第二章 義勇(3)
第二市と第三市の間、ちょうど大陸の東西の中間に、北部山脈から流れ出る大河がある。惑星を代表する大河であり、実に『マリアナ川』と名付けられたこの大河が、第二市の東部ルーラルと第三市西部ルーラルの境界だ。
南から吹き込む湿った空気が山脈に雨を降らせ、多数の川が北から南に向けて流れているが、この川はその中でもとりわけ大きな川で、河口から北に百五十キロメートルの内陸でも、川幅が四キロメートルある。その近辺は浅くゆるやかな流れで、開拓時代に四本の長大な橋が渡されていた。
橋はすべて正統政府の管理下にあり、その一つのたもとから東に五キロメートルの地点に正統政府軍の大規模な駐屯地がある。もともと無政府状態だった第三市を施政下に置くための橋頭堡とするはずだったその基地は、今ではミネルヴァとの勢力分界点の役割を果たす。
第三市までは二百キロメートル以上を残しているが、機械化部隊であれば一日で到達できる距離であり、実質の前線である。衝突が起こらなかったのは、単に正統政府が戦争を手段として選ばなかったことが理由だ。
だが、ミネルヴァが、単なるテロリストと言うよりは拮抗する勢力となった今、掃討ではなく『戦争』が、正統政府には求められていた。
周辺武装勢力との戦いで戦闘の経験は十分にあるが、軍隊組織として指揮され国家的生産力を背景として継続的に戦争ができる相手との本格的な戦いは、実のところ、正統政府軍としては初めてのことである。
ゆえに、様々な理由から、短期決戦が求められている。
第一市周辺で掃討活動をしていた全軍も第三市西部に向けて一挙に移動する。第一市は市内の備蓄をすべて解放し、代わりに、第一市への物流を担っていた民間のトラックはすべて兵力移動と補給作戦に徴用される。
その補給網によって、まずは第二市、それから前線駐屯地へ、補給物資が運び込まれる体制が整えられる。第六市からの機械部品の輸入航路も、第一市西部の港に向かっていたものは、第二市東部、マリアナ川の中流に位置する荷揚げ港にすべて振り向けられる。
相当に早い時期から前線基地には二万名もの兵力が集まっていたが、さらにその数は増し、おそらく五万名に近くなるだろう。車両も二百を超え、そのうち二十両は分厚い装甲を持つ主力戦車だ。そのすべては旧政府時代末期に急造された兵器ではあるが、それ以降ほとんどの重生産技術が失われたマリアナの地上においてはいまだ最強兵器の名をほしいままにしている。
それらが、なりふり構わず、ミネルヴァとの境界に集結させられつつある。
同時に、第一市から第三市まで運行していた鉄道は、運行休止となっている。わずかに残っていた第一市・第三市間の経済活動は完全にストップし、第一市、第二市ではミネルヴァ紙幣の価値が暴落した。同様に、ミネルヴァ領内でも正統政府紙幣は紙くずとなり、経済は混乱し始めた。
こういったことがわずか半月の間に進み、そしていよいよ、正統政府大統領により、対ミネルヴァ開戦の方針、および、有権者による大統領罷免権が制限される臨時体制確立が宣言されるに至った。
***
第二市郊外の小さなホテル。
もともと利用者が少なく手入れも行き届いていないホテルだが、ここ最近は特に利用者が減っている。
第三市からのわずかばかりのビジネス出張者や観光者は、鉄道の封鎖のために完全にゼロとなり、また、臨時体制のために第一市からの旅行者もほとんどなかった。
もちろんホテルでの身元の確認シーケンスは一つ増え、彼らは第六市であつらえてあった偽造身分と旅行の目的を二度説明する必要があった。
一度は正統政府軍に対して反乱を起こした以上、手配されていることを想定して変装をする。アユムとセシリアはエクスニューロを外し眼鏡や帽子などで雰囲気を変える。シャーロットはぶかぶかのニット帽を深くかぶってエクスニューロデバイスを隠し、長いマフラーを首元にぐるぐる巻きにしてほとんど目と鼻しか出ないようにする。さほど寒い地方ではないが、常夏の第六市から来たと言うと彼女が寒がりなことはさほど奇異には思われなかったようだ。
