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屍たちの夜明け Dawn of the Past  作者: 星野彼方
16/28

3-3 誘致

 呻き声。

 はっとする。


 素早く十字弓を上に向ける。

 発射された矢が、天井に向かって飛び、突き刺さる。


 南の背後にいた男が、倒れていた。

 そして、別の男が立っていた。


 三川。


 南は、緊張の糸が解けたように、その場に崩れ落ちた。

 三川が支える。


「金糸雀は君たちの動きを察知していた。だから手伝いに来た」

「三川さん……一人で? 先生がそれを許したんですか」

「俺の意志だ。会社は関係ない」

「僕たちを恨んでいないんですか」

「どうしてそう思う」

「あなたを見捨てた」

「適切な判断だった。来栖は優秀な指揮官となれる」

「会社の命令を無視してまで助けに来てくれたのは、どうしてです」

「そんなことにまで答える義務があるのか疑問だ」


 三川はそう言いつつも、すぐに口を開いた。


「仲間を死なせたくなかったからだ。そうしたいから、そうした。それだけのことだ」


 君が疑問に思うようなことじゃない、と三川は呟いた。


「それに、俺には息子がいる。君たちと同じ学校の生徒だ。おかしな理由だと思うか」

「三川さん……」


 南の声。

 目を覚ましたようだ。


 目眩がして、僕は壁に手をついた。

 僕は、もう少しで、南を撃つところだった。

 襲い来る嘔吐感。


「しゃんとしろ」


 三川の手が伸びてきて、僕の襟をつかみ、しっかりと立たせた。

 そして南の方を向く。


「もう大丈夫なら、修理の続きを」


 南は頷き、配電盤に向かった。


「後は電源を入れ直すだけです」


 やはり、南は強い。

 もう少しで僕に撃たれるところだったのに。


「俺は戻る。光には耐えられないだろうから」


 三川はそう告げると、来た道を戻ろうと振り向いた。


 そこで僕は思い出した。

 三川は初期症状患者なのだ。

 電気ランプの光ですら辛かったに違いない。

 そんな中、助けに来てくれたのだ。


 三川の歩き方が、ややぎこちない。

 目が眩んでいるのだと直感した。


 だから、三川は気づけなかった。


 闇から飛び出してきた女。

 両手に何かを握りしめている。

 木の杭。


 三川の反応が遅れる。

 咄嗟に身をよじったが間に合わず、鋭く尖った杭は肩に突き刺さった。

 苦痛の叫びが、三川の口から溢れる。


 悲鳴を、そのまま唸り声に変えて、三川は女性を蹴り飛ばした。


 通路の奥から、非感染者の者たちが、次々と襲いかかってきた。

 十人はいる。

 全員、木の杭を構えている。


「止まれ!」


 十字弓を構えて叫ぶが、もはや正常な判断力を失っているのか、暴徒と化した人々は、少しも止まる様子を見せなかった。


 三川が、ようやく態勢を立て直し、一人ずつ叩きのめしていく。

 吸血症患者は、通常の人間よりも優れた運動能力を持つ。

 だが数に押され、もはや限界は目に見えていた。


「配電盤を直せ!」


 三川が叫ぶ。


「でも、それじゃあ三川さんが――」


 と南。


「さっさと直して、さっさと逃げろ!」


 三川は既に、暴徒の群れに埋もれつつあった。

 今の僕と南に、三川を助け出す術などない。


「やれ! ここで終わりたくないなら!」


 三川の叫び。


 また、見捨てるのか。

 十字弓を握る手が、悔しさに震える。

 僕たちを信じ、助けに来てくれたこの人を、今ここで再び見捨てるのか。


 南が僕を見る。

 強く首を横に振る。


 分かってくれ、南。


 僕は、配電盤に近寄る。

 少しも動けず、ただ棒立ちし、選ぶことに怯え、何もしないのは嫌なんだ。


「僕を、恨めばいい」


 小さく、呟く。


 三川は何も答えない。

 大きな背中が、僕たちに向けられていた。


