5-5 合流
――十字弓を握り締めた。
足をしっかりと地に立て、倒れるのを防ぐ。
「あああああ!」
何もかもを吹き飛ばすように、大声を張り上げ、踏ん張った。
体勢を立て直す。
夢を見ていたのは、ほんの一瞬のことだったらしい。
目の前には、今にも杭を振り下ろそうとしている男の姿。
――お兄ちゃん、あたし、あたしね、
今も耳元に。
妹の声が聞こえる。
――お兄ちゃんの妹で、良かったよ。
忘れては、ならない。
僕は、僕だ!
十字弓を突き出す。
素早く、正確に。
何の躊躇いもなく。
杭を振り上げた男の姿。
その眼が、驚愕のあまり見開かれる。
僕は男の肩を撃ち抜いた。
男が後ろ向きに倒れる。
杭が、音を立てて床に転がる。
「悪いな」
僕は、男に刺された腹に触れる。
傷一つ無い、腹。
「僕は、普通とは違うんだ」
あのとき――
――両の手で、自らの血と妹の血が、混じり合っている。
あのとき。
妹の血は、僕の体内へと取り込まれた。
呪われた血。
微量であるが故に、僕は吸血症にはかからなかった。
けれども、その呪いの一部を受け取った。
傷口から僕の体内に入り込んだ妹の血は、僕の血の内に溶け込んだ。
その血は、僕の細胞に変化を促し、そうして。
僕は、簡単には死なない身体となったのだ。
もちろん、吸血症患者ほどのものではない。
他人よりも少しは老けにくいだろうが、不老というわけでもない。
その代わり、銀も十字架も平気だし、光にも影響を受けない。
僕は、非感染者でありながら、呪いを受け取った。
どうして、と論理的に説明することは、僕にはできない。
それが妹の血だったから。
血の繋がった妹の血だったから。
僕が殺した妹の血だから。
そういう風にしか、僕には説明できない。
妹の血は、僕の中で生き続けている。
さあ、来いよ。
僕は、何もかもを見据えて呟いた。
苦痛も、悲劇も、僕の中の身勝手な哀しみも、ここまでだ。
完膚無きまでに叩きのめしてやる。
これ以上ないほど打ちのめしてやる。
宗徒が駆け寄ってくる。
僕は地を蹴った。
進化した運動能力。
宗徒の顔面を蹴り上げる。
次の宗徒が杭を突き出してくる。
コンマ秒差で、僕はその杭を回避する。
と同時に、相手の顔面に裏拳を叩き込む。
「悪鬼!」
もはや聞き飽きた声が聞こえてくる。
仲多が、仁王立ちしていた。
その足下には、杭を胸に突き刺された、動かぬ屍。
「悪鬼め!」
仲多は、屍から引き抜いた杭を僕に向け、突進してきた。
仲多益美。
僕は、微かな哀れみすら覚えた。
突進してきた仲多の杭を避け、足で、相手の膝を払う。
仲多が、獣のような声を発しながら、倒れた。
その手から、杭が離れる。
僕は、その杭を空中でキャッチし、くるっと回転させ、尖っていない側を、そのまま仲多の顔面にぶつけた。
ぐっという呻き声。
仲多が倒れ込む。
僕は杭を投げ捨てた。
起き上がれる宗徒は、誰一人、残っていない。
屍も、無事に残ったのは、どうやら一体だけのようだった。
その一匹が、未来に走り寄ろうとする僕の前に、立ち塞がる。
「手を貸してくれて、礼を言う」
僕は屍に言った。
まさか、屍に話しかけるときがくるとは、思わなかった。
「戻って、九条に伝えろ。僕は、あなたとは違う、と」
僕がそう言うと、屍は、僕の後方に目をやった。
何だ?
