおくっている(というかおくりたいと願っている)あたしは素人だった。どこか常人離れした性格と感性をもつレイチェルさんでさえ、困惑を隠しきれていない。
だから結局のところ頼りになるのは、冒険者としてさまざまな危険をくぐってきた経験をもつエスティしかいなかった。
とはいえそのハーフウルフも、利き腕を負傷したうえ出血多過で体力が落ちているありさまでは、どこまで頼りになるか、頼りなかったんだけれど……
ベッドから立ちあがったエスティの足もとはふらついていた。
あたしは彼の身体を支えようと、腕をあわててさしのばした。
けれど彼はあたしの介助をことわった。
「ありがとう、ミリアム。だけど、支えはいらない」
「でも……」
「自力で立つこともできなきゃ、あいつを退治することなんかできやしない」
「そんな状態で、本気であの怪物ともう一度対戦するつもりなの?」
「いったろ? あいつを退治できるのは、ぼくだけだって」
心配するあたしにむけて、エスティは不敵に笑う。
あたしとしては、彼にはこのままベッドで休んでいてもらいたかった。けれど、いまの彼になにをいっても無駄だということも、わかっていた。
なぜなら、おのれの身をかえりみず戦おうとする意志──自己犠牲の精神──は、騎士の美徳だったから。エスティは騎士ではないけれど、元王宮騎士レスター・ムーアの教えを受けている。しかも彼はすでに二度、あの怪物に不覚をとっている。その屈辱を晴らしたいという想いもあるにちがいない。そういう感情にくらべれば、エスティにとって、右腕の痛みなんかものの数ではないのかもしれない。
右腕の苦痛に耐えつつ闘志を燃やす彼の顔は、凛々しかった。
「なにか武器になりそうなものはありますか、レイチェルさん?」
「護身用の短剣くらいなら」
「じゅうぶんです。お貸りします」
最初、レイチェルさんはためらったけれど、おとなしく休んでいなさいとエスティに命じても無駄なことを悟ってか、ベッドわきの小テーブルの引き出しからしぶしぶ短剣をとりだしてきた。
「まったく、そんな怪我をしてるくせにおとなしくできないなんて、とんでもないやんちゃ坊主だわ」
「すみません」
「それで、わたくしはこれからどうすればいいのかしら、エスティ?」
「どうって……」
「まさかこのまま、おとなしくこの部屋にとじこもっていろだなんて、いわないわよね?」
レイチェルさんはにこっと笑い、当然の権利を主張するようなしたたかな声でいった。それから、同意をもとめるようにあたしに顔をむけた。
「そういわれても」
エスティは困りはてた様子で、あたしとレイチェルさんの顔を交互に見やった。
「それが一番安全ですから」
「あたしたちはそんな臆病ではないつもりよ。ね、そうでしょう、ミリアム?」
「もちろんです」
きっぱり、あたしは返答した。
「あたしだって魔導士のはしくれだもの。いっしょに戦うわ」
「冗談じゃない。女性にそんな危ないマネをさせるわけにいくもんか!」
エスティは、泡を食ったように叫んだ。
けれど、重傷のエスティひとりを危険な目に遭わせ、自分たちは怪物の脅威のおよばない安全な場所でのうのうとしていられるようなあたしやレイチェルさんではあるはずがない。
「ことはあなたひとりの問題ではないのよ、エスティ。そりゃあ、わたくしは非力かもしれないけど、でも、なにか手伝えることはあるはずよね?」
レイチェルさんは頑固に主張し、
「ですが───」
と、エスティがなにかいいかけるや、彼の唇に指をそえ、黙らせた。
女侯爵の有無をいわさぬ大人の貫録の前では、さしものエスティも言葉に窮するしかない。彼はあきらめたように首をふった。
「……レイチェルさんはたしか、乗馬はできましたよね?」
「え? ええ」
だしぬけの質問に、女侯爵は一瞬戸惑い、
「最近は乗っていないし、あまり得意ではないけど、一応はね」
「それなら……」
エスティは好ましげにかぶりをふり、ふらつく足どりで窓のそばによった。左手でカーテンをあけ、窓の外をのぞいて、
「まだけっこう雨が降ってる。なら、たぶん……大丈夫か……」
と、独りごとをいってから、レイチェルさんにむきなおった。
「なら、ひとっ走りして、このことを父さんに知らせてくれませんか? ターンリィ橋のあたりに、まだいると思うんです。たしかにぼくひとりの手におえるような問題ではないですし、父さんがいてくれれば心強いですから。こんな夜更けに、おまけに雨のなか、もうしわけないんですが……」
「馬鹿ね。そんな恐縮は無用よ、エスティ。そういう役目なら、よろこんでするわよ」
レイチェルさんは口もとをほころばせた。そして、
「じゃ、さっそく支度をするわ」
といってうれしそうに衣装箪笥にむかい、唐突に、それまで着ていたネグリジェを脱ぎだした。下着もあらわな姿になって、黒い乗馬服に着替えはじめる。
焦ったのはエスティ。
「うわわ」
一瞬ぽかんとなったあと、彼は急にぎょっとなり、あわてて顔をそむけた。