 南は、微かに身体を震わせ、俯いた。


 僕の手は、とうの昔に汚れている。

 だから、僕は躊躇わず、配電盤に触れた。


 それで終わりだった。


 一気に、病院中の、電灯が点った。


 すぐ近くにいたらしい数匹の屍が、甲高く叫び声を発して、逃げていくのが見えた。

 途中で力尽き、全身が焦げて灰と化していく屍も多く見受けられる。


 危なかった。

 完全に囲まれていたのだ。


 配電盤を直さなければ、やられていた。

 三川には、それが見えていたのだ。


 三川の悲鳴。

 光が、三川の肌を焼く。

 肉の焼ける臭い。

 音。


 僕が、これをしたのだ。

 どうして、どうして、どうして、

 これは何の罰なんだ。

 僕たちは、どうしてこんなにも、罰を与えられなければならないんだ。


 三川の全身が赤黒く変色していく。


 非感染者たちは、突然の光に照らされ、一瞬、正気を取り戻したかに見えた。

 闇に埋もれることによって、良心も、正常な判断力も、失われていたのだろう。

 だが、焼け焦げていく三川を見た誰かが、吸血鬼だ、と叫んだ。

 その言葉をきっかけに、非感染者の群れが、三川に襲いかかった。


 これが人の姿だ。

 南、これが人の姿だ。


 再び吐き気がこみ上げてくる。


 誰かの大声が聞こえてきた。

 三川だ。

 まだ生きていた。


「これがお前たちの罪だ、見ろ、この血を忘れるな、俺は生きてる、まだ生きてるぞ、さあ殺せ、見えるか、これが俺の肉だ、俺の肉が焼けるのが見えるか、俺だってこうなりたくなかった、お前らに見えるか、俺が死んでいく、見えるか、俺が死んでいく!」


 悲痛な叫び。

 三川の焼け焦げていく両手が、近くにいた男をつかんだ。

 途端、男の肌も焼けていく。

 男の悲鳴。


「呪いだ!」


 近くにいた女が叫んで後ずさった。

 だがもう遅かった。


 三川は燃え始めていた。

 三川を包む炎が、周囲にいた非感染者たちをも包み込んだ。


 あっという間に、三川のいた周囲は火の海と化していた。


 一人だけ、火の海から、辛うじて逃げた女がいた。

 もともと一番後ろにいたため、唯一、逃げられたのだろう。

 女が、燃え上がる炎からある程度離れ、こちらに向き直る。

 いつか見た女――仲多だった。


「やっぱり、やっぱりあんた悪鬼の仲間ね! いいえ、あんたが、指揮してるんだわ!」


 炎の向こうで、仲多が僕を指差す。


「調べるわ! あんたのことを調べる! そして、思い知らせてやる! 見てなさい!」

「行こう、南」


 僕は南の手をつかむと、仲多を無視して、走り出した。

 南が何かを言おうとしているのが分かる。

 意識して、それを無視する。


 南は僕を軽蔑したろうか?

 もちろん、しただろう。

 もともと、理解してもらえるなどと思っていない。

 そんな甘い考えは、とうに捨てた。


 尾瀬の病室まで戻り、扉を押し開ける。


 足下に来栖が倒れていた。

 隣には、小鳥遊の姿も見える。

 慌てて駆け寄る。


 二人とも、気を失っているだけのようだった。

 噛まれた形跡もない。


「君は、私と同じ考えだと思っていたが。違ったのかな」


 ベッドから声が聞こえ振り向くと、眠る尾瀬の隣に、九条が腰掛けていた。

 足を組み、片手で顎を支え、もう片方の手で、文庫本を開いている。


「物語には、学ぶべきところが多い」


 九条が、文庫本からは目を離さないまま、口を開いた。


「これは、ある男の物語だよ」


 脚を組み替え、九条がこちらを向く。


「世界中に吸血鬼が蔓延して、ただ一人、人間として取り残された男の、戦いの記録だ。男は、吸血鬼の徘徊する夜は自宅に立て篭もり、昼は食料を調達したり吸血鬼を退治したりしながら、生きていく。だが、あるときに気付くんだ。吸血鬼たちにとっては、白昼堂々、次々と仲間を殺戮していく男の存在こそが、伝説の怪物なのだと」


