5-1 心は碧く
遙名。
その名を、口に出して呼んでみた。
随分と違和感を覚える。
もう何年も呼んでいない名前であるかのように。
いつの間にか、こんなにも錆び付いて、軋む、古びたものとなっていた。
遙名。
それが僕の妹だ。
南の知る、僕の妹の名だ。
僕と同じ両親を持ち、同じ名字を持つ、本当の意味での、妹。
金糸雀が僕をタツヒラと呼ぶのは、何も竜平という名を読み違えているわけではない。
辰比良竜平。
それが僕の名前なのだ。
よって、長谷川未来は僕の妹ではない。
正確に言えば。
戸籍上の意味で僕の妹であるのは、辰比良遙名、ただ一人だ。
未来。
彼女は、僕と血の繋がりもなければ、幼い頃からの知り合いというわけでもない。
未来と出会ったのは、僕が妹を殺し、両親に見捨てられた少し後のことだ。
「お願いがあります」
未来はそう言った、と記憶している。
夜。
雨が降っていた。
それも、ただの記憶に過ぎないのだが。
記憶。
記憶とは曖昧だ。
過去の僕。
そいつは、もっと曖昧だ。
過去の僕と現在の僕。
その関係性はイコールではない。と思う。
恐らくそれは相似だ。
過去∽現在。
式として書き表すなら、そうなる。
居心地の悪い不連続感。
不安定感。
浮遊感。
そもそも過去とか未来とか、そんなものは結局のところ、現在の僕への現れに過ぎない。
過去。
それは、現在ここに存在する僕の思い出でしかない。
未来。
それは、現在ここに存在する僕の予想や期待でしかない。
「お願いがあります」
しとしとと、天から降り注ぐ雨。
「私に未来をください」
雨の中、濡れる少女の懇願。
僕は何と答えたか。
「僕に、過去を与えてくれ」
過去を無くした男と、未来を無くした少女の邂逅。
交わされたのは、互いに、必要な何かの補完を望む、哀しい契約。
おままごと。
単純な家族ゲーム。
利害は一致していた。
僕は未来を守る。
未来は僕に守られる。
そんな歪んだ関係性が、僕たちには必要だったのだ。
自分自身を保つために。
南が僕を見ている。
彼女はもう、僕を止めなかった。
「僕は、南が思っているような男じゃないんだ」
南の両目に、大粒の涙が浮かぶのを見た。
――他のやり方を考えればいいよ。
そんなものはないんだ、南。
運命だとか、予定調和だとか、呼び名は何だっていい。
他のやり方なんて、そもそもの初めから、何一つ用意されていないんだ。
南の横を通り過ぎる。
一度も振り返らなかった。