血の気が失せていた彼の顔がいきおい真っ赤になったのが、あたしにはおかしかった。
「ね、エスティ?」
訴えるように、あたしはきいた。
「それだったら、無理してあなたがあの怪物を退治する必要はないんじゃない? レスターさんがくるまで、ここでおとなしく休んでたほうがいいと思うわ。そして、あとのことはレスターさんにまかせるの」
「できればそうしたいけど、やっぱりそうはいかないよ、ミリアム」
「どうして?」
「ターンリィ橋までだと、道もぬかるんでるだろうし、馬を飛ばしても片道四〇分以上はかかるだろうから。最低でも、往復一時間半弱。そのあいだに雨がやまないともかぎらない」
「雨がやむとマズイの?」
「雨が降っているかぎりは、あいつも館の外にでようとはしないと思うんだ」
「どうして?」
「合成獣のあいつが温血なのか冷血なのかはわからないけど──小竜が基本体なら、すくなくとも急激に体温を奪う雨のなかにわざわざ突っこんでいくようなマネはしないだろうから。いや、べつにどんな獣だって、こんな冷えこんだ夜に雨に打たれるのは好まないものだろうし──だから、雨が降っているうちが勝負どころなんだ。父さんの帰りをおとなしくまってるなんて、そんな悠長なことはできないよ」
あたしは片目をつむり、期待するようにエスティを見つめた。
「それで、あたしはどうすればいいの、エスティ?」
「きみはこの部屋で待機」
「それはお断り。あたしも、いっしょにいくわ」
「だめだ。危険すぎる」
「でも、サポートは必要よ」
「サポート?」
「どうやって合成獣を探しだすつもり?」
「それはもちろん、館中をしらみつぶしに」
「そんなふらついた足で?」
「え?」
あたしはエスティの胸を、軽くぽんと押した。
するとエスティはあっけなくバランスを崩し、仰向けにベッドへ倒れこんでしまった。
「ほらね」
エスティに腕をさしのぼしながら、あたしはにこっと笑いかけた。
「あたしでさえ、簡単にエスティを転ばせられる。出血多量で体力が極端に落ちてるってこと、認めるべきよ。館内を探索したって、すぐ体力を使いはたしてしまうわ。そんな状態で、合成獣と戦えるの?」
「それは……」
あたしの腕をつかみ、エスティはゆっくりおきあがる。それから、あたしの顔をじっと見つめて、ちいさく首を左右にふった。
「わかった。ぼくの負けだ、ミリアム」
そして彼は、あたしの肩に腕をまわしてきた。
一歩廊下にでたとたん、そこはなにがおこるかわからない危険地帯。
レイチェルさんを馬屋までおくる道すがら、どこに怪物が潜んでいてどこから襲ってくるかわからない。
エスティの緊張と苦しげな息づかいが、密着した肌をとおしてあたしにも伝わってくる。あたしに肩を借りながら、足をひきずるようにして歩く姿が痛々しい。
体力が落ちて血の気が失せた彼の肌は冷えきっている。なのに薄い汗がとまることなく膚からにじみだしている。
エスティがそんな状態だったというのに、あたしはといえば、心臓の高鳴りがとまらない状態だった。あたしも緊張していたけれど、それはどこかに潜んでいる危険のせいではなく、これ以上はないというくらいエスティと密着しているせいだった。
こんな非常時に不謹慎だと自分でもわかっていても、それでも、意中の男の子とこれほど接近遭遇している状況下で、意識しないでいるほうがむずかしい。彼の身体の状態とは逆に、あたしの体温はどんどん上昇していってる……みたいだった。
ソフィールズ館の馬屋は館からすこし離れた場所にあったけれど、新館の裏口とは木組みの屋根でつながっていたので、雨に濡れる心配はなかった。さいわい合成獣に襲われることもなく、あたしたちは無事馬屋についた。
「いい、エスティ? レスターさんがもどるまで、ことは慎重になさいね。怪物が館の外にでてしまわないよう見張るだけにするのよ。くれぐれも命を危険にさらすような馬鹿なまねだけはしないで。危ないと思ったら、すぐ逃げるのよ」
そう忠告をのこし、女侯爵は愛馬にまたがり、雨がふりそぼるなか宵闇に消えていく。
「さて、これからどうするの、エスティ? 館をくまなく探索するにせよ、どこから手をつけるか、すこしは対策を練ったほうがいいと思うんだけど」
「あ、うん。とりあえず、着替えがしたい」
「着替え?」
「さすがにいつまでもこの格好では、おちつかないから」
いまのエスティは、ベッドカバーを裂いてつくった花柄模様の包帯で右腕から胸のあたりをぐるぐる巻きにされ、その上から血まみれの上着を羽織っていた。なるほど、そんななりではたしかにおちつけないかも。
おまけに、あまり防寒にもなってない。体力の消耗を極力おさえなければならないというのに、いつまでもそんな格好では、あたしが肩を貸してる意味がない。衰弱した身体に、これ以上の冷気は厳禁。
「そうね」
あたしは同意した。
「あたしもいいかげん、寝間着姿でいるのにあきちゃったしね」