僕は目を細める。
「それが君の答えか?」
振り向かなくても分かった。
九条の声だ。
がっと、首筋に衝撃があった。
殴られたらしい。
膝をつく。
足音。
背後に立っていたらしい九条が、僕の前へと回り込んできた。
「私を否定するか」
「否定はしない。理解もできる。だが、僕とは違う」
ふん、と九条が笑い、僕の腹に蹴りを入れた。
激痛。
僕は膝をついたまま前に倒れ、額を床にぶつけた。
「少し教育が必要なようだね、辰比良君」
喋りながら、ポケットに手を突っ込んだ格好で、僕に蹴りを入れ続ける九条。
「残念だよ、君の血は本当に美味しかったんだが」
顔面に蹴り。
床に倒れる。
「駄目じゃないか、大人の言うことに逆らったりしちゃあ」
反撃しようとするが、九条はすべて先読みし、攻撃してくる。
まるで隙がなかった。
「君なら分かってくれると思った。だからこうして力も貸してあげたのに」
「一緒に、するな、」
「おや。何だって?」
「変態……野郎」
「言うじゃないか」
蹴り。
口から血が出た。
「痛いだろ。苦しいだろう。そこから逃れたいと思うだろう」
僕の周囲をぐるぐると歩き回る九条。
「なんと脆弱な……脆い……」
九条の言葉が闇にこだまする。
「すべてはね、君を仲間にするために組み立てたんだよ」
一人は寂しいからね、と九条は笑う。
「それなのに、君は私が思ったような人間ではなかったらしい。残念だ。非常に残念だよ。君には失望した。君は小さな人間だった。ごく普通の、その辺の屑と一緒だった」
「一人、で、狂う、のは、怖かった、んだな」
僕は必死で言葉を紡ぐ。
「だから、仲間、が、欲しかった、んだ、自分、を、肯定して、くれる、傷を、舐め合うような、仲間、が、自分、が、自分、で、安心、できるよう、に、」
「もういい。喋るな」
格別重い蹴りがきた。
図星だな、とぼんやり思う。
確かに九条、僕とあなたは似ていたんだ。
そうも思う。
けれど、僕はやはり、あなたとは違う。
何故なら。
「あなたは、一人だ」
九条が、動きを止める。
「みんな、狂っている、という、証拠、が、欲しかった、んだろ、自分では、なく、世界が、世界の人間、すべて、が、狂っている、という、証拠が」
僕は、顔を上げ、笑みを浮かべて見せた。
「あなたは一人だ」
「馬鹿を言うな!」
九条が声を張り上げる。
「そんなに、お仲間が、欲しい、なら」
僕は両手に全神経を集中させ、起き上がろうとする。
口を動かし続ける。
「周り、を、見て、みろ」
倒れている宗徒たち。
九条が忌み嫌う非感染者。
「仲間が、転がって、る、ぞ」
それは、強烈な侮辱だったらしかった。
九条が、勢い良く足を振り上げた。
動け!
僕は全力を両手に注ぎ、一気に上半身を持ち上げると、九条の足をつかんだ。
そのまま、思いきり強く捻る。
九条が呻き声を上げ、倒れ込む。
その上に僕はのしかかり、その顔を殴りつけた。
天井から唸り声。
拳を止める。
頭上を見上げる。
屍が、少なく見て十数匹、天井を蠢いていた。
九条が起き上がり、僕を放り投げる。
僕は、悲鳴を上げながら、壁に叩きつけられた。
身を起こすと、既に九条の姿はない。
逃げられたのだ。
天井を見上げる。
闇に蠢く、無数の影。
そいつらが、一斉に、僕に向かって、降りかかってくる――
「竜平!」
「タツ!」
声が響いた。
突き刺すような強い光が、屍たちに浴びせられた。
屍の悲鳴。
光を連れて、南が現れた。
その後ろから、来栖が飛び出してきて、近くの屍に槍を突き刺した。
他の屍が奇声を発する。
と同時に、その屍が、銃弾を食らって弾け飛んだ。
小鳥遊。
その手に握られた拳銃が、屍たちに向けられる。
「もうすぐ、増援も来るから!」
「どうして、ここに」
身を起こしながら、訊ねる。
「あんたをつけてたのよ、ごめんね!」
と南。
「どうして、どうして」
「あんたが心配だったから! 決まってるじゃない!」
「タツ!」
来栖が槍を引き抜きながら叫んだ。
「俺たちが援護する! 助けろ!」
「え――?」
「その子を助けろ!」
ああ――。
僕は、大声で叫び返した。
「ありがとう!」
未来のもとへと走る。
磔にされた未来は、見るからにぐったりとしている。
当たり前だ。
相当に辛かったはずだ。
可哀想に。
「ごめんな。少し我慢してくれ」
呟いて、
――今、外してやる。
(僕は、ベッドに縛りつけられた妹に近寄ると、強固に結ばれている縄をつかんだ)
未来の掌を貫通した杭に手をかけ、
(途中から、妹が暴れ始めたことを、僕はあまり意識していなかった)
一気に引き抜いた。
(早く助けてくれ、そう言っているように思えた)
もう片方の手も、すぐに引き抜く。
――大丈夫か?
「大丈夫か?」
(そう言って伸ばした僕の手を、)
伸ばした僕の手を、
(妹は唸って弾いた)
未来の唸り。
弾かれる僕の手。
しばし、世界が静止した。
僕は呆然と、目の前の未来を見つめた。
そこで思い至る。
未来は、いったい、いつから血を吸っていない?
夏休み前夜祭の、朝からではないか?
