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マリアナの女神と補給兵  作者: 月立淳水
第一部 マリアナの魔法使い
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第二章 放浪(2)


 一部が真っ白の、五枚のプラスチックカードをアルフレッドは差し出した。


「何よこれ……ディエゴ・デル・ソル大学学生証……学生証?」


 すぐさまアユムが受け取って眺め、書いてある文字を声に出して読む。


「そう、その、なんというか、印字前のもの」


「あはっ、じゃ、これに、私たちの名前を書いて、大学で悠々と潜伏生活、ってわけですね」


 セシリアも一枚をアルフレッドからもぎ取る。


「こういう資材がどこにあるかはよく知ってるから。これに、本物そっくりにうまく自分の名前を書いて、顔写真を印字すれば、一目見ただけなら疑われない。これがあれば、学内にいる限りは安全だ」


「なるほど、学究自治を旗印にしているミネルヴァに対する最大の武器だね。お手本はあるかな?」


「何かの手続きマニュアルに見本があるだろう。探してみよう」


「ロッティ、ここにいれば安全かしら?」


 アユムは、うつむいて黙っているシャーロットに尋ねる。


「あ……その、この前、エクスニューロつけてここにいたときは嫌な感じはしなかったから……」


「……そうね、今エクスニューロつけて暴走されても困るわね、その時の勘を信じましょう。で、寝床は?」


「体操室がいい。マットもある。毛布は……補給物資からくすねよう」


 アルフレッドの提案に、五人はすぐに行動を開始した。

 彼の言った通り、毛布は補給物資の中にいくらでもあった。

 今度は五つも補給ボックスが暴かれて、さすがにちょっとした注意喚起文書が補給部隊に出回るだろうな、とアルフレッドは思う。


 あえて少しだけ食糧を底に残して、毛布と糧食を小さなカートに乗せる。部分損と全損では問題スコアが全く違う。注意喚起を少しでも遅らせるのに、わずかでも残しておくことは重要だ。


 体操室の施錠されていないドアをくぐり、準備室を覗くと、体操用のマットがいくつも丸めてある。

 それらを準備室内に広げ、鍵のない準備室が不意に開けられないようつっかえ棒で仮の錠を施して、五人は脱走後三日目、大学で初めての夜を迎えた。


 翌朝、学生が増えてくる前に準備室をきれいに片づけて外に出る。

 大学公園をぐるりと散歩し、集まってきた学生に紛れるように、池のほとりでたむろする。


 最初の授業の時間になると急にひと気が無くなり不安になった五人だったが、せっかくだから授業に紛れ込んでみよう、と、新校舎の大講義室にこっそりと入る。

 社会資本となんとかかんとか、というよく分からない講義だったが、大きなパネルに映し出される言葉を一つも逃すものかと五人は必至で読んだ。が、もちろん、ただの一つも理解できることはなかった


 それでも五人は満足だった。


 明るい世界だった。

 この世界を守るために戦っていた。

 あの暗い戦場で。


 守られる彼らと、守る自分たちの格差に愕然とする。


 彼らを守ることは、確かに崇高なことかもしれない。

 けれど、そのために命を捧げる自分たちに、何の報いがあるのだろう。

 生きて自らの幸せを探求できるのではないか。


 戦争の無い時代など知らない。生まれたからには戦死で人生を終えると思っていたアルフレッドは、初めて自らの人生にそれ以外の終焉の可能性を見出していた。


 昼食は持ち出した糧食を池のほとりで食べた。

 午後はそれぞれ好きな授業に出てみない? と提案するアユムに、全員が首を縦に振った。

 そんなことさえ許される自由が、ここにはある。


***


 アルフレッドは講義室使用予定表から物理学の授業をいくつか見つけ、最も初級のように思われるものを一つ選んだ。

 ほかの三人がどこを選んだのかは分からない。

 だが、シャーロットだけは、アルフレッドについてきていた。


 目立たないように隅に座るアルフレッド、その隣にシャーロットが腰を下ろす。


「君も物理学に興味が?」


 授業が始まるまで十五分。さすがに早すぎた、と思いつつ、アルフレッドはシャーロットに話しかけた。


「あっ、ごめんなさい、一緒だと迷惑……だった?」


「いいや、そうじゃないけど」


「よかった。アル……アルって呼んでいい? ……ありがとう。アルがどんなことに興味があるのかなあ、って思って」


 うつむき気味だが、ほのかに微笑を浮かべて。


「僕は……もし大学に入れたら、物理学を研究しようと思ってた。それがどんなものかまでイメージは無かったけど」


「この授業で、分かるの?」


「分からないと思う。……でも、雰囲気くらいは」


「そっか」


 相変わらず、シャーロットは微笑とも哀しみともつかない表情を浮かべている。


「シャーロット、君は――」


「ロッティ」


 話しかけた瞬間に、シャーロットは顔を上げて、アルフレッドの瞳を視線で刺した。


「あたしと親しい人は、ロッティって呼ぶの。セシリアやエッツォはまだ遠慮してるのか分からないけど……アル、あたしの友達だったら――」


「分かったよ、ロッティ。それで、君はその、軍に入る前には何を?」


「分からない」


 彼の質問に、シャーロットは即答した。


「思い出せない。初めての記憶の中のあたしは……エクスニューロをつけてた。きっとね、いろいろ脳をいじくる機械だもの、つける前の記憶を思い出せなくするくらいのことはできちゃうんだろうね」