 九条は文庫本を閉じて続けた。


「この社会には、色々な価値概念が存在する。善悪もその一つだ。この作品は、主人公が、そして読者が信じていた、善悪の関係性が、結末において、急速に揺らいでいく。それを描いた点で、この物語は、そこら中に散らばっている吸血鬼小説の中で群を抜いている」

「その本なら、読んだことはある。陳腐な話だ」

「陳腐。その言葉こそ陳腐だ。これと同じ装丁のものかな?」

「その表紙だったと思う。訳者が違ったところで、印象はそこまで変わらないだろう」

「そちらのお嬢さんは? 読んだことはあるか?」


 九条が表紙を掲げてみせると、南は小さく首を横に振った。


「それなら一度、読んでおくといい。この本は差し上げよう」


 本をベッド脇の棚の上に置くと、九条はこちらに向き直った。


「何度か映画化もされているが、そのテーマの深遠さ、奥深さにおいて、原作を凌ぐものは未だない」

「僕に、道徳を説くつもりか?」

「とんでもない。道徳などに意味はないと言っているんだよ」

「どういうことだ」

「道徳などというものは、何か価値観を自分の中に用意しなければ、物事に優先順位を付けることの出来ない人間が、勝手に作り出したものだ」


 九条は天井を仰ぎ、続ける。


「価値観には、社会的なものである善悪の他に、個人的な好き嫌いというものもある。だがそれは、善悪で判断される道徳ほど、社会では重要視されない。結局は、すべてシステムに過ぎないということだ。社会が上手く回り、動くための、設計されたシステムだ」


 ということは、と九条が視線を戻す。


「異物として、社会のシステムから排除され、見捨てられた者にとって、道徳など意味を成さないということには、ならないかな」

「結構な弁舌だ。けれど、今は講義を聴きたい気分じゃない」

「だが聴いてもらう。そのために来たんだからな」


 九条が人差し指を立てて見せる。


「私は君たちと話がしたい。それだけだ。もし私と話したいと思ってくれるなら――」


 九条の目線が僕を捉える。

 落ち着かない気持ちを押し隠そうと、睨み返す。


「まずは、この物語から学べばいい。最後の一頁まで、よく読むべきだ」

「読んださ」

「物語の中で、主人公が大事な相手を失うシーンが三度出てくる。分かるか?」

「妻、犬、旧友か?」

「そうだ」


 満足そうに頷き、九条は、棚の上の本を指でコツコツと叩いた。


「この本は、一種の予言書だと思わないか。今の社会の核心を、見事に突いている」

「物語と現実を混同しているのか、あなたは」

「物語は現実と同等の力を持っている。逆に言えば、現実は、物語と同じ程に陳腐だ」

「そいつは、単なるフィクションだ」

「フィクション、だって?」


 九条が両手を広げてみせる。


「今日、見ただろう。非感染の連中が、哀れな感染者に何をするのか。ここで見ただろう」

「あんたが、そう仕向けたんじゃない」


 と南。


「きっかけを与えたことは認めよう。だがそのきっかけは、私が与えずとも、その辺に転がっている。いつか、今日と同じようなことが自然に起こる。そうではないかな」

「今日ここで起きたことに関しては、あなたに罪がある」

「もちろん、あるだろう。罪、などという言葉を、今更、私が畏れると思うか。そんなものは、社会が定めたルールに過ぎない。こうしてルールに縛られることをやめれば、人は何でも出来てしまう。今日ここに来た連中が、社会のルールよりも自分たちの信念を優先したように」