まさか。
まさか、そんな。
未来が、僕に飛びかかってきた。
僕は、そのまま押し倒され、地を滑った。
「未来!」
叫び、未来の肩をつかみ、必死で僕の首から遠ざける。
「未来! 駄目だ!」
未来は、眼を血走らせ、唸り声を発しながら、歯を噛み合わせる。
「駄目だ、未来!」
僕は、心の内で謝りながら、未来の腹を膝で蹴飛ばした。
未来がぎゃっと叫んで、僕から離れる。
急いで立ち上がると、僕は十字弓を構えた。
ほとんど反射的な動作だった。
何をする気だ、僕は。
未来を撃つつもりか?
未来が立ち上がる。
こちらに顔を向ける。
その歯が剥き出しになる。
どうする。
どうすればいい。
――他のやり方を、考えればいいよ。
考えろ。
考えるんだ。
撃てば、それで終わるかもしれない。
僕は簡単に助かるかもしれない。
けど、それじゃ駄目だ。
僕は、もうそのことを知っている。
助かるだけじゃ、駄目なんだ。
未来の目を見つめる。
まだ、
僕は必死で考える。
まだ、間に合うはずだ。
未来の身体はまだ、末期症状患者のそれまで変化していない。
まだ間に合う。
思い出せ。
僕がここに到着したとき、未来は意識を保っていたではないか。
今はまだ、末期症状患者へと移行しようとしている段階に違いない。
血を与えさえすれば。
まだ間に合う。
こちらの出来事に気がついたのか、来栖が駆け寄ってくる。
「来るな!」
僕が叫ぶと、来栖は立ち止まった。
「他の連中を頼む。こっちは、僕が何とかする!」
来栖が、笑みを見せる。
嬉しそうな笑み。
「任せろ」
「頼む!」
僕は十字弓を構える。
未来に狙いを定める。
未来が両手を広げ、口を大きく開けて、唸った。
やがて地を蹴る。
素早く走ってくる。
撃てば終わる。
撃てば、いとも容易く、僕は助かる。
(暴れる妹を押し止め、僕は何度も、何度も、妹を殺し続けた。何度も、何度も……)
「来い!」
ぐんぐんぐんぐん、未来が迫ってくる。
僕は十時弓を強く握り締め、
一歩踏み出し、
飛びかかってきた未来を、思いきり殴り飛ばした。
死なせてたまるか、
腹の底から湧き出る叫びが、一挙に爆発した。
死なせるものか。
死なせない、死なせてはならない、何としても!
僕は十字弓を投げ捨てた。
そうして、ナイフを取り出す。
素早く、正確に。
躊躇うことなく。
自らの腕を、ナイフで斬りつける。
倒れ込んだ未来に、僕は駆け寄ると、片手で、その身体を床に押しつけた。
呪われた血よ。
僕に力をくれ。
その進化した運動能力の全力をもって、暴れる未来を床に押さえつけながら。
自らの腕を、未来の口に押しつけた。
「未来、飲め!」
自分の腕から絞り出される血液を、未来の口内へと垂らす。
「飲むんだ!」
未来の頭が持ち上がり、僕の腕に噛みつこうとする。
「違う、未来!」
未来の顔から腕を遠ざけ、血液を垂らし続ける。
未来は、血でいっぱいになった口の中で、ごぼごぼと喉を鳴らした。
顔を横に向け、血を吐き出す。
「吐くんじゃない、しっかり飲むんだ!」
僕は少し考え、自らの腕に口をつけた。
自分の血を口に含む。
そして。
暴れる未来を押さえつけ、その唇に、自らの唇を押しつけた。
血を、未来に向かって流し込む。
空いている手で、未来の頬を押さえつける。
未来は必死でもがきながら、僕を引き離そうとする。
その喉が。
一度、ごくん、と震えた。
僕は唇を離す。
もう一度、自らの血を口に含む。
そして未来に与える。
手応えがあった。
何度か、未来は、喉を鳴らした。
ほっと息を吐く。
この調子だ、このままいけば――
単純な油断だった。
僕の手を振り解き、未来が素早く起き上がる。
未来は激しく僕の首に噛みついた。
瞬間的な激痛。
未来は僕を押し倒すようにして馬乗りになり、僕の首筋に顔を埋めた。
僕に血を注いでいるのか、それとも僕の血を吸っているのか。
されるがままになりながら、僕は未来を抱きしめていた。
未来の肩が震えている。
泣いているのか?
そんなはずもないか。
遥名――
僕はお前を救えただろうか。
お前は、どこにいるんだ。
元気にやっているんだろうか――。
意識が薄れていく。
もういいよな、遥名?
最後は頑張っただろう?
これも甘え、かな……僕は自分に甘いから。
なあ、遙名。
僕も、そっちにいくのか……今度は、同じ場所に立てるだろうか。
それから。
未来。
僕は、ちゃんと、君の兄貴でいられただろうか。
未来。
ごめんな。
二人の妹のことを思いながら。
僕の意識は、闇か光かも分からない何かに、覆われていった。




