幕間 夢
僕は、どこか、薄暗い海岸を歩いていた。
「お兄ちゃん」
隣で遙名が、僕の腕を引っ張った。
「静かだね」
「そうだな」
海岸の波打ち際を沿うようにして、二人、歩く。
左に海、右には森。
静かな波の音。
潮の匂い。
時折、風が吹いて、木々を揺らす。
微かな葉音。
「大丈夫。心配しないで、お兄ちゃん」
遙名が優しく言う。
「未来は助かるから」
言われて僕は、これがただの夢ではないことに気がつく。
僕は遙名に目をやる。
「幻だと思ってる? お兄ちゃんの見てる、ただの夢だって」
遙名は、悲しく首を傾けた。
「信じてくれなくてもいいよ」
けどね、と遙名は続ける。
「私は、今、ここにいるんだ。信じてもらえないかな」
「いいや」
僕は遙名の頭を撫でる。
「いいや、そんなことはない」
えへへ、と未来が駆け足で前に進む。
「ね、お兄ちゃん」
「何だい」
「もし生まれ変わっても」
前を歩いていた遙名が、後ろ手を組んで、くるっと振り返った。
「また、遙名のお兄ちゃんになってくれる?」
ああ――。
ああ。ああ。もちろんだよ。
涙が溢れそうになる。
けれど、その涙も、遙名の明るい笑みを見つめていると、どこかへ消えてしまった。
「さて、と」
遙名が、微かに目を伏せる。
「お兄ちゃんは帰らなきゃ。分かってるでしょ?」
「僕は」
「待ってくれている人たちがいるんでしょ。ね?」
「――ああ」
「じゃあ、帰らないとね」
遙名の笑み。
そうだ。
これが、夢なのだとしたら。
光と影、生者と死者、僕と遙名、そして、朝と夜を繋ぐものなのだとしたら。
夢は、朝へと繋がるものだから。
明日へと繋がるものだから。
僕は、目覚めなければならない。
そして、朝へ、明日へと、進まなければならない。
それが、夢というものだから。
夢は、過去を懐かしむ場所ではない。
過去を未来に繋げる場所だ。
「見て」
遙名が、細波の向こう、水平線を指差す。
「太陽が、昇るよ」
細い光の筋。
水平線に沿うように、広がっていく。
それと同時に。
僕と遙名の背後、地面にひびが入る。
二人を繋いでいる、この世界が、夢が、崩壊しようとしているのが分かった。
ひびが広がる。
音を立てて、周囲の闇が崩れ始める。
「これからどうなる?」
遙名に問う。
「帰るの。お兄ちゃんはお兄ちゃんのいるべき場所に。私は、私の行くべき場所に」
遙名が、再び笑みを浮かべる。
けど、その笑みは、どこか無理をしているように見えた。
「遙名」
妹の肩を抱く。
すると、妹は、僕の胸に顔を押し当ててきた。
その手が震えている。
妹は泣いていた。
「嫌だよ」
声を上げて、妹は泣いていた。
「怖いよ、お兄ちゃん。一人になるのは、怖いよ」
大声で、まるで赤ん坊のように泣きじゃくりながら、遙名は言葉を紡いだ。
強がって、兄貴を励ましてみせた妹。
僕の方が、妹を支えてやらなければいけないのに。
ごめんな。
妹は、僕に必死でしがみつき、泣いた。
「ここにいたいよ。いなくなりたくないよ。私、消えたくないよ」
大粒の涙を零しながら、妹が苦しみを、悲しみを訴える。
僕は、真摯に耳を傾ける。
「怖いよ。怖かったよ。ずっと、ずっとずっと、怖かったよ」
僕は、遙名の頭を優しく撫でた。
「大丈夫。いなくなるわけじゃない」
屈んで、遙名の目を、正面から見つめる。
「遙名は、僕の中に、ずっと残ってる。だから、いなくなるわけじゃない」
「もう、お兄ちゃんと会えないよ」
「夢で、会えるさ。今のように」
「本当?」
「本当だ」
「重荷じゃない?」
「そんなわけないだろ」
心細げな妹。
小さな、僕の妹。
僕は、自らの心に決断を下す。
「よし。分かった。僕も、ここに残るよ」
「え?」
「ここに、二人でいよう。そしたら、寂しくないだろう?」
「そんなの……駄目」
「いいんだ」
「駄目だよ、お兄ちゃんは、」
「遙名」
僕は遙名を抱きしめる。
「ここにいよう。僕はそれでいい。それが僕の望みだ」
しばしの沈黙の後――。
遙名は、僕の胸から、少しだけ身を離した。
「お兄ちゃん」
「うん?」
ありがとう。
とん、と遙名が僕の胸を押す。
「遙名――?」
僕は、バランスを崩し、ひび割れた地面へと倒れていく。
遙名の、悲しそうな、けれども幸せそうな瞳が、こちらを見つめている。
ここで、
遙名が囁く。
ここで、お兄ちゃんと一緒にいたかったよ。
でも、そう思ってくれるだけで充分なの。
それだけで、充分なの。
幸せなんだよ、お兄ちゃん。
遙名。
どこまでも落ちていきながら、その名を叫んだ。
長く、長く。
ぐんぐん遙名の立つ地が遠ざかっていく。
遙名が小さくこちらを見下ろしている。
その瞳から零れ落ちた涙が、すうっと突き抜けてきて、僕の頬に当たった。
さようなら、お兄ちゃん。
唇が、そう紡ぐ。
それが妹の覚悟なのだろう。
それならば、僕も、その覚悟を背負って、生きよう。
僕は自然と微笑みかけていた。
落ちていく。
現実へと、落ちていく。
繋がる明日へと、落ち続けていく。
さようなら。
さようなら、僕の妹。
僕は、明日へ行くよ。
お前の夢を渡って。
お前の夢を背負って。
明日へ、行くよ。
ありがとうな。
落ち続けていく闇が、一斉に輝き始めた。
これが夜明け。
光に呑まれながら、僕は思う。
明日への、夜明けだ。
夢は、朝へと繋がるものだから。
明日へと繋がるものだから。
これが夢なのなら。
妹の夢が、辛く悲しい夢になるのではなく。
温かく、爽やかに次の日を迎えられるような夢であるように。
僕は、この夢を、守ろう。
光が周囲を埋め尽くし、やがて、何も見えなくなる。
僕を見つめる妹の姿も。
薄く、光に溶け込んでいった。




