3-3 誘致
呻き声。
はっとする。
素早く十字弓を上に向ける。
発射された矢が、天井に向かって飛び、突き刺さる。
南の背後にいた男が、倒れていた。
そして、別の男が立っていた。
三川。
南は、緊張の糸が解けたように、その場に崩れ落ちた。
三川が支える。
「金糸雀は君たちの動きを察知していた。だから手伝いに来た」
「三川さん……一人で? 先生がそれを許したんですか」
「俺の意志だ。会社は関係ない」
「僕たちを恨んでいないんですか」
「どうしてそう思う」
「あなたを見捨てた」
「適切な判断だった。来栖は優秀な指揮官となれる」
「会社の命令を無視してまで助けに来てくれたのは、どうしてです」
「そんなことにまで答える義務があるのか疑問だ」
三川はそう言いつつも、すぐに口を開いた。
「仲間を死なせたくなかったからだ。そうしたいから、そうした。それだけのことだ」
君が疑問に思うようなことじゃない、と三川は呟いた。
「それに、俺には息子がいる。君たちと同じ学校の生徒だ。おかしな理由だと思うか」
「三川さん……」
南の声。
目を覚ましたようだ。
目眩がして、僕は壁に手をついた。
僕は、もう少しで、南を撃つところだった。
襲い来る嘔吐感。
「しゃんとしろ」
三川の手が伸びてきて、僕の襟をつかみ、しっかりと立たせた。
そして南の方を向く。
「もう大丈夫なら、修理の続きを」
南は頷き、配電盤に向かった。
「後は電源を入れ直すだけです」
やはり、南は強い。
もう少しで僕に撃たれるところだったのに。
「俺は戻る。光には耐えられないだろうから」
三川はそう告げると、来た道を戻ろうと振り向いた。
そこで僕は思い出した。
三川は初期症状患者なのだ。
電気ランプの光ですら辛かったに違いない。
そんな中、助けに来てくれたのだ。
三川の歩き方が、ややぎこちない。
目が眩んでいるのだと直感した。
だから、三川は気づけなかった。
闇から飛び出してきた女。
両手に何かを握りしめている。
木の杭。
三川の反応が遅れる。
咄嗟に身をよじったが間に合わず、鋭く尖った杭は肩に突き刺さった。
苦痛の叫びが、三川の口から溢れる。
悲鳴を、そのまま唸り声に変えて、三川は女性を蹴り飛ばした。
通路の奥から、非感染者の者たちが、次々と襲いかかってきた。
十人はいる。
全員、木の杭を構えている。
「止まれ!」
十字弓を構えて叫ぶが、もはや正常な判断力を失っているのか、暴徒と化した人々は、少しも止まる様子を見せなかった。
三川が、ようやく態勢を立て直し、一人ずつ叩きのめしていく。
吸血症患者は、通常の人間よりも優れた運動能力を持つ。
だが数に押され、もはや限界は目に見えていた。
「配電盤を直せ!」
三川が叫ぶ。
「でも、それじゃあ三川さんが――」
と南。
「さっさと直して、さっさと逃げろ!」
三川は既に、暴徒の群れに埋もれつつあった。
今の僕と南に、三川を助け出す術などない。
「やれ! ここで終わりたくないなら!」
三川の叫び。
また、見捨てるのか。
十字弓を握る手が、悔しさに震える。
僕たちを信じ、助けに来てくれたこの人を、今ここで再び見捨てるのか。
南が僕を見る。
強く首を横に振る。
分かってくれ、南。
僕は、配電盤に近寄る。
少しも動けず、ただ棒立ちし、選ぶことに怯え、何もしないのは嫌なんだ。
「僕を、恨めばいい」
小さく、呟く。
三川は何も答えない。
大きな背中が、僕たちに向けられていた。
南は、微かに身体を震わせ、俯いた。
僕の手は、とうの昔に汚れている。
だから、僕は躊躇わず、配電盤に触れた。
それで終わりだった。
一気に、病院中の、電灯が点った。
すぐ近くにいたらしい数匹の屍が、甲高く叫び声を発して、逃げていくのが見えた。
途中で力尽き、全身が焦げて灰と化していく屍も多く見受けられる。
危なかった。
完全に囲まれていたのだ。
配電盤を直さなければ、やられていた。
三川には、それが見えていたのだ。
三川の悲鳴。
光が、三川の肌を焼く。
肉の焼ける臭い。
音。
僕が、これをしたのだ。
どうして、どうして、どうして、
これは何の罰なんだ。
僕たちは、どうしてこんなにも、罰を与えられなければならないんだ。
三川の全身が赤黒く変色していく。
非感染者たちは、突然の光に照らされ、一瞬、正気を取り戻したかに見えた。
闇に埋もれることによって、良心も、正常な判断力も、失われていたのだろう。
だが、焼け焦げていく三川を見た誰かが、吸血鬼だ、と叫んだ。
その言葉をきっかけに、非感染者の群れが、三川に襲いかかった。
