第一章 知の砦(3)
妙な疑いを持たれぬよう、無言で足早に、二人は大学の旧校舎に向かった。
コの字型の旧校舎の広い中庭には池があり、そのほとりに多くの大学生が座って、ちょうど昼食をとっているようだ。
補給ボックスを抱えた軍服の男と、私服には見えない白い制服、あるいは運動服のような出で立ちの女は、やはり多少目立つ。
中庭をすり抜け、旧校舎の中へ。
人がいない方へと無計画に進み、あまり使われていなさそうな部屋を発見する。
化学実験室と書かれたその部屋は、施錠されてなく、二人は難なくその中に入った。
実験台と水道がいくつも並び、奥に準備室がある。
準備室の扉は錠がかかっていたが、力任せにひねると何かがねじ切れた音がしてノブが回った。入ると、埃だらけでここ数年は誰も入った形跡が無い。
情報科学で名をはせたディエゴ・デル・ソル大学においては、化学は明らかに不人気の科目であることくらいはアルフレッドでさえ知っている。
軽く埃をはたいてなんとか居場所を作ると、この準備室でしばらく待っていろ、と言って、アルフレッドは出て行った。
一人で置いていかれたシャーロットは、しばらくは黙って座っていたが、不安になってあたりを見回す。
壁一面の棚の中には、古びた化学薬品が大量に並んでいる。
いくつかを手にとって注意書きを読んでみるが、書いてある意味は全く理解できない。
薬品への興味を失い、部屋を見渡す。
手の届かない位置に小さな窓がある。
すぐそばにその窓を開けるためのフック棒がある。
何度か失敗した後、窓を押し開けると、とたんに涼しい風が吹き込んできた。
同時に、中庭からの学生たちの話し声も飛び込んでくる。
もしかすると、あの中で楽しい学生生活が送れていたかもしれない。
なぜ自分は、軍隊なんかに。
上手く思い出せなかった。
気がつくと、エクスニューロをつけていることが当たり前になっていた。
ウィザードとして敵と戦うこと。
どうしても拒否できない命令があった。
きっとすべて、エクスニューロのせい。
あれさえ無ければ、自分は自由になれる。
けれど。
あれが無いと、あたしは戦えない。
あたしを殺そうとしている――――と。
……誰?
分からない。
知っているはずだったのに。
思い出せなくなっている。
だけど、このままだときっとそいつに殺される。
エクスニューロは、力をくれる。
あれをつけたあたしには、誰もかなわない。
あれをつけていれば何でも見える。
引き金を引く前に、その弾丸が相手を倒すかどうかが分かる。
馬鹿な地雷なんて、自分はここだと叫んでいる。
あれがあるから生きてこられた。
無くなったら、死んでしまう。
いやだ。
死にたくない。
――シャーロットが考え事をしていると、アルフレッドが再び戸を開けた。
「その格好じゃ目立つだろう。学内購買で古着を買ってきた。サイズは分からないが、身長は百六十ってところだろう?」
衣類の詰まった紙袋をシャーロットの前に投げ出す。
アルフレッドも、いつの間にか軍服から私服に着替えている。
紙袋の中には、白いシャツと緑のセーターとカーキ色のズボン。
アルフレッドが部屋を出たのを確認して、あわてて着替えた。
ズボンは膝下までしかなかったが、温暖な季節にはちょうどいい。
靴を買い忘れていることは指摘しないことにした。
案外、ウィザード部隊に与えられたこの白いブーツも、おしゃれだと思えば、この格好に似合ってなくも無い。
***
中庭の池のほとりの芝生に、他の学生と同じように腰を下ろした。
良く見かける大学生のカップルに見えなくもないだろう。
軍服と白いウィザードの制服さえなければ、この二人が脱走兵だと気付くものはあるまい。
そこまで考えて、アルフレッドは、自分も脱走兵となっていることに気付いた。
まあ、いい。
どうせ、出世するような見込みは無かった。
コネが無いやつは出世しない。
両親ともたいした戦果も上げずに戦死したような子供が、いくら体技がちょっと得意だからと言っても、出世の道は無かろう。
勝手に持ち去れる軍需品の場所はたくさん知っている、食っていくのに困ることは無いだろう。
このまま、戦争が終わるのを待っても、いいかもしれない。
あの準備室に放置していくにはいかなかった三品がポケットにあることを思い出す。
そのうち一つを取り出す。
「エクス……なんだったかな」
「エクスニューロ」
シャーロットは言いながら手を伸ばしたが、アルフレッドは腕を上に伸ばしてかわした。
「戦わないのなら必要ないだろう」
「うん……でも」
と、シャーロットは手を引っ込めながらうつむく。
「もう一度教えてくれないか。これは一体、何だ?」
