●──【10】縫い縫い
魔導士の道は容易ではない。
いくら才能があっても努力なくして一歩も前には進めない。魔導書のうわっ面にならんだ呪文をただ暗記して詠唱すれば、それで術が使えるようになるわけじゃあない。
剣を自分の身体の延長のようにあつかえなければ本物の剣士と認められないように、魔導士もまた呪文をおのれ自身の精神の延長のようにあつかえるようにならなければ、一人前とはみなされない。たったひとつの呪文をマスターするにも、たゆまぬ修行と血のにじむような努力が必要になる。それに要する期間を考えれば、すべての呪文を完璧に修得することなど並の技量ではできるはずもない。
現在、魔導術は大きく結界術、治癒術、守護系術、攻撃系術の四系統に分類されていて、魔導士を志す者は、潜在能力や性格その他の適性をみたうえで、まずはそれらのうちいずれか一系統のみを専門的に学ぶことになる。他系統の術の修得は、そのあとの話。
あたしの専門は攻撃系術だった。『攻撃』といっても、戦争やら対犯罪者相手に有用な物騒な術ばかりではなく、事故現場や災害時の救助活動にも活用できる術も多く含まれている。なのだけどいまの状況下で、まだ見習いにすぎないあたしが攻撃系の術をどう駆使しようと、現状を打開できるとは思えなかった。
エスティは重傷を負っている。せめてあたしがすでに一人前で、治癒術も多少は修めていたなら、いくらか彼の負傷を緩和させてあげられたのに……そう思うと、歯がゆくてたまらない。
エスティの怪我を前にしてただおろおろするしかない自分がやるせなく、そして悔しかった。
あたしはエスティに肩を貸し、渡り廊下をくぐって新館に移動し、レイチェルさんの寝室の前までくると、扉を強くノックした。
「──しょうがないわね。じゃ、縫いましょ、エスティ」
エスティの怪我の具合を丹念に調べる女侯爵は、無残にひき裂かれた血みどろの傷口を目のあたりにしても顔色ひとつ変えずおちついていた。
一方、
「じゃあ、そうしてください」
とくに臆することもなくあっさり女侯爵の言葉を受けいれたハーフウルフは、レイチェルさんのベッドになかば強制的に横たえられたまま、ひどく目の遣り場に困っていた。表情を堅くし、しきりに身体をもじもじさせていた。
薄く透けた半透明の黒いネグリジェの上に黒いナイトローブを羽織っただけという、あられもない姿のレイチェルさんにほとんど密着されたような状態なんだから、それも無理ない反応……かもしれない。
女侯爵の熟れた身体の線をくっきりうきあがらせているネグリジェの襟ぐりからのぞく豊満な胸の谷間がエスティの鼻先につきだされていたし、ローブのすきまからは、すらっとした真っ白な内腿が見え隠れしていた。その妖艶さには、正直、女のあたしでさえ思わず目が奪われてしまうほど。
どうして女侯爵がそんな格好をしているかといえば、たんに着替える余裕がなかったから。熟睡していたところをいきなり叩きおこされ、血みどろの下宿人が部屋にかつぎこまれてきた状況下では、さすがに着替えはあとまわしにされる。
事情の説明もあとまわしにされた。レイチェルさんは、ベッドに横になるようエスティに指示するや、さっそく傷を調べはじめた。エスティの傷は完全に骨まで達していて、肩を縛ったくらいでは血はとうてい止まりそうになかった。
そこでレイチェルさんは近郊の医者か治癒士を呼びにいこうとしたけれど、エスティは、そんなのは夜があけてからでいいと断ってしまった。
「完全にドアをしめきっているかぎり、すくなくともこの部屋は安全です。だけど朝になるまでは、部屋の外にはでないほうがいいんです」
事情を知らないとはいえ一応エスティの言葉を受けいれた女侯爵は、そのかわり、応急処置として縫合手術をおこなうことにしたわけだった。
とはいえ、裁縫用の針と糸以外、道具はなにもなし。
