3-2 病棟の悪夢
電話を切る。
手にした十字弓を握りしめ、懐中電灯を通路の奥に向ける。
闇に向かい歩き始めた僕に、南が何か言いたげな顔をした。
「ここにいろよ、南。動かずじっとしていろ。尾瀬を守るんだ。危険なら、外に出て」
「でも――」
「一人になるな。危険だ。皆で固まっていろ」
「行くなタツ。班長命令だ」
僕の横に並び、来栖が言った。
「どうして」
「一つ。お前は雇われの身だ。上司である金糸雀の言葉を無視して動く権限はない。二つ。相手の数など、情報がなさすぎる。行っても返り討ちにされるだけかもしれない」
「三つ」
南が、微かに震える声を出した。
「あんたは、一人になってもいいの……?」
僕は一人だ。
暗い気持ちが、腹の底から、這うようにして上り詰めてきた。
僕は一人だ。
ずっと、あの日から。
南、君たちとは違う。
血に塗れた両手を持っているんだ。
呪われた両手を。
僕は一人だ。
一人でいい。
一人が、いい。
何も言わず、仲間たちに背を向ける。
どこからともなく、溜息が漏れた。
来栖だった。
「二組に分かれよう。危険だが、状況が状況だ」
「来栖君」
と南。
「勝手な行動は――」
「尾瀬を守る組と、電力を回復させる組の二つだ」
「え?」
来栖が僕にウィンクした。
「電力を回復させるだけでも、少しは状況が変わるさ。とにかく俺たちは、末期症状患者を追い出そう。それが俺たちの仕事だし、そのくらいの干渉なら、金糸雀もうるさく言わねぇだろうさ。それでいいな、みんな?」
皆の顔を一通り見渡してから、来栖は、良し、と頷いた。
「南と小鳥は尾瀬の病室に居ろ。女の子だけ置いてくのは気が引けるがな、戦力的に考えて、それが一番、丁度良い。俺たちが戻るまで、動くなよ。もしも敵が来たら、小鳥、迷わず引き金を引け。躊躇うなよ」
「でも、相手は非感染――」
「構うもんか。正当防衛だよ。会社の人間としてではなく、小鳥個人として、自分の身は自分で守ればいい。そうだろ」
「これ、会社の銃だよ……?」
「細かいこと言うな。モテねぇぞ」
「来栖君」
南が進み出る。
「来栖君は小鳥とここに残って。私が一緒に見に行ってくるから」
「あ? 何でだ? どさくさデートか?」
「違う! 来栖君より、私の方が配電盤とか機械に強いでしょ。だから」
「ま、問題ねぇだろ。南が一緒なら、光に困ることもねぇだろうし。十分注意しろよ、二人とも。敵は非感染者だけじゃねぇ、末期症状患者も間違いなくここに来ている」
僕と南は頷くと、廊下の奥へと歩き出した。
「俺と小鳥は、尾瀬のために林檎の皮でも剥いてやりながら、待ってるよ」
背後で、来栖と小鳥遊が尾瀬の病室に入り、扉を閉める音が聞こえる。
二人だけの空間。
僕が先導に立ち、背後から電気ランプの光を浴びながら、索敵する。
僕の影が、先の通路へと細長く伸び、闇に溶け込んでいる。
「この病院、配電盤は階段の近くにあったわよ」
「よく見てるな」
南の持つ電気ランプのお陰で、周囲は数歩先まで確認できる。
だが今回、懸念すべきことは、敵が非感染者だということだ。
彼らに光のバリアは通用しないし、ひょっとすると飛び道具を備えているかもしれない。
油断は禁物だ。
「私には、分からない」
ふと南が小声で呟いた。
「何が」
「九条って人の行動も。ここを襲撃している非感染者の人たちの行動も。私には理解できない」
「理解できないから、否定し、拒絶する。攻撃する。それが人間だろ?」
「そんな哀しいこと――」
「歴史を思い返してみなよ。南の得意な学校の授業で習ったことだ。人種、貧富、国籍、宗教、何かが違うだけで、人は相手を理解できなくなる。同じ国に住む人同士ですら、信念や優先順位の違いだけで争いが生まれる。そうだよ。哀しいよ、人は」
「私は、」
掠れて小さく、南の声が闇に響いた。
「あんたとだけは争いたくない」
「どうしてさ」
「それは、だって、幼馴染だし。あんたのこと、嫌いじゃないし」
「先のことは分からない。僕と南が違う信念を元に動けば。争うこともあるかもしれない」
「私は、私には、自分の信念なんて大層なもの、ない。私は、あんたの側にいたい」
いつだって、と南の声が消えていく。
「南」
「何?」
僕の声に、少し怯えたような南の返事。
「これか? 配電盤」
階段の近く。
壁に埋め込まれている、軽く錆びた配電盤ボックス。
溜息とともに南が進み出て、電気ランプを床に置き、蓋を開ける。
中のケーブルが切断されていた。
「直せるか?」
「当たり前よ。ケーブルを切断しただけ。おざなりな破壊ね」
修復に取りかかる南を守るため、その背後に立ち、十字弓を周囲に向ける。
「ねぇ。さっきの話」
作業をしながら、南が言う。
「あんたは、私と争うことになっても平気?」
「それが仕方ないことなら。僕は引き金を引く」
「諦めるの?」
「諦める?」
心臓が高鳴って、僕は思わず振り返る。
自然と声が大きくなる。
「諦めるって何だよ。どういうことだ」
「それって、一番楽な道を選んだってことでしょ。そうするしかないから、そうする。それって、負けたってことじゃない。他に方法がないから、そうした。それは自分の意志じゃない。自分の信念って言わない。ただ抗えなかっただけ。流れに身を任せただけ」
南の言葉が、驚くほど、心臓に突き刺さり、脳を渦巻いた。
ソウスルシカナイカラ、ソウシタ――。
「自分のしたいことは、自分で決めればいい。するべきこととか、しなきゃいけないこととか、そんな風にばかり考えてたら、自分がいなくなっちゃうよ。どこにも、なくなっちゃうよ」
「僕の、したいこと……?」
それは何だ?
