第五章 最後の任務(6)
叫んだあとに、防爆ガラスの向こうで起こった一部始終をアルフレッドは否応無く視界に入れた。
激しい破壊の音、そして、血だまりの中に倒れている、アユム。
シャーロットを助けるために次の部屋に飛び込んで行った戦友たち。
視界の右端に黒い塊が迫ったことで、体が反応した。
フェリペがブーツで、膝をついているアルフレッドのあごを蹴り上げようとしていた。
とっさに右ひじでガードする。手先に痺れが走る。
アユム。
どうして。
アユム。
蹴られた痛みより強い痛みが、胸を襲う。
よろめくように立ち上がり、フェリペの次の一撃、左ひざ蹴りを、渾身の力で受け止める。
足元は、揺らがなかった。
ぐい、と力を込め、フェリペの体ごと飛んできた膝を押し返した。
なぜアユムが倒れている?
なぜ?
僕が叫んだからか?
理解できない感情の嵐に、口元から、小さな嗚咽が漏れる。
のけぞっていたフェリペが、怯えたような表情を見せる。
口の中ににじむ血の味が、現実感を失っていく。
喉がからからに渇く。
気づいたら、右拳を突き出していた。
受け止めたフェリペが、さらに一歩、退く。
「どうしてだっ!」
叫んだ。
叫びながら、彼の右拳を受け止めていた左手首を掴む。
力任せに引っ張ると、長身のフェリペが倒れ掛かってくるようにアルフレッドに覆いかぶさる。
――刹那、アルフレッドの体はくるりと回転して、フェリペを巻き込むようにして床に叩きつけていた。
フェリペの口から、げふっ、という悲鳴が漏れる。
アルフレッドは止まらない。
右腕を振りかぶり腰をめいいっぱいひねって。
体重をかけて振り下ろした。
その拳がめり込んだフェリペのみぞおちは、メリッ、という奇妙な音を立てた。
フェリペの瞳が瞼の後ろに隠れて。
彼は、沈黙した。
それを見てようやく落ち着いてきたアルフレッドは、肩で息をしながら、それでも、すべきことを思い出した。
――ロッティ!
踵を返すと、扉に向かって駆け出した。
***
壁際に追い詰めつつあるが、それでも、千日手に近い攻防が続いている。
たとえ追いつめたとしても、誰かが引き金を引けば、エレナの反撃はその誰かを確実に仕留めるだろう。
セシリアは、狙撃銃を持つ腕のしびれを感じ始めていた。
だが、疲れ果てて力が抜ければ、死だ。
――いや、それでもいいかもしれない。
私が撃たれて。
その隙に、シャーロットさんがエレナさんを仕留める。
それで、おしまい。
そう考えた途端、両腕から何かが抜けていく気がした。
「だめっ」
シャーロットが小さく叫ぶ。
彼女の眼は、エレナの放つ未来射線が、セシリアの胸を捉えていることを視ていた。
だけど、セシリアはもう限界。
拳銃を握る手に力を込め、『撃つ』という意思を際立たせる。
それが、エレナに対するけん制になるはずだから。
だが、エレナの意志も、固まりつつあった。
セシリアを射抜く未来射線は、徐々に細く濃くなっていく。
もう、だめだ。
シャーロットがそう思った瞬間だった。
扉のそばに、黒い影が飛び込んでくる。
――ああ、アル!
心の中でシャーロットが叫ぶのと同時に。
「エレナーっ!!」
アルフレッドは叫んだ。
それは、エレナの気を一瞬でも引こうという気持ちからだった。
シャーロットを傷つけようとする敵に対する怒りの声でもあった。
本来魔人にはそんなこけおどしは通用しない。
――はずだった。
意外なことに、エレナは、首を回した。
アルフレッドを正面から見据え、目を見開いたのだ。
シャーロットはその瞬間を逃さなかった。
彼女の放った銃弾は、空気を切り裂きながら飛び、エレナの頭の上、一センチメートルを掠めた。
外れた、のではなかった。
直後、弾丸は、頭からわずかに上に延びていた、エクスニューロアンテナを、砕いた。
そう、いつか、シャーロットがそうされたように。
エレナは瞳の光を失い、ゆっくりと膝をついた。
すさまじい速さで変化していく状況の直後のそれは、まさにスローモーションの中の出来事のようだった。
どさり、と音がして、エレナが横たわった。
と、間をおかず、シャーロットの右からも似たような音が響く。見ると、セシリアが膝をつき、肩で息をしていた。
エッツォはいち早く飛び出し、エレナの様子を確かめようとしている。
すべてが、終わったのだった。
***
倒れたエレナは、細い息をしていた。
意外なことに、意識ははっきりとしていた。
力なく何かをつぶやいている。
エッツォが呼びかけても、それには反応しない。
やがて、アルフレッドが覗き込んだ。
その瞬間、彼女の目が見開いた。
「に……い……さん……」
兄さん。
エレナはそう言った。
「兄……さん……生きてた……また会えた……よかった……」
アルフレッドはすぐに察した。
これは、エクスニューロで封じられていた、彼女の古い記憶。