 中には、と九条が言う。


「特に信念も信仰心もなく、ただ流されてここに来てしまった連中だっていただろう。自分の意志もないまま、ここまで来て、ついには正常な判断能力を失い、暴走してしまった」


 目を血走らせ、もはや動物のように襲いかかってきた暴徒たちを思い出す。


「それが人間だ。それが人だよ。我々のことを吸血鬼だ、などと、鬼、などと、呼ぶ権利はどこにもない。人が鬼だ。人間が鬼なのだ。今日来た彼ら――彼らの行動こそが鬼だ」

「今日、仲間が死んだ」


 僕は呟いて、十字弓を構えた。


「あなたの理屈でいけば、僕はここであなたに対して、仇を討つ権利がある」

「そうすれば、君ももはや、我々の仲間さ。自らの怒りで動くなら」

「竜平、駄目よ」


 と南。


「どうして。何故いけない。こいつはここで止めておくべきだ」


 そうでなければ、呑まれる。


 突如、九条の下で、何かが動いた。

 寝ていたはずの尾瀬が突然起き上がり、枕元に置いてあった、リンゴを載せた皿の上の、銀製のフォークを握り締め、九条の腕に突き刺した。


 小さく九条が声を上げ、刺された左腕を持ち上げる。

 その先の手が、変色していく。


 何かが崩れるような音。

 九条の左手が、ひび割れ、粉と化した。

 スーツの左腕部分が肘から垂れ下がる形となる。


 尾瀬は荒く息を吐き、九条が少しも動揺していないことに怯えたのか、身を強張らせた。


 素早く尾瀬に向き直る九条。

 笑みを絶やさぬまま。


「やってくれたな」


 九条は残された右腕で尾瀬をつかむと、窓際へと歩いていく。

 苦しそうに呻く尾瀬。


「彼を放せ」


 僕は今度こそ、本気で引き金を引く覚悟で、十字弓を向けた。


「まあ、今なら私を撃つ正当性があるよな」


 九条はせせら笑うと、持ち上げていた尾瀬を下ろした。


「分かるか。君の覚悟とは、そんなものだ。社会的な正当性がなければ、私を撃つことなど出来ない。社会に反抗心を抱きながら、社会に縛られている」


 構えた十字弓が、微かにぶれる。

 それを見て取ったように、九条が笑む。


「やはり、君は思ったとおりの人間だ。そちら側にいるのが不思議なくらい」

「黙れ」

「粋がるなよ。気が変わったら、いつでも電話してくれたまえ」

「黙れ!」


 叫んで、僕は十字弓を突き出す形で、九条に狙いを定めた。


「撃たれるつもりはないよ」


 九条はそう言うと、尾瀬の身体を、そのままこちらへと投げた。


 尾瀬の身体が、僕の構える十字弓にセットされた矢の先端へと、真っ直ぐ飛んでくる。

 避ける暇もなかった。


 尾瀬の身体が、僕にぶつかる。

 矢が、肉を貫く感触。

 思ったよりも強い衝撃が来た。

 後頭部に激しい痛みが響き、鼻の奥で血の臭いが広がる。

 壁にぶつかったらしい。


 揺らぐ視界の中で、九条が、窓の外へと消えていくのが見えた。


 血に染まる僕の手。

 血の生温い温度。

 ぬるっとした、その色合い。


 肉を貫く感触。


 南の声。

 薄れていく。


「竜平!」


 竜平!

 竜平……

 竜平……


 ――竜平、お兄ちゃん……

 ――お兄ちゃん……


 呼んでいる。

 僕を。

 あの子が呼んでいる。


 まだ小さかった、僕の妹。

 こうなる前の、僕の妹。


 ああ。

 過去に落ちていく。

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