続きの二部屋を確保し、一方をアユムとセシリア、もう一方をアルフレッドとシャーロットが使うことになった。妙な気の利かせ方はやめてくれ、とアルフレッドは抗議したが、気にせず仲良くね、とアユムは笑って二人を部屋に放り込んだ。
その部屋は、バルコニーもなく、はめ殺しの窓は薄汚れた強化プラスチックで外の景色もまともに見えなかった。実に、旧政府時代に建設されたそのままのホテルだった。狭いが割ときちんとした造りの木製のベッドと、色褪せたベージュのソファベッド、間に狭いローテーブル、小さな洗面シャワー室、人がすっぽり入れるほどのクローゼット、という設備の狭い部屋だが、それでも、長い間、船上か車内にしか就寝の場を得なかった彼らにとってはこの上ない安らぎの場だ。
アルフレッドは、通りの雑貨店で買ってきたディナープレートをローテーブルに広げる。シャーロットはそれを見てすぐにホテル備え付けのフォークやスプーンなどの食器を探しに行く。洗面所のチェストの中に無造作に放り込まれているのを見つけ、水道で丁寧に洗って部屋に戻ると、もうディナープレートは湯気を上げていた。
「ありがとう。じゃあ、食べようか」
アルフレッドが食器を受け取りながら言うと、シャーロットは微笑んで彼の隣に座った。
長く兵糧を食事としていた彼らにとって、町の雑貨店で手にはいる即席のプレートでさえ久しぶりの香りのする食事だった。シャーロットは、湯気を胸いっぱいに吸い込んで、ふう、と吐き出した。
最初にスープに口をつけ、それから、数種類のハーブで調味されたリゾット。たっぷりのトマトソースで煮込まれたタラはこの上ない風味だった。
「……いろいろあった」
アルフレッドがつぶやく。
「うん、いろいろ……あたしたちの周りでいろんな人が」
シャーロットが言葉にしなかったことをアルフレッドは心中で補い、うなずく。
「あたしは助かるべきじゃなかった」
「そんなことは無い」
彼は即座に否定する。
「でもアル! ……すくなくともアルは、こんな面倒なことにならなかった。あの図書館で、あたしを助けようなんて思わなければ」
「でも僕は助けた。そして、僕は助けられたと思っている」
「どうして?」
「……聞きたい。君の……ウィザードが皆殺しにされるっていう予感は、まだ?」
「……分からない」
彼女の直感能力、量子論的な完全推量は、その対象を脳から伸びる軸索の先端に拡がる五感に感じなければ発動しない。それが、エンダー教授が示した一つの原則だ。
「そうか……でも、僕は、それはきっとフェリペのたくらみだと思ってる」
その男の名を聞いて、再びシャーロットが硬直する。一度は彼女を敗北させ、おそらく今後、彼女の身柄を付け狙ってくるであろう男。
「エンダー教授の話は、あらましは説明したけれど……彼、フェリペは、ミネルヴァだとか、マリアナの戦争だとかに飽きたんだ。彼が魔人を自分の手に握ることに固執するなら、ミネルヴァなんて滅びたほうがいいんだよ。だけど、ミネルヴァは勝った。彼はコントロールしてる。ミネルヴァの力で全てを滅ぼし、最後はミネルヴァ自身を滅ぼす。ミネルヴァ軍に籍を置くものは、彼の手駒に過ぎない」
言いながらアルフレッドはサワーソースのかかったボイルキャベツを口に入れる。
「……彼は、ウィザードごとミネルヴァを滅ぼそうと思っているはずだ。それが、君が感じてる予感だと思う。そのとき、きっと、軍属の僕も無事ではすまないだろう。だから、君を助けたようで、僕は君の予感に助けられたんだ」
彼がキャベツを咀嚼して飲み込む喉の動きを見つめていたシャーロットは、最初は目を見開いて驚きの表情を見せたが、すぐにまた儚い柔和な笑みを浮かべる。