ほかのウィザードの贄となった娘たちと同じく、家族をすべて失った孤児。
失った家族の中に、兄がいたのに違いない。
おそらく、彼女の兄の相貌や背格好が、アルフレッドによく似ていたのだろう。それが、彼の叫びをきっかけに彼女の心を揺さぶったのだ、と。
「ごめん……なさい……私……大変なことを……」
「もういい、エレナ。しゃべらなくていい。今は、眠れ」
アルフレッドが優しく言うと、エレナは一粒涙を落とし、そして、深い眠りに落ちて行った。
しばらくそれをじっと見つめていたアルフレッドは、振り向きながら立ち上がる。
目線の先にはシャーロットがいる。
「……ロッティ、無事でよかった。エッツォ、セシリア、ありがとう」
「どういたしまして。……でも、アユムさんが」
セシリアはうつむき、そして、ずっとこらえていた感情を、その双眸からこぼし始めた。低い嗚咽がそれに続く。
「……行こう」
アルフレッドは先に立って、奥に、アユムのいる部屋に向かって、歩み始めた。
入ってすぐのところに、エレナと同じように倒れ込んだ五人の少女がいた。彼女らはすでにウィザードではない。意識はあるが戦意は無いようで、怯えるように投げ出した銃や天井を見つめて震えている。
ラックの間の通路を進んでいくと、割れたガラスが飛び散っているのと、赤い床が見えてきた。
赤い床の上に、アユムは横たわっていた。
アルフレッドは、血だまりに足を踏み込み、そして、膝をつく。戦闘服のくすんだ緑に、赤が染みて真っ黒になる。
うつむいて倒れたアユムは、顔を横に向けて、目を閉じていた。
そっと首筋を触ったが、彼女はすでにこと切れていた。
わあ、という叫びに似た声が、彼の後ろで上がる。
セシリアが、また、泣いている。
シャーロットも、直視しきれず目線を逸らして、涙を落としている。
エッツォも、目を真っ赤に充血させている。
アルフレッドは、みぞおちのあたりにあるものを、吐き出せなかった。その何かは、どうしても引っかかって、口から吐き出せなかった。
――もう、アユムは、いない。
そう思うたびに、胸につっかえる何かは大きくなっていって、息が苦しくなった。
シャーロットが、ゆっくりと彼に近づいた。
「……アル。泣いても……いいんだよ」
――泣く。
僕は、泣くのか。
――泣いてもいいのか。
そう思ったとたん、咆哮が口から洩れた。
怒号という言葉さえ生易しいほどの、音量だった。
両目から涙が落ちた。
誰かを失ってこんなに悲しむ自分がいるとは、信じられなかった。
胸につかえていたのは、純粋な悲しみだった。
***
服が汚れるのも構わず、アルフレッドはアユムの遺体を抱き上げて、振り向いた。
「――作戦完了。帰投する」
三人が三様の表情を浮かべたまま、うなずいた。
怯えるウィザードたちのそばを通る。
――彼女らに罪はない。
「エレナを、頼む。第三市の病院で治療すれば、まだ長生きできるかもしれない」
誰か一人がうなずいたように感じたので、それ以上を言わずに中枢機械室を出た。
副機械室を通り抜けるとき、倒れているエレナをもう一度見た。
あれからまた涙をこぼしたようで、両目の脇にはっきりした涙の線があった。彼女は何を思い出し、何を思うだろう。
だが、もう関わる必要はない。
廊下に出た。
フェリペが倒れている。
右腕がもぞもぞと動いているところを見ると、目を覚ましたようだ。
だが、アルフレッドが殴った感触では、肋骨は折れ、内臓も深刻なダメージを負っていて、とても動ける状況ではないだろう。
――だが、もう、いい。
あんなもの、相手にする必要はない。
アルフレッドは、何か達観した気持ちになって、それをやり過ごそうとした。
――瞬間。
後方から銃声。
フェリペの体から血しぶきが飛ぶ。
二発。三発。
最終的に八発の弾丸がフェリペの体を削り取った。
振り返ると、エッツォとセシリアの銃から煙が上がっていた。
「エッツォ……セシリア」
「分かってる。放っておいてもいいと思ったんだろう。だが、それは次の危険を招くだけだよ。すべて終わりにするにはこれしかない」
エッツォのその表情は、間違いなく、大マカウ国のエージェントとしての責任感が作ったものだった。
一方。
「エレナさんも、あの人のエクスニューロもどこかに生きてる。フェリペさんを仕留めないと、結局同じことです」
両目を真っ赤に腫らしたセシリアは、それでも、きっ、とそれらを見開いて、怒りか悲しみかで震える声で、アルフレッドに向けて言った。
「……そうだ。そうだった。またあいつのためにたくさんの人が死ぬなんて……ごめんだ」
安らかなアユムの顔を見下ろす。
そして、再び歩みだし、フェリペだったものを横目に、地上へ向かった。
破られたエントランスに着いたとき、ちょうど、第五市に朝の光が射しはじめていた。