これが人の姿だ。
南、これが人の姿だ。
再び吐き気がこみ上げてくる。
誰かの大声が聞こえてきた。
三川だ。
まだ生きていた。
「これがお前たちの罪だ、見ろ、この血を忘れるな、俺は生きてる、まだ生きてるぞ、さあ殺せ、見えるか、これが俺の肉だ、俺の肉が焼けるのが見えるか、俺だってこうなりたくなかった、お前らに見えるか、俺が死んでいく、見えるか、俺が死んでいく!」
悲痛な叫び。
三川の焼け焦げていく両手が、近くにいた男をつかんだ。
途端、男の肌も焼けていく。
男の悲鳴。
「呪いだ!」
近くにいた女が叫んで後ずさった。
だがもう遅かった。
三川は燃え始めていた。
三川を包む炎が、周囲にいた非感染者たちをも包み込んだ。
あっという間に、三川のいた周囲は火の海と化していた。
一人だけ、火の海から、辛うじて逃げた女がいた。
もともと一番後ろにいたため、唯一、逃げられたのだろう。
女が、燃え上がる炎からある程度離れ、こちらに向き直る。
いつか見た女――仲多だった。
「やっぱり、やっぱりあんた悪鬼の仲間ね! いいえ、あんたが、指揮してるんだわ!」
炎の向こうで、仲多が僕を指差す。
「調べるわ! あんたのことを調べる! そして、思い知らせてやる! 見てなさい!」
「行こう、南」
僕は南の手をつかむと、仲多を無視して、走り出した。
南が何かを言おうとしているのが分かる。
意識して、それを無視する。
南は僕を軽蔑したろうか?
もちろん、しただろう。
もともと、理解してもらえるなどと思っていない。
そんな甘い考えは、とうに捨てた。
尾瀬の病室まで戻り、扉を押し開ける。
足下に来栖が倒れていた。
隣には、小鳥遊の姿も見える。
慌てて駆け寄る。
二人とも、気を失っているだけのようだった。
噛まれた形跡もない。
「君は、私と同じ考えだと思っていたが。違ったのかな」
ベッドから声が聞こえ振り向くと、眠る尾瀬の隣に、九条が腰掛けていた。
足を組み、片手で顎を支え、もう片方の手で、文庫本を開いている。
「物語には、学ぶべきところが多い」
九条が、文庫本からは目を離さないまま、口を開いた。
「これは、ある男の物語だよ」
脚を組み替え、九条がこちらを向く。
「世界中に吸血鬼が蔓延して、ただ一人、人間として取り残された男の、戦いの記録だ。男は、吸血鬼の徘徊する夜は自宅に立て篭もり、昼は食料を調達したり吸血鬼を退治したりしながら、生きていく。だが、あるときに気付くんだ。吸血鬼たちにとっては、白昼堂々、次々と仲間を殺戮していく男の存在こそが、伝説の怪物なのだと」
九条は文庫本を閉じて続けた。
「この社会には、色々な価値概念が存在する。善悪もその一つだ。この作品は、主人公が、そして読者が信じていた、善悪の関係性が、結末において、急速に揺らいでいく。それを描いた点で、この物語は、そこら中に散らばっている吸血鬼小説の中で群を抜いている」
「その本なら、読んだことはある。陳腐な話だ」
「陳腐。その言葉こそ陳腐だ。これと同じ装丁のものかな?」
「その表紙だったと思う。訳者が違ったところで、印象はそこまで変わらないだろう」
「そちらのお嬢さんは? 読んだことはあるか?」
九条が表紙を掲げてみせると、南は小さく首を横に振った。
「それなら一度、読んでおくといい。この本は差し上げよう」
本をベッド脇の棚の上に置くと、九条はこちらに向き直った。
「何度か映画化もされているが、そのテーマの深遠さ、奥深さにおいて、原作を凌ぐものは未だない」
「僕に、道徳を説くつもりか?」
「とんでもない。道徳などに意味はないと言っているんだよ」
「どういうことだ」
「道徳などというものは、何か価値観を自分の中に用意しなければ、物事に優先順位を付けることの出来ない人間が、勝手に作り出したものだ」
九条は天井を仰ぎ、続ける。
「価値観には、社会的なものである善悪の他に、個人的な好き嫌いというものもある。だがそれは、善悪で判断される道徳ほど、社会では重要視されない。結局は、すべてシステムに過ぎないということだ。社会が上手く回り、動くための、設計されたシステムだ」
ということは、と九条が視線を戻す。
「異物として、社会のシステムから排除され、見捨てられた者にとって、道徳など意味を成さないということには、ならないかな」
「結構な弁舌だ。けれど、今は講義を聴きたい気分じゃない」
「だが聴いてもらう。そのために来たんだからな」
九条が人差し指を立てて見せる。
「私は君たちと話がしたい。それだけだ。もし私と話したいと思ってくれるなら――」
九条の目線が僕を捉える。
