第二章 放浪(3)
数日間の平穏な『学生生活』が続いた。
眠る場所は相変わらず体操準備室だし食べるものは相変わらず戦闘糧食だけではあったが、彼らにとっては平穏な学生生活に他ならなかった。
アルフレッドはいくつかの物理学関係の授業と、電気工学や都市工学などの授業を受けて過ごした。シャーロットは常に彼について歩くようになっていた。
アユムは、人間科学や人文学に興味を持ったようだ。授業で取り上げられる文献のどれ一つをとっても彼女は所持どころか読んだことさえなかったが、アルフレッドの手引きで図書館からこっそり持ち出し、寝る前に熟読するようになっていた。
セシリアはまだ興味の的を絞れずにいるようだった。こっそり受講できる大講義室方式の授業は限られているため、時折アルフレッドたちやアユムと鉢合わせすることもあった。
エッツォは、一日中大学公園で図書館からうまく持ち出した本を読んで日々を過ごした。アルフレッドが一度興味を持って彼の手に取った本のタイトルを見ると、『星間ロジスティクスの基礎と宇宙商圏論』とあり、おそらく彼の興味は商学の類なのだろう、と思われた。
そのような日々が、何日続いたろう、と数えることを忘れかけたころ、アルフレッド、アユム、セシリアの三人が、まるで同じ話題を彼らの寝床に持ち帰った。
「今日は参ったよ、教室で突然話しかけられたんだ。なんて話しかけられたと思う?」
アルフレッドが最初に話題を振ると、アユムがにやっと笑って彼を指差した。
「当てて見せる。彼らはこう言ったんでしょう、『君は、学粋派か? 共存派か?』」
「じゃあ、君も」
「ええ。何それ、って訊いてやったら、ミネルヴァは純粋な学術集団であるべきか、学問以外の軍事、産業や非生産者まで含んだ共同体であるべきか、なんて話みたいね。考えたことも無かったって答えたら、珍しいものを見るような目で見られたわ」
「あっ、私もまったく同じです。なんだか怖くなって、よく分かんないですごめんなさいって逃げちゃいましたけど」
と言ったのはセシリアだ。
「そうか、僕もだ。何なんだい、ありゃ」
「人間ってのは、集まれば政治をしたくなる生き物なんだろうさ。無理に主義主張を異にしてね」
壁にもたれかかってまた新しい本を開いているエッツォは、本から顔を上げて肩をすくめて見せる。
「誰かれなく声をかけて歩いてるってことは、近々、その件を争点にした選挙か何かでもあるんじゃないかな」
「そうなのかもしれないわね」
「声をかけられるのは毎日なんですけど……あんな変なことを聞かれたのは初めてで驚きました」
「毎日ですって? なんて?」
アユムはセシリアの言葉に食いつく。
「一人? とか、晩御飯の予定は決まってる? とかばっかりですけどぉ……」
「あーもう、この子は、ほっとけないわね。危なっかしい」
そんな二人を見ながら、アルフレッドは、仲のいい姉妹みたいだな、と思う。
きっと、アルフレッドとシャーロットのように、からっぽ同士の二人だったんだろう。
とすると、壁際の志願兵は、さて、どんな中身を持っているんだろう、と興味がわく。
彼、エッツォは、自らが志願兵だったということ以外、何も語ろうとしない。
けれど、アルフレッドが同じ立場だとしても、そうしただろう。
自分以外の三人は、語るべき過去さえ持たないのに、自分だけが嬉々として過去を語れるものだろうか。当然そんなことはできないだろう。
彼とそのようなことを語らう日が来るだろうか。
そんなことをアルフレッドがぼうっと考えていると、
「……聞いてるの、アル」
とアユムが呼びかけているのに気付いた。
「あ、すまない、なんだったかな」
「変なのがロッティに絡まないようにちゃんと見ててあげてよ、って言ってんの。その子、すごく気が弱いんだから」
「僕が……」
「そうよ。一緒にいてあげて」
そう言われて悪い気がしない自分に気付き、また恥ずかしさで返事を口ごもる。
シャーロットはうつむいて微笑んでいる。
そんな二人を見てセシリアはくすくすと小さく笑う。
「あなたは笑い事じゃないの! 明日からできるだけ私かエッツォと行動よ」
