幕間 追憶
「今、外してやる」
僕は、ベッドに縛りつけられた妹に近寄ると、強固に結ばれている縄をつかんだ。
何とか結び目を解こうとするが、すぐに無理だと判断し、近くの勉強机から鋏を取る。
太く頑丈な縄と格闘を続け、ようやく切ることに成功する。
妹は、絡まった縄を振り解き、不自然な程の勢いで、跳ね起きた。
声をかけてやりながら、僕は手を伸ばす。
その手を、妹は唸って弾いた。
伸びた爪が、僕の肉を引き裂く。
悲鳴を上げる。
血が滴る。
見下ろす。
溢れた血で、僕の両手は紅く濡れている。
妹が奇声を上げて、僕に飛びかかってくる。
防衛本能で、僕は両手を前に突き出し、妹を払い除けた。
妹の身体が床を転がり、勉強机にぶつかる。
上に並べてあった本が崩れ、落ちてくる。
僕は、何が起こったか理解できず、手を突き出したまま、妹の様子を窺う。
妹は、激しく暴れながら、再び起き上がった。
こちらを向く。
奇声を発し、妹が口を大きく開けた。
長く尖った歯が見えた。
八重歯と呼ぶには、あまりに醜い。
咄嗟の思考で、僕は、その歯の用途を理解した。
あれは、僕を傷つけるためのものだ。
肉に刺さり、そのまま食い破られるイメージが沸く。
妹が飛びかかってきた。
僕は喚きながら、後方に避けた。
妹の顔が肩にぶつかる。
そのまま倒れる。
目の前に妹の顔が迫る。
思わず、膝蹴りを食らわせ、怯んだ妹を、床に押し倒した。
必死に、その両手を押さえつける。
妹は、歯を鳴らしながら、僕に向かって顔を突き出してくる。
何て顔だ。
これは妹ではない。
妹の姿をした、悪魔だ。
妹は、悪魔に身体を盗まれてしまったのだ。
僕の知る妹は、ここにはいない。
この悪魔が食ってしまった。
周囲を見渡す。
勉強机の木製の椅子が砕け、脚部分が折れて、先端の尖った杭のようになっていた。
思わず、それを手に取る。
片手で妹を押さえつけたまま、杭を構える。
吸血症。
両親が、そう口にしていたのを聞いたことがある。
吸血鬼がどうだと、クラスメイトが話していたのも聞いていた。
吸血鬼。
映画や小説などで、もちろんその言葉は知っていた。
人を襲って生き血を吸い、吸われた人間は、吸血鬼の仲間となる。
映画や小説で。多くの登場人物が、目の前に現れた家族、恋人、旧友、かつては親しい相手だった吸血鬼たちに手を下すことが出来ず、反撃や一方的な攻撃を受けた。
どんなに親しい相手であっても、躊躇すれば、自らが犠牲者となる。
そう、映画や小説は教えていた。
当然ながら、常日頃から、そんな考えを抱いていたわけではない。
吸血鬼。
そんなものが存在するとも思っていなかった。
ただの噂話だと。
あるいは映画か何かが流行っているのだと。
そんな風に思っていた。
だから。
考えたことなど無かったのだ。
どんなに親しい相手であっても、躊躇すれば、自らが犠牲者となる、などと。
だから、この考えは悪い病気のようなものだ。
ふと、理由もなく、ただ、浮かんでしまった考え。
妹に襲われた、その刹那。
脳裏に様々な思考が渦巻く中。
浮かび上がってきた、その場限りの考えに過ぎなかった。
けれど僕は、その考えにしがみつかなければ、自分が生き残れないと思った。
杭を持ち上げる。
その先端は、確実に妹の胸を狙っている。
未成熟な胸の膨らみの狭間。
妹は、まだ、十歳だった。
「遙名……」
杭を持ち上げたまま、妹の顔を見る。
唸る少女の身体を押し留め、何度も呼びかける。
僕の声は。
泣いているのか。
笑んでいるのか。
それすら分からない。
「遙名……笑ってくれ。いつものように。僕を呼んでくれ。頼む。頼むよ。頼むから」
震えている。
僕は震えている。
妹の温かだった肌を思い出し、震えている。
妹の仄かに赤味が差した頬を思い、
柔らかな瞳を思い、
怖い夢を見て怯え起きた妹の記憶を思い。
僕は泣いている。
優しい子だった。
苦しめたくない、一瞬で終わらせよう。
そんなことを考えている自分がいる。
それと同時に、幼い子供のように、今にも大声で泣き出しそうな自分もいる。
お願い。
全身全霊で、祈った。
お願いだ。
僕たちを助けて。
けれども応える声はなく。
僕の手には、身に余る重さの杭があった。
何も出来ない、何もしてやれない自分が。
情けなくて。
悲しくて。
視界が滲んだ。
妹の顔が滲む。
何も見えない。
それでも。
妹がそこにいることだけは、分かった。
だから。
僕は杭を振り上げた。
すべては一瞬で終わった。
と思う。
思いたい。
そう感じただけで、実際には、長い時間、僕は妹と格闘していたはずだ。
いつまで続くのかと思えるような、長く辛い一瞬。
何度、杭を刺しても、何度、妹の身体を貫いても、妹の動きは止まらなかった。
暴れる妹を押し止め、僕は何度も、何度も、妹を殺し続けた。
泣いている。
いや、叫び、喚いている。
僕の妹。
妹の血を浴びながら、僕は、この苦しみが消えることは永遠にないと確信している。
耳がひりひりしている。
急に静かになったせいだと、なかなか気づかなかった。
いつの間にか、妹の声はやんでいた。
動きも止まっていた。
機械的に、ただひたすら刺し続けていた、自らの腕の動きを止める。
心臓の音が、耳元で聞こえる。
全身から、感覚という感覚がすべて抜け落ちている。
レンズを何重にも通して見たような、曖昧な視界。
僕全体を、半透明の膜が覆っているような、そんな感覚。
歪んだ世界。
歪んでいるのは僕自身だと、そのうち、ぼんやりと理解する。
血塗れの杭から両手を放し、目の前に掲げ見つめる。
両の手で、自らの血と妹の血が、混じり合っているのを見た。
僕は呪いを受けた。
目の前に広がる凄惨な光景。
僕は、呪いを受けた。
それから先のことは、あまり記憶にない。
帰ってきた母親が、部屋に飛び込んできて、半狂乱に陥り叫んでいるのを、どこか遠くから見つめていた。
それすらも、曖昧な視界の中で行われた、曖昧な記憶だ。
――何をしたの。何をしたのよ、お前は。
肩をつかみ、僕を揺さぶる母親の顔。
真っ赤に充血した目。
肩に食い込む、母親の爪。
――一体、何をしたのよ、お前は!
さあ。
僕は、何をしたのだろう?
ちらっと、顔を傾ける。
母親の後ろを覗き込む。
広がる血が見える。
誰の血だろう?
それは決まっている。
分かりきったことだ。
それじゃあ、どうして血が流れているんだろう?
いや。
それも、分かりきった話だった。
ということは。
ああ……そうか。
簡単な話じゃないか。
遙名。
僕は、お前を殺した。