アルフレッドは、持ち上げた『それ』を青空にかざして眺める。
「拡張……神経。脳神経を拡張するもの。脳神経と同じように幾何学的回路で脳神経を模擬して……だけど、生身の脳の何千倍も速い計算ができるの」
「……つまり、この中には、作り物の脳が入ってるってことか?」
「そう……かも」
では、この小さなデバイスの中に、もう一人、誰かがいるんだろうか、とアルフレッドは考える。
「さっき僕と戦ったときの君はまるで別人だった。あれが、エクスニューロの人格なのかい?」
機械に『人格』だなんて、と思いながら尋ねる。
「ううん、あれもあたし。エクスニューロをつけてるときの自分と今の自分と、ちっとも変わってないって思ってるんだけど……やっぱり違うかな」
「そうだね、全く」
「そっか……ウィザード部隊の友達にも同じこと言われる。他の人は、変わったりしないの。たぶん、あたしって部隊の中でも飛び切りに臆病だから……戦うことが怖くて無意識に仮面を被ってるんだと思う」
そうかもしれない、とアルフレッドも思う。
こんなに優しげではかなげな彼女が、最前線で敵兵と殺し合いなんて、全く想像できない。
「これをつけていれば、僕をひねり倒すような芸当ができるってわけだ」
「あの……あの時はごめんなさい。エクスニューロをつけてると、感覚が拡がるの。見えないはずのものが見えたり。次にどうすべきかがすぐに分かったり」
それは、普通の感覚では絶対に気付かないような、新兵試験体技第二位の男のわずかな隙を見抜く、そういうものなのだろう。
そして、わずかな隙を突いてどのように体を使えば相手が転がるか、そんなことも一瞬で演算して教えてくれる。
なるほど、こんなものが一中隊でも投入されれば、戦局は大きく変わってしまう。
軍属の自分さえ知らなかった秘密兵器。
「そんなのが、あと何人も?」
「うん……でも、みんな、みんな、死んじゃう……」
「まだ分からないだろう」
「分かるの。エクスニューロをつければ、分かるの」
人の生死が見えると言う彼女。
こればかりは、彼女の被害妄想だろう、とさすがにアルフレッドは思うが、彼女の表情は真剣そのものだ。
「だけど、ともかく君はこうして脱走に成功した。だったらやっぱり、これはもういらないだろう?」
アルフレッドはもう一度、手の届くところにエクスニューロを示す。
ゆっくりと、でもまっすぐにシャーロットの手が伸び、それを掴んだ。
「いる。これが無いと、あたしには何もできない」
この人は戦いたいのか戦いたくないのか?
わけが分からなくなって、アルフレッドはため息をついた。そして、エクスニューロを持つ手の力を緩める。
それは、ゆっくりとシャーロットの手に渡る。
「……ありがとう」
感謝の言葉にも、アルフレッドは何も返せなかった。
戦うことを忌避して脱走している人に武器を手渡すことは、果たして感謝されるべきことか?
「これから?」
彼女がここにとどまって静かに隠れていると言うのなら、時々食料を届けてやるくらいでいいだろう。
そうすれば、自分はどうしよう、と再び考えるときが来る。
今ならちょっとした訓告付きで復隊できる。
「……友達を、助けたい」
しかし、シャーロットの言葉は意外なものだった。
「友達を? つまり、君の妄想……いや、予感が、皆殺しにされると告げる、ウィザード部隊の友達ってことか」
「うん。まだ、前線にいる。一人でも二人でも助けたい」
「本人たちの気持ちもあるだろう」
「……ちゃんと話してみる」
と言って、これから、激しい戦闘の行われている最前線に、この頼りない女の子と二人で、と考えると、さすがに現実味が無い。
思っていると、目の前でシャーロットは立ち上がり、そして、やおら、左側頭にエクスニューロを取り付けた。
「おっ、おい、やめろ」
「拒否。僚友の救出を開始。アルフレッド・レムスはここで待機」
その視線が指し示す方向は、おそらく全く過たずに、新マリアナ連盟との戦闘の最前線だろう。
そのまま歩き出そうとする彼女の前に、アルフレッドは思わず飛び出した。
「最前線に一人で、なんて自殺行為だ。なあ、まず、待ってくれ」
そう言ってエクスニューロに手を伸ばそうとしたが、今度はシャーロットの左腕がそれを難なく払い落とした。
「拒否。僚友救出を優先する」
「だったら僕も行く」
途中で隙を見てエクスニューロを奪えばいいのだ。
「その提案の正当な理由を」
「この作戦には後方支援は必要ない、突入部隊の戦力を最大化すべきだ」
君を守らねばならない、と言いたいところだが、アルフレッドはあえて、戦術上の合理性を説いた。今のシャーロットには、そのような言葉こそ通じるに違いない、と思って。
「理解した」