アユムに叱られてセシリアは舌を出し、はあーい、と間延びした返事をして毛布に丸まって転がった。
***
事件が起きたのは、わずか二日後だった。
授業が始まる前の時間にいつものようすっかり寝床を片付け、五人で大学公園に向かう途中のことだった。
向こうから歩いてきた学生らしき二人、普段なら軽く挨拶をしてすれ違う程度なのだが、五人を認めると、彼らの前にぴたりと歩を止めた。
驚いて同じように立ち止まったシャーロットの手を引いてアユムが脇をすり抜けようとする。
しかし、二人組は手を広げて、止まれ、と半ば叫ぶように言った。
「何の用?」
攻撃的な視線で相手を睨みながらアユムが問う。
「見ない顔だ、誰のグループだ?」
一人の男は問いに問いで返した。
もう一人は簡易無線機のようなものでどこかに連絡を入れている。
「どこにも。学粋派にも共存派にも興味はないわ」
とっさに例の政治ごっこの話だと悟ったアユムは、首を横に振る。
「どうやって入った」
その問いの意味が分からず、五人は思わず顔を見合わせる。
「言っている意味が分からない、僕らは学生で、この大学に自由に出入りできるだろう」
たまりかねて、アルフレッドは軍隊式の高圧的な口調を叩きつけた。
「純粋な学生ならばね。純粋に学問を追究する、それこそが神聖な大学の目的だ」
「私たちが純粋じゃないとでも?」
「多くが純粋じゃない。この大学で教育と研究をするための組織だったミネルヴァは、今は戦争に明け暮れている。この大学を出て、軍隊に入るものさえいる。戦争のための道具を作っているものさえいる」
それは、エクスニューロも含むのだろうな、とアルフレッドは思う。
シャーロットたちの運命を狂わせ過去を奪った、人殺しのための道具。
「大学は浄化されるべきなのだ。純粋に学問を追究する者たちだけが大学に残り、それ以外は去ってもらう。その浄化過程として、大学は我々が閉鎖している」
要するに、主義主張を通すために大学に籠城しようというわけだ、確かにうってつけだろう、補給物資は山のように準備してある、とアルフレッドはため息をついた。その準備を丁寧に整えてやっていたのは彼らの忌み嫌う軍隊組織だというのに。
彼の演説の内に、遠くから十名程度の男が走ってくるのが見える。
「あれね、あなたら、学粋派とかって方ね。馬鹿馬鹿しい。どうせミネルヴァの軍隊が動けばあっという間に制圧されるわよ」
「軍隊は動かないさ、大学の教授陣やミネルヴァの指導部にも、学粋派は多い。馬鹿げた戦争をやめ、学問に没頭できる真のミネルヴァを作るのが我々の最終目的だ。そしてどうやら君たちは、そうじゃないらしい」
「そうじゃないとしたらどうする」
「出て行ってもらう」
「その後は?」
「戦争好きの奴らは勝手に戦場にでも行けばいい」
「そうはいかない」
アルフレッドは挑戦的な目つきで相手を睨みつける。
「僕らだって馬鹿げた戦争で死にたいわけじゃない。だが、君らの馬鹿げた行動で大学を追い出されたくもないし、そんな手段をとる君らに同調する気もない」
十名前後に見える男たちは、どうやら手に手に警棒のようなものを持っている。
純粋な学問の追究者の手に警棒か、呆れたもんだ、とアルフレッドは心中で嘲笑う。
「もちろん君たちが我々に同調するとは思っていない。純粋な学問の地である大学構内に、不正な手段で侵入しているのだから」
確かに、僕らは不正に学内に滞在しているわけだ、彼の言葉にも一分の理がありそうだ。
だからと言って、ここで素直に追い出されて、それから、どこへ行けばいいというのか。
ようやく手に入れたと思った平穏な日々を捨てて。
「はい、そうですか、って出ていくわけにはいかないんですっ。大学ってのは、みんなに平等じゃなきゃいけないんじゃないんですか?」
セシリアが口をとがらせる。
「分かっているよ、素直に従うつもりがないことは」
そう相手の男が言ったとき、駆けつけてきた警棒を構えた男たちは、彼らにいつでも飛びかかれる距離で五人をぐるりと取り囲んだ。援軍は、正確に数えると十一名。
「戦争を馬鹿げてるっていうのなら、その馬鹿げた警棒も捨てたらどう?」
「目的のために一時的な暴力は許される」