「そっか……アルがそんな風に思っててくれたんなら、うれしい。他の誰を助けたのよりも、うれしい」
「僕が君を助けたのは、だから当たり前のことなんだ。君の助けに報いて、そして、僕がまだまだ人生を楽しむため……君と」
最後の語をためらいながら口にし、アルフレッドはあわててシャーロットから目を逸らしてうつむく。
シャーロットはそれを見て、くすっと小さく笑う。
「うん、あたしも!」
彼女がそう言ったのを聞いて、ようやくアルフレッドは顔を上げた。
アルフレッドのはにかみ顔と目が合うと、シャーロットはもう一度笑って、右手の人差し指を、自分の下唇にとんとんと当てた。
もちろん若く健康な男性としてアルフレッドはその誘惑に駆られる――が、一瞬前のめりになった彼の動作は、そこで止まった。
「……いや、まだ。僕にはその資格は無い」
「これは誰かに資格をもらわなくちゃならないことじゃないよ」
「そう、僕自身が認めなくちゃ。だから、まだ。僕は、まだ君を、たくさん、危険な目に遭わせなきゃならないと思ってる」
あたしが? と言う風に、シャーロットが首を傾げる。
「そう。フェリペは、全てをコントロールして、たくさんの人を殺して、最後には君を手に入れようとしてる。……僕は彼の計算を叩き潰したい。戦争さえ終わらなければ君は彼から逃げ続けられる」
アルフレッドはついに、倒錯した感情を吐き出す。自分こそがコントロールする。戦争を終わらせようとするフェリペの画策を狂わせてやる、と。
シャーロットは、彼の言葉を聞いても目立った反応を見せない。彼女自身、彼の想いをすでに推測できていたから。エクスニューロの力ではなく、人が人を想う力で。
「――そしていつか、彼を倒す。彼に勝つには、どうしても君の力がいる」
「でもあたしはエレナに手も足も出なかった」
「それは後々考える。でも、彼はエレナを軽々と前線には出さない。逆にもしエレナがこっちに来てるなら、僕らはフェリペの寝首をかくチャンスを得たことになるんだ。どちらにしろ、僕らのすべきことは変わらない。彼がコントロールしようとしている政府とミネルヴァの戦争を、彼の思惑から外してやろうと思う。ただのウィザード以下の兵士なら君の敵じゃない。だから、君には一番危険な役割を頼まなきゃならない」
「そういうことなら……うん、大丈夫。あたしは、アルの言う通りに戦う」
もう一度小さくため息をついて、シャーロットはスプーンを口に運ぶ。
「アルはあたしを助けてくれた。それにシュウさんもたくさんの騎士団の仲間も……無駄にしちゃいけないもの」
そうか、そうだな、とアルフレッドはつぶやき返す。
「あの人はきっと……本当に戦争や人殺しが嫌いで……だから、戦うために生まれた軍隊やウィザードが嫌いで……そんなものに対してはとても冷酷で……あたしだってそんなものなくなっちゃえばいいって思う、でも、その中にアルとかアユムが入ってるんだと思うと。生き残った騎士団の人たちもその中に入ってるんだと思うと」
「……戦わないと」
「……うん」
アルフレッドはスプーンを置いてシャーロットに正面から向かい合う。
「いつになるか分からないけれど。フェリペが君を狙わなくなって、アユムも普通の人生を過ごせるようになって。――戦争が終わったら。そんな世界になったら。新しい世界に行かないか。宇宙へ。いろんな世界を見るんだ」
「あたしも?」
「そうだ。君がいなきゃ。僕らは盗賊団になるんだ。君はどんな錠前だって破れる。お金持ちからちょっとだけ盗んで、星から星へ旅するんだ」
「……うん、面白そう。ね、アユムも誘って、いい?」
「もちろんだ。エッツォもセシリアも」
「二人きりじゃなくても?」
「二人きりになんていつでもなれる」
アルフレッドが笑いかけると、シャーロットも笑い返した。
「じゃあ、きっと。きっと、ね」