「困ったわ。消毒薬も麻酔薬もなにもないのよ。せめてその代用になるものは……そうだわ、ブランデーが客間にあったはず。まってて、いまとってくるから」
そういって部屋をでていきかけたレイチェルさんを、エスティはあわててひきとめた。
「その必要はいりません。ぼくはお酒は飲みませんよ」
「そうはいってもねえ……」
「とにかく、この部屋の外にはでてもらいたくないんです。ぼくなら平気ですから」
「だけど……」
「大丈夫です。多少痛くても、死ぬわけじゃない」
「わかったわ。じゃ、口をあけて」
レイチェルさんは、エスティの口にタオルをかませた。
嵐はだいぶ去っていたけど、雨はまだ強く降っていた。あたしは窓をあけると器になりそうなものを探しだして雨水をあつめ、呪文を使って一度沸騰させてから、ぬるま湯にした。
そのあいだにレイチェルさんはベッドカバーをハサミで裂いて包帯をつくり、さらに裁縫用の針を蝋燭の火であぶって糸をとおし終えていた。
「ミリアム、彼の身体をしっかりおさえているのよ」
「は、はい!」
「覚悟はいいわね、エスティ?」
エスティがうなずくや、レイチェルさんは彼の右腕をぶすりと刺した。そして、驚くほどの冷静さで縫合作業をしていった。
刺繍をしているような手さばきだった。
十年以上も前、まだ聖フェンウィック王国が戦争をしていたころ、女侯爵は戦地からもどってきた負傷者たちを収容するため、一時このソフィールズ館を病院として解放していたという。エスティの傷を見ても臆する様子がまったくなかったのは、そのころ、もっとひどい怪我人を大勢看ていたからかもしれない。
けれど、あたしにとってはなんとも恐ろしい光景だった。
エスティの全身から、だくだくと汗がにじみでる。いくら人狼の屈強な体質を体内に秘めているからといっても、いくら苦痛に対する耐性が常人より強いといっても、痛いものはやはり痛いにきまっている。
エスティは、何度も何度も身をよじり、目をかっと見ひらき、背中をのけぞらせた。そのたびに、あたしは無我夢中で彼の身体をおさえこまなければならなかった。真っ赤に染まった彼の右腕が、麻酔なしで傷口を縫いあわされる激痛がどれほどのものか想像すると、あたしのほうが気が遠くなってくる。
悪い夢でも見てるような気分だった。たしかに今夜は、ひどい嵐にみまわれ、館の居候たちも出払い、いつもとちがう雰囲気があった。けれど、いったいだれが、こんな血なまぐさい夜になると予想したかしら?
すべては師匠が悪い。
師匠があんな荷物をあずけてさえいかなかったら、エスティがこんな目に遭うことはなかった。あたしは無力だ。師匠のお目つけ役なのに、その義務をなにもはたしていない。
そんな思いにかられながら、あたしは苦痛に歪むエスティの顔を、彼が苦しみもがく姿を、目に焼きつけていった。彼の怪我の原因が自分にもあると思えば、あたしは目をそらすことができなかった。
それにしても。
一瞬でエスティにこんな手傷を負わすことのできる怪物が、この館のどこかを現在も徘徊していると思うと、あらためて背筋が凍る。
「終わったわ。ミリアム、包帯をまいてあげて」
レイチェルさんがほっと息をつき、汗をぬぐったときには、エスティは疲労困憊のきわみに達していた。それでも彼は、息もたえだえに礼を述べた。
「すみません、貴女にこんなことをさせて──ありがとうございます」
「たいしたものだわ」
あたしが用意したお湯で手を洗いながら、レイチェルさんは微笑した。
「ふつうなら気絶したっておかしくないのに、よく耐えたものね。夜があけたら治癒士を呼ぶから、ちゃんと診てもらうのよ。いい、エスティ?」
「ええ、わかってます。ところで、なにか食べるものはありますか、この部屋に?」
「食べ物?」
「そうです」
ハーフウルフのこの注文には、さすがのレイチェルさんもたじろいだ風だった。
あたしも正直驚きを隠せず、包帯を巻く手が一瞬とまった。
あれだけ苦痛を味わったあとに、ふつう、食欲を感じるものなのかしら?