その言葉に、アユムは大きくため息をつき、そして、やおらポケットからエクスニューロと取り出すと、かちりと左側頭部に装着した。
それを見たセシリアもすぐに続き、エッツォも軽く肩をすくめてその行動を真似、最後に戸惑いながらもシャーロットがエクスニューロを手にした。
「嫌ならやめておけ、そこまでの事態じゃない、なんなら僕だけでも十分なくらいだ」
すぐにアルフレッドは小声でシャーロットに告げたが、
「で、でも……これ着けてないとあたしまともに動けないし……」
と、彼女は左手に持ったエクスニューロに視線を落とす。
「あの……ごめんね、あたし、これが無いとだめなの」
言い終わると同時に、彼女は、その左手を左耳の上に持っていった。
「リーダー・アユム、オーダーを」
そして、突如感情を失ったかのような声が彼女の口から飛び出す。
「ロッティ、十三名を制圧。できるだけ傷つけないように」
「了解」
「おい、なにをぶつぶつ――」
言いかけた男の顔が、一瞬で全員の視界から消えた。
飛びかかったシャーロットが瞬く間にねじり倒し、地面にその顔面を叩きつけたのだ。
「ロッティ、やりすぎるな!」
言いながら、アルフレッドもその隣の男に躍りかかった。
相手は腕を上げてアルフレッドの最初の一撃を防御し、転がるようにわきに避ける。
アルフレッドは男の左腕をすぐにつかみ、ひねりあげようとしたが、相手の男は思ったより力が強く、アルフレッドの右腕と男の左腕の綱引きはこう着状態に陥った。
すぐに男の右拳が飛んでくるが、アルフレッドは落ち着いて左腕で防御する。
左ひじを相手の顔面に向けて突き出すが、掴んでいた右腕を引かれ、わずかにバランスを崩してそのひじ打ちは相手の胸元に入る。
右腕を放し、右拳でもう一発、と思ったところで相手は崩しかけた体勢のまま倒れこむようにアルフレッドの腹部にタックルする。
二人はもみ合いながら倒れる。
案外まともな戦い方を知っているやつだ。
だが組み合いのレスリングとなればこっちのものだ。
思いながら、アルフレッドは、右腕を相手の肩に絡めて締め上げる。
さらに足をかけて相手を仰向けにしようとすると、相手は両腕で抵抗する。
その抵抗の右腕に組み付き、関節を思い切り引き延ばす。
男は悲鳴を上げ、地面に腹ばいになり、すばやく立ち上がったアルフレッドがその横腹に蹴りを一発入れて、ようやく勝負がついた。
そして顔を上げると、シャーロットが四人目を倒し、手際よくその肩関節を外しているところだった。
恐るべき戦闘能力だった。
側方に対応していたアユムも、乱れ撃たれる警棒の攻撃をひらひらとかわしながら、くるぶしに蹴りを入れて相手をうまく転倒させているところだった。
セシリアも一人をすでに倒して、二人目の腕を取って見事に背負い投げている。
エッツォは三人を同時に相手にし、警棒を避けながら顔面の急所に何度も突きを入れ翻弄しているところだ。あれならおそらくあと三十秒とかからずに三人が同時に倒れるだろう。
と思っていると、一度はシャーロットを相手にしようとしていた男が自分に向かっているのに気づく。
まだ間合いがある。
組み付くにも警棒のリーチが邪魔だ。
あまり得意ではないんだが、と思いながらも拳闘の構えをアルフレッドがとったとき。
その背後から追いついたシャーロットがどうやったものか、その男を転倒させていた。
転倒しつつも受け身を取り、右に一回転して体勢を整えようとその男が顔を上げたとき、まるでそこに顔を上げることが分かっていたかのようにシャーロットの回し蹴りがこめかみに炸裂し、男は白目をむいて倒れこんだ。
気がつくと、地面に倒れて呻いている十二人の男と逃げていく一人、無傷で立っている四人と軽い擦り傷を負ったアルフレッド、という有様だった。
これがウィザードの戦闘能力か。
戦局が逆転することもうなずけた。
アルフレッドが警棒を持たぬ相手に組みかかってなんとか得意のレスリングで倒す間に、四人対十一人で圧倒する強さ。
しかも、そのうち三人は、決して筋力で勝っているわけではない若い女なのだ。
ともかくここを離れよう、とエッツォが声をかけ、我に返った四人はあわてて走り出した。