 彼女の、軽い口調とはまるで反対の重い告白に、アルフレッドは絶句する。

 確かに、先日、セシリアも似たようなことを口走った。気がついたら、戦っていた、と。


「その……悪いことを聞いてしまったかな」


「ううん。思い出さなくてもいいことのはずだから」


 そんなことなんてあるものだろうか。


 アルフレッドは、まだ記憶の中にある、父の帰らなかった日を覚えている。

 母が物言わぬ姿となって帰ってきた日のことを覚えている。

 人の死のこと、自分のいつかたどり着く場所を知った日のことを。


 このような人体実験まがいの兵士となっているシャーロットも、きっと身寄りがないだろう。

 いつかどこかで、その両親を亡くしたはずだ。

 それは、必要のない記憶なのだろうか。


 ――ウィザードという新兵器にとって。


 けれど、目の前の彼女はとても優しげで。

 もし、彼女の記憶がアルフレッドの想像以上に苛烈なものなのだとしたら、それを思い出すことでその優しげな微笑みが消えてしまうことが惜しい、とも思う。


「帰る場所も、分からないんだな」


「そう……ね。それだけは思い出せればいいんだけど」


「だったら、これから僕らが行く場所が帰る場所だ」


「そうなると……いいね」


 再び儚げに微笑むシャーロットを、アルフレッドは抱きしめたいと思った。

 それは若者特有の性的な衝動ではなく、純粋な庇護心と言ってもよかった。

 妙な機械を頭に埋め込まれて、不必要な逃亡生活を強いられて。


 なんてかわいそうな子なんだ。

 なんて不憫な子なんだ。

 僕なんて……。


 僕は?


 両親を小さいころに失って、ミネルヴァのお情けで通わせてもらった学校では大学に行けるほどの成績は修められず、何にでもなれるはずだった無限の可能性の一切を奪い去られ、戦場で父母と同じように人生を終えることが決められていた人生。


 なんて馬鹿なことを。


 シャーロットと僕は同じだ。


 帰る場所も、行くべき場所もない。


 なんだ、最初から同じだったんだ。


 それをこれから探すために出会ったんだ。


「君に出会って、良かった」


 アルフレッドがふと口にすると、シャーロットははっと顔を上げ、それから顔を真っ赤にしてうつむく。


「こんな……からっぽのあたしでも?」


 シャーロットがからっぽだというのなら。

 自分もからっぽに違いない。

 行くべき場所も、帰るべき場所も知らない。


 それを、からっぽと言わずしてなんと表現する?


「もちろんだ。僕もからっぽだから」


 アルフレッドはしっかりとうなずいて答えた。


「今のは、プロポーズと思って、いいのかな?」


 そして、シャーロットのこの新しい解釈に、ぎくりとする。


「そ、そんなつもりはないけれど」


 あわてて言葉を濁すアルフレッド。


「……うふふっ。そうよね、まだ出会って一週間だもの」


 シャーロットは、おそらく、アルフレッドに会ってから初めて、声を出して笑った。


「も、もっとお互いを知ってから」


 アルフレッドは、おそらく、人生で初めて、気恥ずかしそうにうつむいて口ごもった。


「でも、アルはあたしのすべてをもう知ってる。あたし自身と同じくらいに。だって、あたしはからっぽ」


「じゃあ、ロッティ、君もそうだ。僕もからっぽだから」


 アルフレッドはうれしくなっていた。

 ただ死ぬ日が来るのを待つだけだと思っていた人生が、違うものに思えてきた。

 自分と同じくらいからっぽの人間が、自分よりも豊かに泣き、笑い、怖がり、微笑んでいる。


 この人のそばにいれば、自分はもっと豊かになれる。

 そばにいたい。

 そばにいてほしい。


 これが、恋だろうか。

 分からない。

 だが、きっと、辞書通りに解するなら、恋、なのだろう、とアルフレッドは思う。


 思った瞬間に、その気持ちを振り払う。

 あまりに気恥ずかしくて。


「ずっと、一緒にいても、いい?」


 そのシャーロットの問いは、まだ二人には早すぎたかもしれない。

 けれど、ひたすら死の恐怖におびえる日々を過ごした彼女にとって、突然訪れたこの平穏で明るい一日は、目の前の年下の男性がもたらしてくれたものとしか思えなかった。


 この人と一緒にいれば、永遠にこんな日を過ごせる。


 彼女が、そんな勘違いをしてしまうのも、無理からぬことだった。


 騒がしい声を上げながら学生の集団が入ってきた。

 講義室があっという間に人であふれ、結局二人の会話はそれが最後だった。


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