落ち着かない気持ちを押し隠そうと、睨み返す。
「まずは、この物語から学べばいい。最後の一頁まで、よく読むべきだ」
「読んださ」
「物語の中で、主人公が大事な相手を失うシーンが三度出てくる。分かるか?」
「妻、犬、旧友か?」
「そうだ」
満足そうに頷き、九条は、棚の上の本を指でコツコツと叩いた。
「この本は、一種の予言書だと思わないか。今の社会の核心を、見事に突いている」
「物語と現実を混同しているのか、あなたは」
「物語は現実と同等の力を持っている。逆に言えば、現実は、物語と同じ程に陳腐だ」
「そいつは、単なるフィクションだ」
「フィクション、だって?」
九条が両手を広げてみせる。
「今日、見ただろう。非感染の連中が、哀れな感染者に何をするのか。ここで見ただろう」
「あんたが、そう仕向けたんじゃない」
と南。
「きっかけを与えたことは認めよう。だがそのきっかけは、私が与えずとも、その辺に転がっている。いつか、今日と同じようなことが自然に起こる。そうではないかな」
「今日ここで起きたことに関しては、あなたに罪がある」
「もちろん、あるだろう。罪、などという言葉を、今更、私が畏れると思うか。そんなものは、社会が定めたルールに過ぎない。こうしてルールに縛られることをやめれば、人は何でも出来てしまう。今日ここに来た連中が、社会のルールよりも自分たちの信念を優先したように」
中には、と九条が言う。
「特に信念も信仰心もなく、ただ流されてここに来てしまった連中だっていただろう。自分の意志もないまま、ここまで来て、ついには正常な判断能力を失い、暴走してしまった」
目を血走らせ、もはや動物のように襲いかかってきた暴徒たちを思い出す。
「それが人間だ。それが人だよ。我々のことを吸血鬼だ、などと、鬼、などと、呼ぶ権利はどこにもない。人が鬼だ。人間が鬼なのだ。今日来た彼ら――彼らの行動こそが鬼だ」
「今日、仲間が死んだ」
僕は呟いて、十字弓を構えた。
「あなたの理屈でいけば、僕はここであなたに対して、仇を討つ権利がある」
「そうすれば、君ももはや、我々の仲間さ。自らの怒りで動くなら」
「竜平、駄目よ」
と南。
「どうして。何故いけない。こいつはここで止めておくべきだ」
そうでなければ、呑まれる。
突如、九条の下で、何かが動いた。
寝ていたはずの尾瀬が突然起き上がり、枕元に置いてあった、リンゴを載せた皿の上の、銀製のフォークを握り締め、九条の腕に突き刺した。
小さく九条が声を上げ、刺された左腕を持ち上げる。
その先の手が、変色していく。
何かが崩れるような音。
九条の左手が、ひび割れ、粉と化した。
スーツの左腕部分が肘から垂れ下がる形となる。
尾瀬は荒く息を吐き、九条が少しも動揺していないことに怯えたのか、身を強張らせた。
素早く尾瀬に向き直る九条。
笑みを絶やさぬまま。
「やってくれたな」
九条は残された右腕で尾瀬をつかむと、窓際へと歩いていく。
苦しそうに呻く尾瀬。
「彼を放せ」
僕は今度こそ、本気で引き金を引く覚悟で、十字弓を向けた。
「まあ、今なら私を撃つ正当性があるよな」
九条はせせら笑うと、持ち上げていた尾瀬を下ろした。
「分かるか。君の覚悟とは、そんなものだ。社会的な正当性がなければ、私を撃つことなど出来ない。社会に反抗心を抱きながら、社会に縛られている」
構えた十字弓が、微かにぶれる。
それを見て取ったように、九条が笑む。
「やはり、君は思ったとおりの人間だ。そちら側にいるのが不思議なくらい」
「黙れ」
「粋がるなよ。気が変わったら、いつでも電話してくれたまえ」
「黙れ!」
叫んで、僕は十字弓を突き出す形で、九条に狙いを定めた。
「撃たれるつもりはないよ」
九条はそう言うと、尾瀬の身体を、そのままこちらへと投げた。
尾瀬の身体が、僕の構える十字弓にセットされた矢の先端へと、真っ直ぐ飛んでくる。
避ける暇もなかった。
尾瀬の身体が、僕にぶつかる。
矢が、肉を貫く感触。
思ったよりも強い衝撃が来た。
後頭部に激しい痛みが響き、鼻の奥で血の臭いが広がる。
壁にぶつかったらしい。
揺らぐ視界の中で、九条が、窓の外へと消えていくのが見えた。
血に染まる僕の手。
血の生温い温度。
ぬるっとした、その色合い。
肉を貫く感触。
南の声。
薄れていく。
「竜平!」
竜平!
竜平……
竜平……
――竜平、お兄ちゃん……
――お兄ちゃん……
呼んでいる。
僕を。
あの子が呼んでいる。
まだ小さかった、僕の妹。
こうなる前の、僕の妹。
ああ。
過去に落ちていく。