レイチェルさんは胸下で腕を組んで、エスティを見おろした。いたずら小僧をたしなめる母親のような剣幕で、
「馬鹿なことをいわないで。縫合が終わったばかりなのよ。食べても、すぐもどすだけよ」
「大丈夫です。失った血のぶんだけ、補給しておきたいんです。いまは、すこしでも体力を回復させておくことを第一に考える必要がありますから」
苦痛によどんだエスティの瞳の奥に闘志が宿るのを、あたしは見逃さなかった。
「怪我人はおとなしく休んでなさい」
両脇に手をそえ、女侯爵は語気荒くエスティをたしなめる。
「朝食も、スープかお粥しか口にしてはだめよ」
「あいつを放っておくことはできないんです」
「あいつ?」
「無茶よ、エスティ!」
レイチェルさんが戸惑い、あたしはいきなり半身をおこそうとしたエスティの胸をあわててベッドに押しもどした。
「離してくれ、ミリアム」
エスティは、まるでだだをこねる子供のようだった。なんだか、ずいぶん焦っている。縫合手術のせいで、いくぶん興奮しているのかもしれない。
「だめ! 冷静になってよ、エスティ」
「ぼくは冷静だよ。たかが腕の傷だ。止血さえ終われば、もう、どうってことはない。それより、あいつをこのままにしておけば、いずれどんな惨事になるかわからないんだ。それが、心配なんだ」
「でも、この部屋にとじこもっていれば安全なんでしょう? 朝になればレスターさんも帰ってくるし。だから、エスティは心配しないで休んでればいいのよ」
「そうじゃない。ぼくが不安なのは、チャンドラ師匠の部屋の窓が割れたままだってことだ。もしあいつが、そこから外に逃げだしたら……いや、廊下の端や階段の踊り場にある窓をぶち破ることだってあるかもしれない。とにかく、あいつが外に逃げだしたらどうなると思う、ミリアム?」
「どうって……」
「平和なソフィールズ領内に、凶悪な猛獣を放つことになる。いや、へたをすればそれ以上の災厄をまきおこすことにもなりかねない。だから、あいつがこの館にいるうちに、退治しなくちゃならないんだ。そして、それができるのは、ぼくだけなんだ」
「でも」
「あー、はいはい」
レイチェルさんが、しかめっ面をうかべてあたしたちの会話に割りこんできた。
「お話しの途中もうしわけないけれど、そろそろ、わたくしにも事情を教えていただけるかしら?」
「まあ、それは怖いわねえ」
どれだけ肝のすわった人物でも、獰猛な怪物が館をうろついてると知れば、ふつうは青ざめたりうろたえたりするものだろう。なのにレイチェルさんの反応は、まるで他人事のようだった。
「それで、あなたに傷を負わせたその怪物は、あなたが知っているどんな小竜でもなかったわけなのね?」
「ええ。まあ、基本はまちがいなく小竜でしたけどね」
エスティは、痛みが気になるのか、それとも腕から肩、胸にかけてぐるぐるとみっともなく巻かれた包帯──あたしは包帯巻きみたいなしおらしい作業は苦手で、どうやっても上手に巻けなかった──が気になるのか、しきりに右腕を気にしながら、うなずいた。
怪物の正体については、あたしも気になるところだった。あたしが小広間でちらっと見たあの影を小竜だと断言したのはエスティだ。そのエスティが、いまになってあれは小竜ではなかったと言葉をひるがえした。
ならエスティは、あの暗い師匠の部屋で、いったいなにと戦ったの?
エスティはあたしに顔をむけた。
「それでミリアム、あいつのことを説明するまえに、ひとつ確認しておきたいことがあるんだけど」
「なに?」
「チャンドラ師匠って、生物魔学にはくわしいのかな?」
「生物魔学? そりゃあ、くわしいはずよ。というより師匠はこと魔導学に関しちゃ、あらゆる分野で第一人者だもの。だけど、生物魔学がどうかしたの?」
「生物魔学って、おもになにをする学問だい?」
「え? もちろん、合成獣とか創る……」
あたしはエスティを凝視した。
「まさか?」
うなずくかわりに、エスティは左の肩をちいさくゆすった。
「つまり、そういうことさ。たぶんあいつは、小竜を基本体として人工的に生みだされた、文字どおりの怪物なんだ。戦時中、戦いの道具として創りだされた悪魔の申し子。だとしたら、ただの小竜なんかとはくらべものにならないくらい厄介な相手かもしれない」
それがなにを意味するか理解したとたん、あたしは目の前が真っ暗になった。
あたしは今夜は、すでに何度も悪夢のような体験をしたつもりだった。
けたたましい雷に怯え、いもしないソフィアの亡霊に悩まされ、師匠の部屋でおこったニセの騒々しい幽霊現象に怖じけづいて、エスティの顔を見て気絶し、得体の知れない怪物に襲われかけてエスティが負傷し、そのあと血だらけの縫合手術に立ち会った。
けれども、師匠が合成獣をもちこんだというエスティの推測は、それらにも増してあたしを悪夢のなかにひきずりこむのにじゅうぶんだった。