何だそれは?
僕は、自分のしたいことを考えてもいいのか?
そんなことが許される?
あんなことをした、この僕が?
頬を、何かが伝う。
僕は、やりたいことをしてもいいのか?
過去に縛られたまま、生きなくてもいいのか?
過去を、乗り越えてもいいのか?
いいや。
僕は頬の何かを拭う。
許されない。
南には分かっていない。
南には僕が分かっていないんだ。
「それでも、そうするしかないときが来るかもしれない。どうすればいいんだ」
「考えればいいよ」
「何もないんだぞ、どれだけ考えても、他に方法が」
「他のやり方を考えればいいよ」
「……厳しいな。苦しくて、痛い。そんな風に生きろって、お前は言うんだな」
「楽な道を選んだ方が、きっと痛いよ」
痛い。
知ってる。
そうさ。
痛くて、延々と血を吐き続けるような、そんな毎日が来るんだ。
僕は、楽な道を選んだ。
「竜平、何があったの?」
だいぶ久しぶりに、南に名を呼ばれたような気がした。
「何がって?」
「あんた、昔とは変わった。何かに耐えるように、生きるようになった」
「南――」
「分かってる。分かってるから」
南が片手を挙げて、僕の言葉を制した。
「詮索するつもりはないの。ただ、言いたかっただけ。いつか竜平が、もし言いたくなったら、そのときは、私、聞くから。私は竜平の力になりたい。竜平が言いたくなるまで待つから。だから。言いたくなったら、言ってね。私は、竜平側にいるから。いつも」
一気に言い終える南。
ありがとう、という言葉が、ついに言えなかった。
素直な気持ちが、まるで罪悪であるかのように。
僕は、口に出すことが出来なくなっていた。
そんな自分に驚き、恐怖する。
僕は、こんなところまで来ていたのか?
いつの間に、こんな僕になったんだ?
南は、昔からそうだ。
僕に、僕を見せる。
だから、僕は南との会話を避けていたのかもしれない。
「もう直るよ」
南の口調は、いつもの雰囲気に戻っていた。
初めて、南が強いということに気付いた。
南は、強い。
こんな僕よりも遥かに。
僕は、弱くて、そんな自分を甘やかすことに長けていた。
そんな事実に気付かされる。
苛立ちが募る。
僕は哀れだ。
哀れでなくちゃいけない。
そうでなければ。
どうやって、あの過去に溺れないよう、生きていけるんだ?
奇声。
はっとする。
「南!」
僕の油断だ。
僕のミスだ。
闇の中に、二つの眼光が見えた。
僕が十字弓を構えるより先に。
闇から飛び出してきた屍が、壁を伝い、南に向かって飛びかかった。
床に置いた電気ランプの光。
僕と南の影で、屍に届いていない。
南が悲鳴を上げる。
僕は咄嗟に、電気ランプを蹴り飛ばした。
電気ランプは倒れて転がり、僕と南の影の位置も変わった。
光が屍を貫くと、屍は慌てて後方に飛び、闇へと隠れる。
「南、早く配電盤を――」
そう言おうとしたとき、微かな声が聞こえた。
屍の唸りとは違う、囁くような声。
これは――聖書の言葉。
「悪魔め!」
男が飛び出してきた。
木の杭を手に、屍が消えたのとは逆方向の暗闇から。
男は南を捕らえると、その首に木の杭を押しつけた。
「やめろ!」
十字弓を向ける。
が、男は南の背後に隠れてしまう。
「それを捨てろ、悪魔め」
どっちがだ、と叫びたくなるのを堪える。
下手に刺激するのはまずい。
後ろの闇も気にしながら、僕は男を睨む。
どうすればいい。
どうする。
このままだと南は殺される。
後ろから屍か男の仲間が来れば、僕も危ない。
どうする。
南の怯えた顔。
その瞳。
その奥に、僕は、また何かを探している。
そんな場合ではない。
考えろ。
必死に考えろ。
背後の闇から聞こえてくる唸り。
焦りが募る。
南が、泣きそうな顔で僕を見つめてくる。
僕のせいだ。
全部、僕のせいだ。
南がここへ来たのも。
こうして捕まっているのも。
すべて、僕のせいだ。
それなのに。
南は、僕を信じている。
「撃って」
南の言葉が、僕を貫いた。
「いいよ。撃って」
どうして、どうしてそんなこと言うんだよ、南。
「無理言うなよ」
泣きそうな声が零れた。
過去が、あまりにもリアルに、こうして、現実にある。
君が言ったんじゃないか、南。
他に方法がないからそうするなら、それは負けだって。
君が言ったんじゃないか。
「私は、竜平の側にいるよ。だから平気。撃って」
引き金にかける指に、力を込める。
撃つしか、ないか。
それしかないのか。
「南、僕は」
震える声で言うと、南は頷いた。
息を止める。
このまま、永久に止まってしまえばいいと思う。
南の肩を狙う。
ちょうど背後に、男の首がある。
南は死なない。
けれど、痛いだろう。
死ぬほど痛いだろう。
絶対に外すな。
僕は狙いを定め、引き金を――
引いた。