それこそ、頭のなかに大砲の直撃をくらったような衝撃を受けたといっても、いいすぎじゃない。
合成獣。
さまざまな動植物の特質の一部をとりだし、かけあわせることによって生みだされる人造生物。自然界には決して存在してはならない呪われた生物。
まだあたしが物心つくかつかないかのころにおきた魔境戦争のとき、各国が魔境国との戦いを有利に進めるためにこぞって創りだした魔導生物。
戦争が終結すると、その多くは国際条約にしたがって処分されたことになっているけれど、じっさいにはまだかなりの数が各地の魔導研究所内にて厳重な結界のもと、封印保管されているといわれている。一応は機密事項なんだろうけど、一介の見習い魔導士でも知ってるくらい有名な醜聞話だったりする。
そうした合成獣がなんらかの事情で逃げだし、とんでもない事件をおこしたというニュースを、いまでもたまに耳にする。
たとえば我がフェンウィック王国でも六年前、王都ロスクロス近郊のとある町が、魔導研究所から逃げだしたたった一匹の合成獣に襲われ、住人の半数が犠牲になるという悲惨な事件があった。そのときは、三人の攻撃士と二人の守護士を擁する王国陸軍の一個大隊が動員され、ようやく事態の収拾がついたらしい。
さらにこのサーリアでも、つい半年ほど前に合成獣がらみの事件がおきたばかりで、このときは市民六名が重軽傷を負うだけで死者はださずにすんだものの、後味の悪い結末をのこした。
もし師匠が本当に、ロスフェル研究所から合成獣をあずかってきたのなら、そしてその合成獣が逃げだして──六年前の惨事をひきおこしかねない事態をつくってしまったとしたら、あたしの目の前が真っ暗になった心境もわかってもらえるだろう。
それは、酔っぱらった魔導士が屋根を吹き飛ばすとか、他人の家屋を破壊するとかいったこととは、まるで規模の異なる大問題になる。
エスティは、自分の右腕に傷をつけたあの怪物は、基本体はまちがいなく小竜だったと語った。すくなくとも、最初に小広間に忍びこんできたのはそうだった。寝たふりをしつつもそいつの行動をじっとうかがっていたから、どんな姿をしていたかは断言できる。
ところが師匠の部屋で襲ってきたやつは、あきらかに異形だったという。大きめの鶏くらいの図体をしていて全身が硬い鱗で覆われていたという点では、ふつうの小竜と変わらなかった。ただし首の裏側にサラブレッドのようなたてがみがついていたのと、こめかみのあたりに縮小化された牛の角がついていたことが、ただの小竜と異なっていたらしい。
さらに、そいつの尻尾はさながら蛇のように長く、とぐろを巻いていたとも、エスティはいった。
つまるところ師匠がもちこんだ合成獣は、小竜と馬と牛と蛇がかけあわされたものと考えられる。不気味な啼き声をあげていたことから、ほかにもなにかまざっているかもしれないけれど、それは創った連中以外にはわからない。
「でも、それって変じゃない? 小広間で見たのと師匠の部屋にいたのとで外見がちがってたってことでしょ?」
「通常は基本体の姿をしていて、興奮すると本性を現すタイプなのかもしれない。形態変化する魔属は、そんなにめずらしくないし」
エスティをなにより畏怖させたのは、そういうわけのわからない怪物が、従来の小竜以上の瞬発力と怪力をもっていたということだった。そのせいで彼は、あの戦いのとき不意をつかれた形になり、怪物をとり逃がしてしまった。
小型の魔獣だからといってあなどると、とんでもないことになるとエスティはさらにいう。合成獣はたいていが戦争用に創られているから、凶暴だ。もともと基本体である小竜自体に、人を簡単に殺傷する能力や卓越した怪力と敏捷性がそなわっている。それがより強化されているとすれば、常人ではまず倒せない。捕らえきれない。
そんな怪物が館から逃げだして野放しになるのを、エスティは恐れている……
「なんにせよ、放っておくわけにはいかないというのは、理解したわ」
と、レイチェルさんがいった。もともと笑い顔の人だからあまり困った風には見えないけれど、さすがに声色に不安がにじんでいる。ソフィールズ領内には六つの村があって、六百人以上が暮らしている。小竜の合成獣が逃げだして、そうした村々で六年前王都近くの町でおきたような惨事をひきおこすようなことだけは、領主として絶対に避けたいところだろう。
「領内の人たちの安全を考えれば、迅速に退治しないわけにはいかないわね」
「そして、それができるのはぼくだけです」
「でも」
あたしは、暗澹たる気分でいっぱいだった。
「師匠はなんだってそんな危険な怪物を、研究所からあずかってきたのかしら」
「それは、本人にきいてみないとわからないよ。とにかくいまは、合成獣を退治することだけを考えよう」
そういって、エスティはベッドから立ちあがろうとする。絶対の安静が必要な身体だというのに、いったい彼の闘志はどこからわいてくるのかしら?
あたしには、それが不思議でしょうがなかった。